今週は各誌GWの合併号。週刊文春はその特集企画のひとつとして『稀代のコラムニスト没後20年 いつも心にナンシー関』という記事を載せ、平成の芸能界を辛辣に、そして奥深く活写した懐かしい才能を取り上げた。「消しゴム版画家」として文章に似顔絵も添え、週刊朝日『小耳にはさもう』、週刊文春『テレビ消灯時間』などの雑誌コラムで一世を風靡した。39歳で早世し、全盛期は10年ほどだったが、センス抜群のそのコラムは一線のメディア関係者に実によく読まれていた。あとにも先にも彼女しかいないジャンルを切り開いた人だった。
そのコラムの特徴は何よりも、「テレビ画面から伝わる感覚」に奥深く分け入って、痒いところに手が届くような分析をするところだ。面白い・つまらない、感じがいい・悪い、というような大味な評価ではない。たとえば、ある番組を見て「そこはかとない違和感や引っかかり」を覚えたなら、いったいそれはなぜなのか、その正体をとことん掘り下げてえぐり出す。モヤモヤと言語化できずにいたものが、ナンシー関ならではの筆さばきで明示され、「そう言われれば確かに」と読者は膝を打つのである。
それはときに底意地の悪い筆致にもなるのだが、彼女はあくまでもテレビの前でブラックな独り言をつぶやく一視聴者であり続ける。「テレビ画面に映ったこと」をあれこれ論じるだけ。そんな構えだと、けなされた番組制作者もタレントも、なかなか文句は言いにくい。「持ちつ持たれつ」の芸能記者とはスタンスがまるで違うのだ。
執筆者は違うが、私が過去、週刊誌で読んだ芸能コラムのうち、今でも鮮烈に記憶しているものに、作詞家の阿久悠が昭和期に愛弟子・和田アキ子のことを書いた一文がある。細かい言い回しは忘れてしまったが、要は日本人離れしたブルースシンガーとしての才能を若き日の彼女に見出し期待していたのに、本人はその後、歌手とは名ばかりのタレント・芸能人になり、しかも何だかよくわからない「偉いご意見番」みたいな人になってしまった。阿久は彼女へのそんな失望を赤裸々に綴っていた。かつての恩師からの痛烈な叱責だが、果たして本人はこのコラムをどう受け止めたのか。結局、芸能界の「ゴッドねえちゃん」という立ち位置は、阿久のコラム以後も今日まで変わっていない。
と、そんな大昔の記事を思い出したのは、今回採録されたナンシー関のコラム計6本に『和田アキ子「ご託宣」はそんなに有り難いか?』というものがあったためだ。ナンシーは久しぶりに見たワイドショー『アッコにおまかせ!』の印象に言及する。《変な感じの番組になっちゃってたなあ。(略)もともとこの番組は和田アキ子を絶対君主とした国家のような構造の番組ではあった。共演者はみんな従順な家来。(略)しかし、そこに繰り広げられている「強」と「弱」のコントラストには(いまはもう)君主と家来という(番組演出上の)「見どころ」はなく、何か厨房のスミでチーフに怒られている新入りを見るような感じに近い。見てはいけないモノを見てしまった後味の悪さ。見なきゃ良かったという後悔》
阿久悠のような特別な立場にない、まるっきりの赤の他人だが、ナンシーは「大御所の和田アキ子」を臆する様子もなく批判する。《世間は、和田の言葉を渇望しているのか。わけねーのに》と。特集にある他のコラムでは、SMAP全盛期のキムタクや吉本興業にも忖度なく噛みついている。一方、別の1本では漫才コンビ「猿岩石」時代の有吉弘行について「ふてぶてしい」「ひたむきさに欠け、体温が低い」という独特な印象を指摘、それは有吉本人の「生身の人間としての強さ」に由来するのだろうと、20年後の大ブレイクを見越したような見方を示している。どんな大物にもたじろがずペンを振るい、一方で若手タレントのたたずまいに大気の片りんを見抜いて見せたりもする。特集タイトルにある「稀代のコラムニスト」という言葉は、まさしくナンシー関にふさわしい形容である。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。