米軍の統治下にあった沖縄が本土に復帰して今年で50年。NHKの朝ドラではまさにその半世紀前、沖縄に生きた家族を描く『ちむどんどん』が放映され、ここしばらく1972年を生きていた主人公・比嘉暢子は来週からいよいよ料理人修行のため、故郷を背に東京へと移り住む。一方で、5月15日の復帰記念日に向けたテレビや新聞の報道では、戦後、米軍による事件事故、無法ぶりに苦しんだ沖縄の人々がようやく勝ち取った本土復帰だったのに、結局は「基地の島」という現実は解消されないまま。そんな落胆の半世紀であったことが、改めて回顧されている。


 数年前、翁長雄志・前知事を先頭に高まった反辺野古の闘争も、安倍・菅政権によるゴリ押しの強硬策に押し潰され、その意味でも現地には改めて八方ふさがりの無力感が漂っている感がある。


 雑誌媒体では今週号のアエラが『“沖縄”誇れる時代になった』という特集記事を組んでいる。沖縄県民が集中する本土の街として、横浜市鶴見区(『ちむどんどん』の暢子が住む街もどうやらここらしい)と大阪市大正区を歩いたルポがメインだが、たまたま文中にそういうコメントが登場するとはいえ、記事全体の重いトーンとはかなりずれている部分的な言葉を抜き取ったタイトルの付け方には、正直、違和感を禁じ得ない(“沖縄の苦しみ”を描いても売れない、という商売上の判断かもしれないが)。ルポを書いた記者と見出しを付けた編集部の沖縄認識に、埋めがたいギャップがあるように感じられてしまうのだ。


 思い起こせば、私自身が沖縄取材にのめり込んだのは、2015年、翁長県政が迎えた最初の復帰記念日に開かれた県民大会からだった。以来、週刊朝日や月刊世界の連載で約4年間、1年の半分ほどを沖縄で過ごす取材生活を続けたが、貧乏ライターの悲しさで、そうした企画が終了してしまうと、なかなか自力では現地に通えない。さらには、コロナの蔓延も大きな障害になってしまっている。


 それにしても、これだけの時間をかけ、ようやくわかったのは、それまでの自分の無知だった。とくに驚かされたのは、1972年の本土復帰を境にした沖縄現代史の「捻じれ」の存在だ。沖縄の保守・革新の立ち位置が、このときから真逆に入れ替わったのだ。沖縄戦の流れを受け「鬼畜米軍」による統治を拒否、日の丸を打ち振って本土復帰を願ったのは、教職員を中心とする革新系の人だった。


 かたや、新興の戦後保守勢力は、米軍支配に順応し、再び日本に組み込まれる状況など、真っ平ごめんとこれに反対した。彼らには戦前戦中の被差別体験で「ヤマト嫌い」も多かった。いっそのこと米国領になる、あるいは琉球の独立をめざす、そういった意見も保守側の声だった。


 そう、あくまで日本人であろうと願ったのが革新系、それに水を差し続けたのが保守系であり、あろうことか60年代の本土自民党はその後者、アンチヤマト・親米派の沖縄保守勢力と組み、彼らの選挙応援(つまり、復帰運動の妨害)をしたのである。実際の復帰が名ばかりのものになり、米軍の権益には触らない「骨抜きの本土復帰」になってしまったのも、そう考えると当然のことだった。


 このときの虚無感から現地の革新は日の丸嫌いになり、かたや保守勢力はケロリとして星条旗を日の丸に差し替えた。ネット上のヤマト右派論者は、現地の左派リベラルを「反日・売国」、沖縄自民党を「愛国者」と単純化したがるが、彼らは沖縄の「捻じれた現代史」をまるでわかっていない。本当は、前者の人々こそ理念や尊厳にこだわりを持ち、後者は結局は「強者に逆らわない現実主義」(事大主義)で動く人なのだ。


 万が一将来、中国の力が沖縄に及ぶ日が来たら、真っ先に歓迎の旗を振るのはいったいどちらだろう。現代史を知れば知るほどに、ヤマトの無知と無理解にため息が出る。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。