天皇制に関してはとくに意見はなく、国民の多くが現行の制度維持を望むならそれでいいと考えるひとりだが、生まれながらにして制約だらけの人生を強いられる当の皇室の方々には、時に胸が痛む思いも沸く。今週の週刊新潮記事『「天皇・皇后」警護の要が内部崩壊 皇族への「悪口」はびこる「皇宮警察」』を読み、改めてそう感じた。
記事によれば、皇宮警察では本部長、副本部長などの幹部にはキャリア組が就き、たたき上げの「ノンキャリア」が上り詰める最高位のポストは護衛部長。ところが、現職の護衛部長は愛子内親王のことを組織内で公然と「クソガキ」と呼び、その部下の護衛部幹部にもその悪態を日常的に口にする者がいるのだという。しかも、この部長らは気に入らない部下や同僚には、狙い撃ちで退職に追い込む嫌がらせもするらしい。2年前には、そうやってとある「ターゲット」を離職させることに成功し、規則上、飲食が禁止されている本部庁舎内で「祝宴」を開き、火災報知器を作動させてしまう騒ぎも起こしている。
問題の部長は愛子内親王だけでなく、三笠宮家の女性皇族にも容姿を侮辱する悪口をしばしば言い、その部下はあるとき、当の女性皇族本人に悪口を書いたメールを誤送信してしまった。そのことは当時まだ健在だった寛仁親王にまで伝わって、本部長が親王に直接謝罪する事態にまでなったという。皇太子妃時代の雅子さまや秋篠宮家の紀子さまの悪口も、幹部たちの会議の席などで頻繁に交わされてきたらしい。
何とも陰湿な職場環境で、これら幹部にパワハラを受けた職員、そして侮辱的な悪口を言われてきた当の皇族の方々にはお気の毒としか言いようがない。そしてふと思ったのは、極右の活動家たちから見て、これらの所業は紛うことなき「不敬」ではないのか、ということだ。過去、皇室がらみの右翼テロは、戦争責任をめぐる天皇批判などが矢面に立ってきたが、生身の皇族を蔑む意味合いでは、今回の例のほうがはるかに陰湿に思える。右翼団体は、果たしてこのケースで皇宮警察の糾弾に立ち上がるのだろうか。
そんな感想は、従来から感じてきた「右派の尊王心」に対する疑念にも結び付く。たとえば、昭和天皇や平成天皇(現上皇)が繰り返し示してきた「先の大戦への反省」は、右派の政治家たちに一顧だにされず、靖国問題に至っては、両陛下の思いを無視することこそが「愛国的」であるかのごときスタンスになってしまっている。そんな状況を顧みると、結局のところ、右派・右翼の政治勢力にとって、大事なのは自分たちの権威付け、国家主義の正当化につながる天皇制の「枠組み」だけであり、そこに生きる生身の天皇や皇族に尊敬は向けられていないのではないか、という疑念が浮かぶのだ。
皇宮警察の幹部らにしてみても、個々人の政治的スタンスは保守だろうし、皇室には忠誠を誓ってきたはずだ(建前としては、警察は政治的に中立・公正、という約束事になっているにせよ)。つまり、権威主義の枠組みとして天皇制を守り続けるが、実際にそこにいる生身の皇族に敬意は払わない。「右寄りの勢力」にとっての「尊王」が結局、そういうことならば、何のことはない。武力を使ってでも「玉」を掌中にしようとし、錦の御旗を討幕に利用した長州藩のやり口から何ひとつ変わっていないことになる。
本稿の冒頭、「天皇制そのものに意見はない」と記したが、それを政治的に利用する勢力には、思うところがさまざまある。まずは、この皇宮警察問題への右派の対応を注視したい。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。