●医療の「不信」は医学に直結


「医療は医学の社会的適用である」というのは、元日本医師会長の故武見太郎の言葉だが、この言葉をそのまま受け取れば、医療と医学は科学という点では同列であるが、社会科学かそうでないかでその意味が変わるということになる。むろん、医療は人間社会には欠かせないものであり、それが科学に裏打ちされて社会に受容され、信頼され、施行されることを多くの人は疑わない。


 しかし、例えば、ひとたびその適用において、事故があったり、被害を受けたり、あるいはその疑いがあったり、信頼が壊されたりすると、「社会的適用」は、「社会的損失」になる可能性も秘めていることになる。


 ついこの間まで、医療は不信の時代のなかにいた。それには多くの事件や事故、インシデントの累積などの背景があるが、米国型の医療訴訟社会の影響も強かっただろうし、薬害などの下敷きもある。だが、そうした「根拠のある」不信のなかで、根拠の薄い医療不信も少なくなく含まれている。そして、そのほとんどは社会的適用される前段階の「医学」への不信と、ほぼ直結している。


 根拠のある不信は、例えば薬害や医師の誤診に根ざしているかもしれないが、しかし「医学」への不信は、医学そのものが間違っているという科学の装いをまとうこともある。また、ある種の思い込みや宗教的な物語、そして最新の医療行為に対する思い違いや誤解から発するものもある。


 医学への不信が社会的適用を拒む人たちを生み出す代表的な例は、予防接種の否定だろう。それも集団的な予防接種に対する非難や忌避である。そして、宗教性や思い込みには、ダーウィンの進化論以降の主として生殖の神秘性に対する冒涜感、あるいは一部の宗教に見られる輸血への拒絶感などをあげることができる。医療的、医学的な新しい知見に対する誤解や偏見としては、例えばトリアージの認識に対する不十分な情報選択がコロナ禍のなかでは現実的に露呈された。


 一方で、こなれていない生命倫理や延命医療に対する議論のなかで見せつけられる極端な主張や行動も最近では活発化している。その延長のなかでは、臨死体験や解離に対する科学的アプローチを非科学として捉え、非難する声も含まれるだろう。


 そして、こうした偏見、誤解、不安の拡大ツールとして存在するのがマスメディア、一部のジャーナリズムだ。ようやく積極的勧奨に戻ったHPVワクチンについて、“消極的”時代にワクチンを受けるチャンスを失った女性たちが、将来、子宮頸がんに罹患したら、一部のメディアが訴訟の対象にならないとは言い切れない。夜郎自大なメディアが、ジャーナリスティックな装いで針小棒大に報道した形跡はないだろうか。ないと言い切れるだろうか。


●恐怖が感染する恐怖


 フランスの感染症学者であるディディエ・ラウトは、著書『感染症の虚像と実像』で、「観察された現実と情報による現実が完全に乖離していることが、現在、大きな問題になっている」と医科学と、その適用先である社会が情報の処理で困ったことになっていることを指摘している。


 ラウトは、「問題は、誇張の幅はだんだんと少なくなっているが、しかし現実が歪められていることだ。情報が一つの死亡リスクを20倍にし、他のリスクを100分の1にして伝えたら、これはもはや誇張ではなく別世界である」と分析する。そのうえで、情報を単に受け取るだけではなく、「文化的に検証」し、それなりに情報との距離をとることで、誇張された情報による危険な影響を受けることはなくなるという。


 彼がこの本を書いた動機は、コロナ感染がフランスで猛威を振るい始めたことだ。「まえがき」で、医療危機の意味やその捉え方について、「私が体験したことを通して広い視野でとらえてみる」ことを自分の宿題だと認識していることを明らかにしている。そのため、過去から現在に至る感染症の歴史と人間の対峙が描かれていることを体系的に反芻できる活字となっており、随所で「研究も政治もメディアも間違えた」歴史の解説と読み替えることもできる活字だ。


 例えば「炭疽菌」騒ぎに関して、彼はバイオテロの「恐怖」が起こしたための“流行病”だったことを語りつつ、実はこの「恐怖」がメディアの介在を招くことを明らかにしている。


 エボラ出血熱を材にとったハリウッド映画は、リアルに「恐怖が恐怖を生んだ」例だと語り、ためらいなくこの映画を「ホラー」という括りで紹介している。ウイルスはむろん感染源だが、恐怖の感染はメディアが媒介し拡大させる。ラウトはその怖さを多数の例で証言している。


●その後のウェイクフィールドを知らない怖さ


 今回の活字世界シリーズでは、このように反科学とジャーナリズムの関係性について考えてみたい。そしてその前に、社会に横たわる医学に対する反科学の状況を活字世界から拾ってみる。


 まず最も有名な話から活字を拾う。ハイジ・J・ラーソンは『ワクチンの噂』で、98年に英国の医師、アンドリュー・ウェイクフィールドが、MMRワクチンが自閉症を起こすとの論文を発表し、それが世界中の反MMR運動につながった経緯と、ウェイクフィールドの以後の活動を詳述している。


 実はウェイクフィールドは、この論文がデマであり、著しく社会的損失の要因になったと認定され、刑事罰も行政処分も受けているが、それで活動を止めたわけではなく、アグレッシブに動き回っていることを、私たちは同書で知ることができる。日本ではその後のウェイクフィールドの活動が報道されることはなかった。彼は嘘の論文を書いたとして一件落着したと日本のほとんどのメディアは判断している。


 しかし、彼がMMRワクチンに対するデマを飛ばしたことで、日本国内でも麻疹のリスクは相変わらず維持されたままだ。ウェイクフィールドの活動を批判的に報道していくだけでも、一部の予防接種忌避感情の緩和に寄与すると考えないのだろうか。


 同書から、ウェイクフィールドのその後の活動ぶりを紹介すると、彼は2015年の大統領選挙中からドナルド・トランプに対するロビー活動を活発化させていた。英国紙のウェイクフィールドへのインタビューでは、トランプがMMRワクチンと自閉症の関連は知っているし、自分が当選したら何とかすると約束したと語っている。しかし、大統領になってから麻疹が米国で蔓延すると、トランプは態度を一変させ、予防接種を受けるよう全国民に呼びかけた。


 ラーソンは、こうした一連の流れについて、「世界一有名な反ワクチンの活動家と世界でもっとも強力な政治的地位に選出された人物が手を組めば、(中略)控えめにいっても、憶測を増幅させる結果になろう」と語っている。ただ、ラーソンは、その結果が集団心因性疾患(MPI)と揶揄的に表現されることもある「煽動される側」の家族や、その周辺にどのような影響を与えるかは確かにリスクではあるが、ウェイクフィールドの支持者から見れば、ウェイクフィールドも被害者になるとの認識も示している。


 この認識に、いったん芽生えた不信の芽を摘み取る難しさと、デマを信じる人たちを説得するには、支持者側に立った有効な「共に生きる」手段を開発する必要があることがわかる。


 ワクチンが、それを否定し嫌悪するための噂によってその目的を妨げられることは、今や実は公衆衛生上の大きな課題になっている。影響はグローバルだ。フェイクニュースは、それ自体がフェイクニュースだとその10倍の質量で喧伝されないと払拭されない。ウェイクフィールドの行動を英国メディアはウオッチし続けているのに、日本メディアはまるで関心がない。いつか日本国民がしっぺ返しを食う、とは言い過ぎだろうか。(幸)