東大安田講堂事件が起きた1969年の1月は小学校1年生、浅間山荘事件(72年3月)のときはまだ4年生で、あの頃の大学紛争にまつわる同時代的な記憶はほぼ皆無。浅間山荘の外壁に機動隊が巨大な鉄球をクレーンでぶつけていた中継映像が、かろうじて脳裏に刻まれた唯一の「残像」だ。たまたま5歳上の兄の書架に思想的な本があれこれあり、自分自身も中高生になって関連本を多少は読んだのだが、正直「新人類世代」に含まれる私には、共産主義は理想にはなり得ないものだった。粛清や総括、リンチ等々のあまりに寒々しいイメージが、すでにこの思想にはまとわりついていた。


 そんなわけで日本赤軍の重信房子に関しても、中東で本人をインタビューした記事などを70年代には読んでいたはずなのだが、その中身はまったく覚えていない。もちろん、注目される極左活動家であることは知っていたが、その存在に、たぶん興味が湧かなかったのだ。


 その重信が5月28日、20年の刑期を終え都内の施設を出所した。カラシニコフ銃を手に黒髪をなびかせる写真などで、「魔女」と呼ばれていた女性革命家もすでに76歳。今週の週刊文春はこれに合わせ『重信房子 魔女の正体』という5ページの特集を掲載した。現在60歳の私でさえ名前くらいしか知らない時代になり、「今どきの記者たち」には人物像の輪郭をつかむだけでひと苦労だっただろう。普段ならボロクソに批判記事を書きそうな週刊新潮も、今回は下準備をする時間の余裕がなかったのか、ワイド特集の1本として1ページにも満たない記事でお茶を濁しただけだった。


 それなりに頑張った文春の特集は、編集部による2ページの記事とともに、以前から彼女を追ってきたノンフィクションライター・島崎今日子氏による『独占告白』の記事3ページで構成されている。島崎氏は文春で歌手・沢田研二の評伝『ジュリーがいた』の連載を巧みな筆で書いている人で、まさかこの同じ書き手が重信房子という超硬派の人物にもアプローチしてきたとは意外だった。島崎氏は私より7つ上の54年生まれ。全共闘世代にかなり近い世代として、同性の「革命家」により深い関心を抱いてきたのだろう。


 特集記事と『独占告白』、2つの文章を読み、強く印象付けられたのは、重信房子という人物の予想外の「軽さ」だった。「行動的」「直観的」と言い換えてもいいのだが、要するにどこか「軽薄」な雰囲気が、記事の行間から感じられるのだ。


 明大二部の文学部に合格、入学金を収めに行ったその日に誘われて、処分学生の座り込み復学闘争に参加、安田講堂事件のあと、所属グループの内ゲバリンチ事件に居合わせて「一知半解のまま」(彼女自身の述懐)武力闘争に舵を切る。赤軍派入りも親友の夫に誘われてのことだった。何より驚いたのは、マルクスを読んだのはアラブに渡ってからだという話だ。それまでは依って立つ理論もなく直感で動いていたようなのだ。アラブでは日本企業の駐在員や記者たちに可愛がられ「赤軍ちゃん」と呼ばれていたという。同世代のあるフェミニストは当時の重信を「美貌に寄り掛かって生きている感じ」に受け止めていたと語っている。


 孤高の女革命家、というような一方的なイメージとはまるで違う人物像。私はかつて戦前の活動写真監督だった自分の祖父について調べ、書いたことを思い出す。この人は浅草で大杉栄と出会い感化されアナキストになったのだが、その後ソ連に行く機会があり共産主義者になり、戦争中は勇ましい戦争協力者に一転、戦後はまた共産主義者になるという「お調子者」だった。そんな軽薄な「転向者」を引き合いに出すのはさすがに気が引けるが、得も言われぬ「軽さ」という点で、私はどこか似た匂いを彼女にも感じる。私は今回の文春記事を読み、初めて重信という人に関心を覚えた。いつか島崎氏が書き上げてくれるのであろう、柔らかく巧みな筆さばきの「重信房子伝」刊行を心待ちにしたい。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。