(1)愛新覚羅溥儀と溥傑
嵯峨浩(日本人)と愛新覚羅溥傑(中国人・満州人)が結婚した。日本では結婚によって姓が変わるが、中国では変わらない。したがって、嵯峨浩は結婚しても嵯峨浩である。愛新覚羅浩は自称である。
友人に、愛新覚羅浩(あいしんかくら・ひろ)の話をし始めたら、どうも話が通じない。友人が「♬花も嵐も踏み越えて~」と歌いだしたので、やっと「愛染(あいぜん)かつら」と勘違いしている、とわかった。「愛染かつら」は「恋」の小説であるが、愛新覚羅浩は「恋+激動の時代」の実話である。
余談ながら、「愛染かつら」は、戦前の恋愛小説で、映画にもなり、主題歌「旅の夜風」とともに大ヒットした。「愛染」とは愛染明王のことで、姿形は不動明王に似ているが、愛欲=悟り、煩悩即菩薩を意味する。「かつら」はカツラの木を意味する。小説家川口松太郎(1899~1985)が、長野県上田市別所温泉に滞在していたとき、北向観音境内のカツラの巨木と隣接する愛染明王堂を見て、「愛染かつら」の小説を着想し、その巨木は「愛染カツラ」と呼ばれるようになって、恋人の名所になった。
本題に戻って……。
「愛新覚羅」とは、満州の女真族の姓で、清(1616~1912)を建国した家系である。清朝最後の皇帝・ラストエンペラーが、愛新覚羅溥儀(ふぎ、在位1908~1912、生没1906~1967)である。映画『ラストエンペラー』の、2歳10ヵ月での即位のシーンは、今も覚えている。
愛新覚羅溥儀の同母弟が愛新覚羅溥傑(ふけつ、1907~1994)である。清朝時代、溥傑は溥儀の継嗣(けいし、あとつぎ)であった。
清朝崩壊後、溥儀も溥傑も、紆余曲折はあるものの、かなりリッチに暮らしていた。1923年の関東大震災に際して、溥儀は莫大な宝石類をもって義援金にすることを申し出た。つまり、ものすごい財産家であった。義援金の件は、日本側は面子のため、皇室が宝石類を受け取り、皇室が同額を寄付する体裁となった。
日本も含め列強各国は、溥儀・溥傑との距離間に苦心していたが、次第に、日本との距離が縮まっていった。陸軍は、満州経営のため、漠然と、溥儀・溥傑は利用価値がありそうだ、と思うようになったのだろう。
1929年(昭和4年)に、溥傑は日本に留学し、学習院高等科に通うようになった。住居は、杉並区天沼であった。井伏鱒二(1898~1993)の『荻窪風土記』にも、そのことが記載されている。
なお、溥傑は、1924年に、清朝王族の血筋の娘と結婚したが、性格不一致から、娘は実家に帰ってしまい、溥傑も日本留学をしたため、その結婚は自然消滅となった。
1931年(昭和6年)、満州事変勃発。日本陸軍は、傀儡政権「満州国」建国に乗り出した。
日本政府は当初、満州国に否定的であったが、陸軍の圧力、マスコミ・世論の熱狂によって肯定に舵を切るようになった。国民の大半は、「満州支配」=「不況脱出の決め手」という単純論理に大喝采した。
1932年(昭和7年)3月1日、満州国が設立された。形式的元首は溥儀が就任した。同年9月15日、日満議定書によって、日本は満州国を正式に承認した。むろん、100%傀儡国家である。
1934年(昭和9年)、満州国は帝政を取り、溥儀が「満州皇帝」となった。
1935年(昭和10年)、溥儀が初めて来日。
弟の溥傑は、その間、学習院高等科を卒業し、陸軍士官学校本科に入学し、1935年に卒業、陸軍見習い仕官となる。
1936年(昭和11年)1月頃から、陸軍主導の溥傑の縁談話が進行していく。満州皇帝溥儀には子供がいなかった。弟の溥傑が日本人妻と結婚し、男子を出産すれば、将来の満州皇帝となる。そんな未来図を描いていたと思われる。
(2)政略結婚ながら
戦前の上流階級の結婚とは、「家と家」である。本人の意向は、二の次、三の次である。
1936年(昭和11年)8月、溥傑は元関東軍司令官・本庄繁の邸宅で、十数枚の見合い写真を見せられた。その中から、溥傑は嵯峨浩(さが・ひろ、1914~1987)を選んだ。溥傑29歳、浩22歳である。
1937年(昭和12年)4月3日に軍人会館(現・九段会館)にて結婚式となる。
話が横道にそれるが、本庄繁は、第2次戦犯指名を受け割腹自殺した。第1~4次戦犯指名者(A級戦犯)は約100人いるが、自殺したのは、小泉親彦(陸軍中将)、橋田邦彦(文部大臣)、本庄繁、近衛文麿の4人だけだった。
さて、嵯峨浩のことであるが、嵯峨家は侯爵家である。父は嵯峨実勝(さねかつ)、母は尚子(ひさこ、濱口吉右衛門の長女)で、家系図をたどると、明治天皇の生母がいたり、大正天皇の生母がいたりする。浩は母の実家(濱口吉右衛門)の邸宅(現在、タイ王国大使公邸、品川区上大崎3-14-6)で育った。
