ウクライナから日々伝わる惨状に、日本でも多くの人が胸を傷め、似た焦燥を感じているはずなのに、この戦争から何らかの教訓を得ようとする議論は玉石混交、というよりも正直「石」が目立つ。たとえば手放しの「愛国心賛美」である。ウクライナ人は立派、平和ボケした日本でも愛国心を高めるべし――。この手の「愛国心礼賛者」は、ロシアサイドに目を移し、国民を真綿のように締め付ける「愛国心」の恐ろしさを考えようとしない。「身捨つるほどの祖国はありや」(寺山修司)という自問にこそ、ことの本質はあるのだが。


 アメリカや西欧諸国も侵略戦争を重ねてきた――。民主vs.専制の「新冷戦」に関しては、そんな異論がある。確かにその通りだが、脛に傷を持つ国同士「どっちもどっち」で終わらせては、世界はまた帝国主義時代になる。欧米が中ロより明らかにましなのは、自国の罪過を自国でも問い続けてきたことだ。アメリカなら先住民虐殺や奴隷制、ベトナム戦争での残虐行為など、スペインならインカやアステカの文明を非道に滅ぼした過去やフランコの独裁について、それぞれの国内に批判的な言論や研究の蓄積があり、国民も広くその議論を知っている。国としての反省は足りなくても、「不都合な歴史」の議論に蓋はしていない。その点が専制主義国とは明確に違う。俗に言う「自虐史観」の存在こそ両者を区分するメルクマールになるのだが、日本の論者にはその理解が危うい人がいる。


 このところの雑誌の見出しには、核共有論など勇ましい話も増えてきた一方で、作家・高橋源一郎氏がサンデー毎日で書いている連載コラム『これは、アレだな』の内容には、淡々と多面的に戦争を考察するヒントがあり興味深い。毎回数冊の本を取り上げる書評記事風のエッセイだが、ここ3週間ほどはウクライナ危機を考える本を中心に選んでいる。


 先々週号は『「同志少女」の敵は誰』というタイトルで、本屋大賞に選ばれた逢坂冬馬氏の話題作『同志少女よ、銃を撃て』を詳しく論じているほかに、この小説の下敷きになったと思われるノーベル文学賞のノンフィクション大作、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』、そしてやや視点をずらし、日本人のサブカル的「戦闘少女好き」について、斎藤美奈子氏の『紅一点論』、斎藤環氏の『戦闘美少女の精神分析』を取り上げている。


 続く先週は『ウクライナとロシアと』と銘打って、『死せる魂』『外套』『鼻』などを書いたロシアの文豪ニコライ・ゴーゴリがウクライナの出身であることを紹介し、やはりロシアの作家として認識されてきたミハイル・ブルガーコフ(代表作『犬の心臓』『巨匠とマルガリータ』)もキエフ(キーウ)の医師だったと説明。専制主義国のなかでさらに被征服民的な二重の抑圧を受ける立場にいた作家の内面に思いを寄せている。そして今週号は『関東軍かプーチンか』。今回の問題で旧日本軍による満州事変へと思いを巡らせる人たちに向け、近現代日本史の名著とされている加藤陽子・東大教授の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を挙げ、さらに連日ニュース解説でテレビに出演するロシアの軍事専門家・小泉悠氏の近著『現代ロシアの軍事戦略』にも触れている。


 時間さえあれば、全部目を通したい衝動に駆られるが、残念ながら私が既に読んだのは加藤教授の著作だけ。『同志少女よ、銃を撃て』は、いずれ読む「積ん読」を覚悟して、とりあえずアマゾンで発注した。それにしても、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の加藤氏が2年前、公安畑の官邸官僚(日本版のシロビキ?)に目を付けられ、菅儀偉・前首相が学術会議新会員から排除した6人の1人になったことは、何とも苦々しい。日本政府の価値観が「西側先進国」でかなり異質に思えるのは、自国の優秀な研究者にこのような思想的な圧迫をする陰湿さに「中ロ的なもの」が見て取れる例があるためだ。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。