●ウクライナで消し飛んだコロナ後世界の展望


 コロナ後を、活字文化は、とくに医療に関連する文化は何を発信しているかという目論見でこのシリーズを開始した。


 前回は、昨年11月末に出版された本田宏編著の『日本の医療はなぜ弱体化したのか 再生は可能なのか』で、都立駒込病院の看護師、大利英昭氏が「ポストコロナの時代に際して」を語り、2つの変化を予測していることを紹介した。


 そのなかのひとつは、患者の受診行動の変化。フリーアクセスを原則とする制度的変化はないが、患者自身が受診を手控え自然治癒の経験値が大きくなると、必然的に受診が抑制されてしまうという。大利氏は受診が遅れれば重要な疾患を見逃す危険性が高まると懸念している。


 このことが医療機関経営に大きな影響を与えるであろうことは必然だが、この稿の筆者の私は、制度への影響も小さくはないとみる。フリーアクセスではない世界を強いられてきた市民が、人頭払い方式などの制度変化を許容する可能性が大きくなり、為政者側にはひとつの口実を与える可能性も出てくるだろう。


 さらに、医療の優先順位付け、いわゆるトリアージに対する理解も進むのではないかとも考えられる。コロナ禍の第5波、第6波では、自宅療養者が大幅に増え、入院現場ではトリアージが不可避になったことは見逃すことはできない。命に順番をつけるという大胆な議論に結びついていくと安直に考えるつもりはないが、現実的に、年齢や緊急度、救命率で医療の方針が決まっていくということに異論を唱える空気は弱まるだろう。それは今後、自然死、尊厳死などというものと一体化した、というか混然とした論議の呼び水となり、安楽死への道程を作り出すかもしれない。


 大利氏の2点目の指摘は、リモート診療の拡大。いわゆるオンライン診療だが、これが定着すると、患者の通院負担は減る。しかし、ICTにアクセスできない高齢者は診療機会が必然的に減ってしまうというリスクも呼び込みかねない。むろん、この問題は技術的なサポート体制である程度克服できる可能性はあるが、Face to Faceではない診療に従前の信頼感を継続できるか微妙なところだ、ということなどを前回指摘した。


●医療と介護の一体化は速度早める


 筆者は、コロナ後の医療に関する具体的な予想としては、大利氏の指摘は間違わないと思う。ことに受診控えの観測は大きな転機になるかもしれず、医療施設・機能の現状の変革を促す可能性もある。診療所は現行の体制で経営が保っていけるのかどうか、訪問診療が叫ばれていても、大多数の医師が施設で患者を待つという構図が、いつまでも続くのかどうか。


 さらに、医療と介護の境界に対する基本的な論議が起きると、診療報酬、介護報酬という現行の制度の建付けと区分が合理的な政策なのかという議論も出てくるだろう。あえてコロナに言及してはいないが、訪問診療医として在宅医療の現場を預かっている小堀鴎一郎医師は、医療と介護の両方に目を配りつつ、介護事業所が理想的に運営されるならば、つまり「すべての人間が死の間際まで人間としての尊厳が守られる居場所として極めて油工に機能している」(一冊の本4月号)ならば、看取りの場所として受け入れられる可能性を示唆している。小堀医師は、現状では「地域密着型通所介護施設」が基準を超えたサービスを行うことを認めない行政施策を肯定しながらも、あるべき仕組みを考える契機が生まれたことを、自らの経験として報告している。


 介護と医療をシームレスに提供する包括的なヘルスケアの理念は、80年代後半からひとつのテーゼとして語られてきたが、コロナで経験した国民のフリーアクセスの実質的な抑制の受容、在宅療養、トリアージが目前に見えたこと、看取られる場所、尊厳ある「死に場所」という思惟の経験は、2025年からの地域包括ケア体制の理念に対する、かなり直截的な理解に結びつく可能性を大きくしたように思う。


 たぶん、その行きつく先は、医療と介護の制度的一体性への希求が膨らむと同時に、キュアよりケアに大きな制度の重心が動いていくはずだ。


●世界の関心事はウクライナに


 と、ここまできて、筆者の「コロナ後の医療の世界」に関する活字の渉猟は立ち止まってしまった。むろん、筆者が見つけられないコロナ後の医療の語り部は相当に現れていることは想像に難くなく、この立ち止まりは筆者のサボタージュの匂いも濃厚だ。


 しかし、論壇や散文的な世界をみても、このところの活字の関心はロシアによるウクライナ侵攻の問題に埋め尽くされており、コロナ感染そのもの、ましてやコロナ後の話も語られるスペースを失っているようにみえる。コロナ感染への対応事態も、統一感はとっくに薄らぎ、それは世界的な関心事の遷移と同一歩調をとっている。


 欧米では、すでに多くの地域がロックダウンを解除し、街中の賑わいも戻りつつある。大谷翔平が活躍するロサンゼルスのスタジアムの開幕カードの光景は、マスクなしで応援する多数の人々で埋まっていた。欧州のサッカー場の光景も19年以前に戻ったかのようだ。しかし、コロナ自体が衰亡の途上にあるわけでもない。日本では、オミクロン株がその姿をマイナーチェンジしながら感染者数を5万人内外で横ばいに推移させており、感染者ゼロを目指してきた中国では、上海で1日数万人の感染者を数え、当局のロックダウンにも限界が見え始めている。


 こうした状況下で、コロナ後の医療を含めた社会生活に対する予測が出始めた瞬間に、活字世界はウクライナに飛んだのである。ウクライナに関しては戦況や、各国リーダーの動向、民間人の避難などが報じられるが、コロナ感染などはないような報道が続く。実際、ないのだろうか。コロナが蔓延すると、インフルエンザの罹患率が減ったように、戦争が始まるとコロナが終わったのかと思えるほどだ。しかし、100年前のスペイン風邪では、世界的な感染蔓延の要因が戦争だったではないか。


●日本人はマスクを外せるか


 筆者は、コロナの蔓延に戦争が負ける日が来るのではという奇妙な期待のようなものを感じるときがある。そして筆者なりに、日本のコロナ後の世界を考えてみることが増えた。


 医療的には、前述したように受診に対する国民の姿勢が大きく変化するだろうし、受診の形態もオンラインという選択が一般化する気配がみえる。また「死に場所」に関する考え方の変化も生まれるだろう。


 社会生活的にはどうだろうか。2019年のラグビー・ワールドカップのようなスタジアムの光景はもう日本では見られないかもしれない。外食や居酒屋の風景も以前のような雑然さは戻らないかもしれない。オンラインの浸透によって、労働者の勤務形態も大きな変化を生むかもしれない。そして、日本人はもうマスクを手放さないかもしれない。マスクを外すためには、特別な運動やキャンペーンが必要になるのではないか。


 筆者が一番警戒するのは、このマスク文化の過剰な定着だ。むろん、それはコロナ後の日本社会の象徴として語りたいのだが、マスクを外すのに勇気のいる社会は、さらにこの国の「同調圧力」を高める。そこについていけない人はバッシングされ、居場所を失う可能性は高くなるだろう。そこまで行くと、日本人とその社会はようやく自らが「病んでいる」ことに気付くかもしれない。


 そういう意味もあって、コロナ後の世界は、ウクライナの活字が減ってからまた戻ってくるのだと思っている。このシリーズはその間、休みとしたい。次回からは、「反ワクチン運動とジャーナリズム」について触れていきたい。(幸)