(1)長崎原爆


 永井隆(1908~1951)の名前だけを聞いてもわからないが、『長崎の鐘』の人と説明すれば、ぼんやり思い出す人も多いのではなかろうか……。


 島根県松江市の医師の子として生まれた。小・中・高の時期の説明は省略して、1928年(昭和3年)に長崎医科大学(現・長崎大学医学部)へ入学する。下宿先は浦上天主堂近くの森山家であった。森山家の先祖は隠れキリシタンの指導的立場にあった。当然、森山家は熱心なカトリックの信者であった。その一人娘が緑(洗礼名:マリア)である。なんとなく、ほのぼの青春物語である。緑は、後に永井隆と結婚する。


 下宿家の娘がカトリックなので、永井隆もカトリックになった、というわけではないが、いろいろな経緯がからんで、次第にカトリックへの関心を深めていったようだ。


 大学を卒業して、レントゲン科で放射線の研究をした。


 満州事変(1933年)に、軍医として従軍した。緑から『公教要理』が送られ、熱心に読んで、どうやらカトリック信者になることを決心した。『公教要理』はカトリックの初級教材で問答形式になっている。むろん、それまでに、カトリックや哲学の断片的知識は、それなりにあった。思うに、戦争という極限環境にあって、断片的知識が『公教要理』によって統合された、ということだろう。


 1934年(昭和9年)、大学の研究室に復帰し、同年6月に浦上天主堂にて洗礼を受ける。そして、同年8月、森山緑と結婚する。


 妻の紹介で、「聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会」に入会する。この会は、恵まれない人々を支援する世界的なボランティア団体である。永井隆は、無料診断という奉仕活動を行うようになった。


 1935年(昭和10年)、急性咽頭炎に蛋白刺激療法を自分の身体で試したら危篤になってしまった。そのため、カトリックの「終油の秘蹟」(しゅうゆのひせき)を受けた。

 

 若干、「終油の秘蹟」の説明を……


 カトリックには、伝統的に7つの秘蹟がある。現代は次のようになっている。


入信の秘蹟……洗礼・堅信・聖体

いやしの秘蹟……ゆるし・病者の塗油

交わりと使命を育てる秘蹟……叙階・結婚


 永井隆が生きていた頃は、「ゆるしの秘蹟」は「悔悛の秘蹟」と呼ばれていた。また、「病者の塗油」も「終油の秘蹟」と呼ばれていた。「終油の秘蹟」と呼ばれていた頃は、もっぱら臨終のときだけであったが、「病者の塗油」と呼ばれてからは、臨終だけでなく大手術の場合も受けられるようになった。


 本題に戻って……。永井隆は、危篤に陥ったが、さすがに長崎医大でありまして、死ぬ命が助かった。


 日華事変(1937年)が勃発して、軍医として、大陸へ出征。現地では、日本軍人だけでなく中国人の医療にも関わり、また、ヴィンセンシオ会を通じて援助物資を配った。そのため、現地の知事からも大いに感謝され、書を贈られた。


 約3年半の大陸軍医生活を終え、1940年(昭和15年)に帰国し、長崎医大に復職した。大学では、結核のX線検診に従事したが、フィルム不足で透視による診断を続けたため、1945年(昭和20年)6月に、白血病と診断され、余命3年と言い渡された。


 永井隆の戦争に対する態度は、皇国のため、婦人部の竹槍の指導を熱心に行っていたことからもわかるように、日本必勝であった。


(2)8月9日


 そして、運命の日が到来した。1945年8月9日、長崎に原爆が落ちた。


 その日、永井隆は、爆心地から700mの長崎医大の診療室にいた。頭部に大怪我をしたが、頭に布を巻いて続々と運び込まれる負傷者の治療にあった。永井隆が、それが原子爆弾と知ったのは、翌日、米軍が撒いたビラを読んだからである。放射線の専門家であるだけに、恐怖のため顔が真っ青になり、大粒の汗がしたたり落ちた。心が大変化したか、大変化の確信的予感が、身体に現れたのだ。


 8月11日、帰宅したら、妻は骨片となっていた。


 8月12日、子供が疎開していた三山(長崎市西浦上)に行き、そこを救護本部とした。自分の命を削って救護活動にあたった。そこは地獄だった。


 9月10日、フラフラ、息も絶え絶えとなり死を覚悟し、辞世の句を詠んだ。


  光りつつ 秋空高く 消えにけり


 そう詠んで昏睡状態となる。かろうじて意識が復活したが、昏睡状態が繰り返された。そして、「終油の秘蹟」を受けた。また、「ルルドの水」を飲んだ。


 「ルルドの水」とは……


 フランスのピレネー山脈麓にある「ルルドの泉」の水です。19世紀中葉、少女ベルナデットが聖母マリアと遭遇しました。聖母マリアの言いつけどおり手で土を掘ると、水が湧き出た。そして、その水は病気を治す力を有する聖水であった。直ぐに、この話はヨーロッパ中の広まり、その地に大聖堂が建設され、カトリックの有数な巡礼地となりました。


 永井隆の身にも「ルルドの水」の奇跡が起こった。病状がやや回復し、救護活動ができるようになったのだ。


 三山救護所の活動の合間に「原子爆弾救護報告書」を執筆した。


 1946年(昭和21年)1月、長崎医大教授に就任。しかし、同年、7月からは病床の身の上となる。


 1948年(昭和23年)、原爆で荒野となった長崎浦上の地に桜の苗木1000本を寄贈。浦上天主堂をはじめ各所に植えられ、「永井千本桜」と呼ばれる。


 1948年3月、カトリック教会や浦上の人々が、永井が養生できるように、2坪程度の庵を造った。浦上の人々は原爆で無一文であったにもかかわらず、寄付をしたのは、永井の献身的な救護活動を知っていたからである。それは、「己(おのれ)を愛するが如く、汝の隣人を愛せ」(マタイ福音書)の実践であり、感銘した永井は「如己堂」と名付けた。