侯爵家の娘は、お嬢様らしく素直に成長した。女子学習院高等科在学中、突然というか、当時では当然というか、お見合い話となった。相手は満州国皇帝の弟である。本人も侯爵家もビックリで困惑したが、貞明皇太后(大正天皇の皇后、昭和天皇の母)まで乗り出されては、もう拒否など不可能である。
もっとも、最初は災難のように感じていたが、周辺の情報から、溥傑が頭脳明晰、やさしい性格、立派な人格であることが明確になってきたので、安心の境地になっていったようだ。
昭和11年から12年にかけて、浩が親友に宛てた手紙21通が、杉並区郷土博物館(杉並区大宮1-20-8)に保管されてある。その中の3通が、結婚前の浩の揺れ動く心情が綴られている。読みたい方は、連絡してください。
嵯峨実勝の父、つまり浩の祖父は嵯峨公勝(きんとう、1863~1941)で、現在の杉並区郷土博物館の場所に邸宅を構えていた。現在、邸宅はなく、庭石ひとつだけが残っている。浩は母の実家で育っていたが、当時、一族の長老の権威は極めて大きく、また公勝の侯爵としてのプライドのため、浩は杉並区の嵯峨公勝の邸宅から結婚式場である軍人会館へ出発することになった。
4月3日、杉並区の嵯峨公勝邸にて、髪型は「大垂髪」(おすべらかし)、婚礼衣装は平安朝から伝わる「袿袴」(けいこ)である。大垂髪、袿(うちき)と袴(はかま)の説明には、専門用語が飛び交うので省略します。イメージは十二単という感じです。
午後0時5分に、杉並の邸宅を出発した。ゆっくりスピードの自動車の長い列が続いた。当時は自動車自体が数少ないので、沿道の人々は自動車の長い列に驚いた。要するに、大パレードである。
沿道には、先生に引率された小学生も並んだ。大宮尋常高等小学校は全学年約900人が参列した。新泉尋常小学校、和田尋常小学校、杉並第三尋常小学校は5・6年生が参列した。むろん、一般の参列者も多く、あまりの多さにお見送りを諦めた人もいたほどである。
大パレードのメインは、大垂髪と十二単の美しい浩である。車のスピードがゆっくりだったので、車の中の浩の姿はよく見えた、ということです。
結婚式を終え、2人の新婚生活は千葉県の稲毛海岸(現在、千葉市稲毛区)の家で始まった。この家は、千葉市有形文化財に指定され、「千葉市ゆかりの家・いなげ」と名付けられ、一般公開されている。千葉での新婚生活は約半年で、溥傑も浩も満州へわたる。
溥傑は、この半年の新婚生活が人生で一番幸せな日々であった、と回想している。完全な政略結婚であったが、夫婦仲はとてもよかったのである。
新婚ルンルン気分の時、1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件が勃発、つまり日華事変が始まった。
(3)満州での生活、そして流転
満州国軍の溥傑の地位は「上尉」であった。軍隊の序列は大雑把に言って、将官、佐官、尉官、下士官、兵卒となっている。したがって、尉官である上尉は、まぁ中隊長という感じである。つまり、特別に上級な軍人というわけではない。
しかも、満州の関東軍および日本人社会には、満州人・中国人を下等人種とみなしていた。こうした風潮は明治中期から広まり、とりわけ福沢諭吉が始めた『時事新報』は、中国人・台湾人・朝鮮人などは罵詈雑言で貶め、下等人種だから、何をしてもOKという意識を広めたようだ。
つまり、関東軍および満州日本人社会では、皇帝の実弟であっても、「下等な満州人」「たかが上尉」という感覚が強かった。そのため、愛新覚羅溥傑・浩の夫婦にとって、かなり居心地が悪いものであった。
そうであっても、夫婦仲はとても円満であった。
夫婦は、満州に渡ったが、満州に行きっぱなしではなく、溥儀の職場の関係で、数年おきに、満州と日本を行ったり来たりしていた。
1938年(昭和13年)2月、満州の新京(現在の長春)にて、長女・慧生(えいせい)が誕生。
1939年(昭和14年)4月、溥傑が駐日満州国大使館に勤務するため夫婦は日本に滞在。溥傑は10月に満州の奉天へ戻るが、浩は妊娠のため日本に留まる。そして、1940年(昭和15年)3月、次女・嫮生(こせい)が東京で誕生。同年6月、浩は再び満州の生活となる。
1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃で太平洋戦争勃発(日本、第2次世界大戦に参戦)。
1943年(昭和18年)春、長女・慧生を日本の嵯峨家へ預ける。学習院初等科入学のため。
1943年12月、溥傑が陸軍大学校に配属されたため、夫婦は東京に滞在。
1944年(昭和19年)12月、夫婦は新京へ戻る。長女・慧生は学習院初等科に在学していたため、東京に残った。
1945年(昭和20年)8月8日、ソ連が宣戦布告、翌日、満州へ侵攻。
1945年8月15日、日本、無条件降伏。満州国消滅。
