週刊新潮に連載されている橘玲氏のコラム『人間、この不都合な生きもの』は、スタートして間もないころ少し触れているが、相変わらず気になる欄であり続けている。その最大の特徴は、人間社会のさまざまな問題を、諸外国の心理学・脳科学的な知見を引き合いに出し論じてゆく点だ。文章の読みやすさを優先してのことか、各コラムで言及する心理学実験等について、1つひとつ何という研究者がいつ明らかにした論文、という形で必ずしも出典を明示せず、その点が信頼性、という面でいささか不安にもなるのだが、とりあえず筆者が各研究の成果を捻じ曲げず、誠実に伝えている、という前提で読み進める以外にない(こういったところで専門家にケチを付けられると、この手の読み物は命取りになる)。
という留保付きではあるのだが、人間社会のさまざまな論争をどちらが正しいか、というありがちな論法とはまた別に、ある種動物科学的な側面から分析する切り口には「目から鱗」的な新鮮さが時々ある。今回のテーマは「共感力」。記事のタイトルは『愛は世界を救うのか』と付けられている。
現代社会では戦争や差別を解決する手段として、他者への共感力を高める必要が唱えられている。筆者はそんな前提から説き起こし、オキシトシンという神経伝達物質が人間の共感力に大きく作用することを説明する。見知らぬ他者に金銭を預ける実験では、被験者の鼻にオキシトシンを噴霧すると、相手への信頼度が高まる結果になるのだという。つまり、世の不条理に苦しむ人々への共感も、意志の力や教育でそれを高めるより、体内のオキシトシン濃度の高低によって影響される面が大きいということらしい。
では、誰もが日に数回、オキシトシンを吸引するようになれば、今よりもずっと住みやすい世の中になるのだろうか。そんな簡単な話ではないことを示す実験があるという。線路を暴走するトロッコの先に5人の作業員がいて、彼らを救うには切り替えスイッチを押し、進路を変える以外にない。ところが、その支線の先にも1人だけ別の作業員がいて、被験者は5人と1人、どちらの命を助けるか、という選択を迫られる。
で、結論を言うと、この1人の犠牲者を選ぶとき、被験者ら(ここではオランダ人)は自分と同じオランダ人、あるいは同じヨーロッパのドイツ人、あるいはアラブ人、と人物像を変えてみても、ほぼ同じ実験結果を示したが、オキシトシンの吸引後は、オランダ人>ドイツ人>アラブ人という順で、明確に救おうとする判断に差が出たという。
筆者はこの結果から、オキシトシンは他者への憎悪を煽りはしないのだが、身近な相手への「愛と絆」を高める効果を持ち、そのことが結果的に排他的な行動を促す面があると結論付けている。つまり、特定の個人や集団に共感力を強く持つことは、反面、それ以外の人々に冷たい態度をとることになりかねず、結果的に「対立と分断」を深刻化させてしまうというのである。
よく「地獄への道は善意で舗装されている」とか「正義感に燃える人は危うい」とか、聞いたようなセリフで、どっちもどっち論、冷笑主義を振りかざす人がいる。これはこれで問題から目を背け「不正義を許容する人」の自己弁護に聞こえてしまうのだが、「特定の対象への過度な共感は対立と分断を深刻化させかねない」という言い方を、このコラムのような論法で聞かされると、そうなのかもしれない、と考えさせられる。
要は正義と不正義を判断する普遍性のある価値基準を持ち、対象者への好悪の情などでその尺度をブレさせないことが肝心だということになるのだろう。でも、果たしてそういった「公正な判断」は、心理学・脳科学的にどれほど人間に期待できるものなのか。なんてこともつい気になってしまう。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。