 同年10月18日、ヘレン・ケラー(1880~1968)が突然に見舞いに訪れた。何が彼女を突き動かしたのだろうか……。


(3)『長崎の鐘』


 1949年(昭和24年)1月、随筆集『長崎の鐘』が出版され、紙不足の時代にあって驚異的に売れた。


 1945年8月9日の原爆で、浦上天主堂は廃墟になったが、瓦礫の中から、鐘が掘り出された。奇跡的に鐘は壊れていなかった。「長崎の鐘」とは、この鐘を指し、今も鳴り響いている。


 随筆集『長崎の鐘』の原稿は、1946年(昭和21年)8月頃には書き上げられていた。内容は、8月9日の原爆投下から約1年間の出来事であった。人類史上最大悲劇、原爆の悲惨を後世へ書き残す強い意思が原動力であったと思う。


 原稿は書いたものの、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の検閲により、なかなか出版許可が下りなかったが、GHQから、日本軍のマニラ大虐殺の記録集『マニラの悲劇』との合本を条件に、前述のように、2年半後の1949年(昭和24年)1月に出版された。


 マニラの悲劇とは、太平洋戦争末期の1945年2月3日から3月3日までのフィリピン首都マニラで、日本軍とアメリカ軍で戦われた市街戦で、市民70万人のうち10万人が巻き添えで死んだ。日本陸軍の現地司令官・山下奉文はマニラ放棄の考えであったが、大本営陸軍部はマニラ死守であった。海軍もマニラ死守であった。陸軍でも海軍でもマニラ放棄の意見もあったが、結局は、マニラ死守(つまり大市街戦)となった。そうなった最大理由は、軍事的要因よりは奇妙な精神論であったようだ。


 ともかくも、『長崎の鐘』はベストセラーとなった。


 1949年5月27日、昭和天皇に拝謁。


 同年5月30日、「フランシスコ・ザビエルの聖腕」に接吻し、ローマ教皇特使の見舞を受けた。当初は、場所は如己堂が予定されていたが、畏れ多いということで、永井が浦上公民館に出向いた。


 フランシスコ・ザビエルの聖腕とは……


 ザビエルは日本布教の後、中国で病死したが、その遺骸は石灰を詰めた棺に納められた。マラッカ経由でインドのゴアに保管された。「ザビエルの遺骸が腐らない」と伝え聞いたイエズス会は、右腕を切断させたら鮮血がほとばしる「奇跡」が生じた。それゆえ、ザビエルは聖人に列せられた。この聖腕はローマのジェズ教会の「聖フランシスコ・ザビエル礼拝堂」に保管されている。ザビエルの遺体に接した人は「苦から解放される」と信じられている。


 1949年(昭和24年)7月、藤山一郎歌、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲の歌謡曲『長崎の鐘』が発売され大ヒットする。


 1950年(昭和25年)5月、ローマ教皇特使が見舞いに訪れ、ロザリオを下賜される。ロザリオとは、装飾品として首にかけるものではありません。数珠状のカトリックの宗教道具です。


 1950年11月、アルゼンチン大統領夫人エヴァ・ペロンからルハンの聖母像を贈られる。永井がルハンの聖母像を欲していると知ったからである。


 エヴァ・ペロン(1919~1952)は、無学・貧困・娼婦であったが、大統領夫人になった。庶民貧困層のための無手勝流の再分配政策を強行して、圧倒的な人気を得ていた。彼女が死んでも、ペロン主義は庶民貧困層に根強い支持があり、現在も正義党として一定の政治勢力を保っている。


 ルハンの聖母像は、17世紀のブラジルのサンパウロで作られ、アルゼンチンのブエノスアイレスへ牛で運ばれていた。ブエノスアイレスの近くのルハンまで来たら、牛が一歩も動かなくなった。何をしても牛が動かない。聖母像の箱を下ろしたら、牛が動き出した。「聖母像は、この地に留まりたい、と願っている」と皆が信じ、その地の民家に聖母像を預けた。皆は「奇跡」と信じた。その後、あれやこれやの末、アルゼンチン有数の聖地となった。


 1951年(昭和26年)5月1日、死去。長崎市は市公葬を行い、参列者は2万人を数え、正午には全市の寺院・工場・船舶の鐘・サイレン・汽笛が鳴り響いた。


(4)新しき 朝の光さしそむる 荒野に響け 長崎の鐘


 藤山一郎歌、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、「長崎の鐘」の作詞です。


こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

こころの罪を うちあけて
更けゆく夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る


 この歌は、1951年(昭和26年)1月3日の第1回紅白歌合戦(ラジオ)の大トリであった。このとき、藤山一郎は、3番の後に、永井隆作詞、藤山一郎作曲の「新しき朝」を付け加えた。


 新しき 朝の光さしそむる 荒野(あれの)に響け 長崎の鐘


 その後も、1964年(昭和39年)の第15回紅白、1973年(昭和48年)の第24回紅白、1979年(昭和54年)の紅白でも歌われた。当時の視聴率は70%以上であった。


 紅白歌合戦は楽しい歌謡ショーであるが、この歌のときだけは、みんな厳粛に平和を祈った。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。