溥儀と溥傑は、8月19日、早々にソ連に拘束される。2人はソ連に抑留された後、中国の撫順(ぶじゅん)戦犯管理所に収監され、溥儀は1959年に釈放され、溥傑も1960年に釈放された。
撫順は満州の地方都市名であるが、ここには約1000人の戦犯が収容された。強制労働や学習など一切なく人道的待遇がなされ、収容者は自ら侵略戦争を反省した。あまり知られていないが、「撫順の奇跡」と言われる。
浩と次女・嫮生の運命はどうなったか。流転の日々が始まった。浩の自伝『流転の王妃』に詳しく書かれてある。これは映画にもなった。
なお、「王妃」とあるが、夫・溥傑は王ではないから、浩は王妃ではない。たぶん、本の売れ行きは題名が大きく作用するので、そうしたのだろう。
浩と次女・嫮生の流転は、「悲惨」の一語につきる。暴徒に襲われ財産ゼロ。八路軍(中国共産軍)に連行されて、通化(つうか、朝鮮に近い市)で軟禁。そこでの生活は、そこそこ丁寧だったが、「通化事件」(1946年2月3日)に巻き込まれた。
通化事件の実相はよくわからないが、悲惨・悲劇である。鳥観的に眺めれば、通化の地は八路軍の末端が支配している(中央の指令が行き届かない)が、近隣には中国国民党軍、日本軍残党がいる(らしい)、流言飛語が飛び交う。そこで、一部の日本軍人が一般日本人を扇動して八路軍に向かった。こん棒で機関銃に戦いを挑んだようなもので、犠牲者は800人とも3000人ともいわれている。
浩・嫮生を含む愛新覚羅一族も巻き込まれ、溥儀の乳母が片手を飛ばされ、出血多量で死亡した。
その後、八路軍によって、転々と移動する。厳しい尋問があった。そんなどん底にあっても愛新覚羅一族への愛を貫いたた。重度アヘン中毒の皇后・婉容(えんよう、1906~1946)の世話は、どんなに大変だったろうか。
八路軍から釈放されて、いよいよ日本へ帰国となったが、今度は中国国民党軍に連行されて北京で監禁の身の上となる。北京では、監視つきながらも溥儀・溥傑の実父である醇親王(じゅん・しんのう、1891~1949)に面会している。幸運やら他人の勇気ある援助によって、北京から脱出し、1946年12月28日、上海からの最後の引揚船に乗船できた。流転は1年5ヵ月で終わった。
(4)浩と溥傑の再会
嵯峨家に戻った浩と次女・嫮生は長女・慧生と再会した。溥傑の消息は不明ながら、一応、静かな生活となった。次女・嫮生は、日本語ができないので日本語を勉強する。一方、長女・慧生は中国語と漢詩を熱心に勉強した。母も妹も、そして消息不明の父も中国語ができる、自分だけが中国語をできないという孤立感があったものと想像するが、次第に、具体的な目的が明確になっていった。
父・溥傑の消息を知るために、周恩来(1898~1976)へ手紙を出すことであった。何度も何度も手紙と写真を出した。そして、1954年(昭和29年)、撫順にいる父・溥傑から浩の元へ、日本赤十字を通じて手紙が届いた。そして、浩たちと溥傑の文通が始まった。
そこへ、突然の悲劇が発生した。1957年(昭和32年)、長女・慧生が伊豆の天城山で不慮の事故死となった。世に「天城山心中事件」と言われている。どうも、相思相愛の心中ではなく、男のストーカー的偏執愛であった。慧生が他の男子学生と親しく会話をすると、その男を殺すと言う、つれない素振りをすると、真剣に自殺を口にする。状況的には無理心中のようだ。
浩は、そのショックから立ち直るため『流転の王妃』(1959年発売)を執筆した。
1960年(昭和35年)12月、溥傑、特赦で北京に戻る。しかし、まだ日中国交回復以前のため、再会は半年後であった。
1961年(昭和36年)5月、浩・嫮生は中国の広州で16年ぶりに再会する。嫮生著『流転の子』には、そのときの光景を「飛びついていくような感じではございませんでした。(中略)再会してすぐに父と母が自然に腕を組んで歩き始めましたので、二人の変わらぬ強い絆を感じて」と記述している。映画ならば、観客の涙あふれるシーンである。
再会して、浩と溥傑は北京で暮らす。嫮生は日本へ帰る。
1978年(昭和53年)、日中平和友好条約が締結される。
浩が、そのとき、詠んだ歌が2首ある。
からくにと 大和のくにが むすばれて 永久(とわ)に幸あれ 千代に八千代に
ふたくにの とわのむすびの かすがいに なりてはてたき 我がいのちかな
1987年(昭和62年)、浩、北京で死す(享年73歳)。
1994年(平成6年)、溥傑、北京で死す(享年90歳)。
嫮生は、両親および姉の意思を継いで、日中友好のため活動している。
愛新覚羅浩の生涯は、日中友好を背景にした、2人の愛の物語である。小説の「愛染かつら」よりも「愛新覚羅」は、事実は小説よりまさる……と思う。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。