●メディアは負の装置
前2回まで、コロナ禍をきっかけに浮上したワクチンを巡るさまざまな反医科学の動き、そこにまつわるメディアの無責任な活字世界、そしてそれが差別に結びつく最近の情勢を眺めてきた。
本質的な問題として、反医科学的な活字世界は、実はそれを「活字であるために」無定見に受け入れる日本人の国民性、そしてそれが信じられないパワーを持つ「同調圧力」に展開、拡大する様子を見てきた。とくに前回触れた、活字世界に生きる若いジャーナリストたちが、同調圧力の前に孤立していく事例などは、検証もなく見過ごされていいのかという思いを止められない。
勉強もし、能力も高く、グローバルな視野を持ち、自分の考えとオリジナリティーに自信をもっている若手ジャーナリストたちを、「権威主義的」なボスたちが鼻であしらい、蔑むパターナリズムの活字世界で生きているメディアが、大学教授の数理シミュレーションをありがたがって、今では何も見ていなかったことにしている姿勢は、滑稽の域に達している。
前回までを総括すれば、コロナで見えてきた日本のメディアバイアスの最大の特徴は、メディアが科学的根拠に基づかない「差別の拡大装置」として機能してしまい、さらには政策判断に結果的に大きな影響を与えることである。これは負の装置である。
マスメディアは、人種、出自、性別、性自認、障害などの多様な差別を厳しく難じ、正義の味方を演じる。しかし、わずか2年前にはコロナ感染者を「ケガレ」扱いしたことを記憶する。パチンコ店、居酒屋、ライブハウス、介護施設などクラスターになりやすい施設、そこで働く、生活する人、拠り所とする人をメディアは邪魔者扱いした。この事実は日本のメディア史に刻印されるべきである。
日本の活字文化が表と裏の顔を見せるテーマのひとつの象徴に、年齢差別がある。それは、よくみれば障害者差別と地平がつながり、マジョリティーとマイノリティーを曖昧に区分する。事件ごと、報道事案ごとに主張を変える。人権はマイノリティーの声を聴き、経済はマジョリティーの顔色を窺う。そんな両立ができるはずはないのだが、日本の活字文化を主流とするメディア文化はうまくそれらを演じ分けるのである。
今回は、なぜか拡大解釈の止まらない「トリアージ」が、活字世界で多様な差別につながっている懸念を伝えよう。
●トリアージは差別を隠蔽する
コロナ前から「トリアージ」の意味が拡大している印象を持つことがあった。例えば、人工透析治療への移行判断などで使われることを、まま散見したように思う。
「トリアージ」を広辞苑で引くと、「(選別の意)災害・事故で発生した多くの負傷者を治療するとき、負傷者の治療の優先順位をつけること。最も有効な救命作業を行うためのもの」と説明されている。トリアージは本来、災害や事故の際の効率的な救命業務の遂行のために考え出された「手引き」である。
阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件などを契機に全国各所で救難訓練が行われ、とくに90年代後半にはトリアージ、そしてその判断結果を示すトリアージタッグが医療者を中心に常識化した。
今さら繰り返して言うまでもないが、このトリアージの意味は、救命するための「手引き」「手順」を状況に応じて「作る」ものであり、非常に単純化して言えば、重症度の判断を通じて、できるだけ多くの人命を救うことを目的としている。
筆者が懸念を感じるのは、このトリアージが近年、災害時や事故時だけでなく、人工透析移行、人工呼吸器の装着時判断などの拡大解釈だけでなく、問題は「重症度の判断」から「命の選別」に解釈のポイントが変わることにあまり議論が行われていないことに、である。確かに、広辞苑は語釈として「選別の意」を示しているが、日本国語として使われている場合は、それ以降の説明で尽きることを広辞苑は明示している。
ところが、ネットなどで救急現場の場から発信されているトリアージの意味は、すでに多くの現場から「重症度判定」だけでなく、救急医療の現場、それがICUを多くは想定されているが、「救命優先判定」も含まれるというニュアンスで語彙の解説が付されている。改めて調べるとちょっと驚く。そしてこのことは、2020年初頭からのコロナ診療現場で人工呼吸器の装着優先度を主体に、この現場でも盛んに使われ、メディアもそれに追従してきた。
実は、トリアージがこの世界で普遍的に使われるようになったことに、多くの医療者は戸惑ったのではないかと、私は想像する。
●制度改革にまで一般化される懸念
今年3月に出されたALSヘルパー養成者の川口有美子氏と緩和ケア医の新城拓也氏の対談集『不安の時代にケアを叫ぶ』では、このコロナ診療現場におけるトリアージが語られている(以下、敬称略)。
この対談では最初から、トリアージが問題になっている。川口は20年10月の段階で、人工呼吸器の優先論議を巡って、災害時や戦争時に緊急避難的に発動されるトリアージがコロナ患者治療の際に使われることで、「制度改革まで含めて一般化されるのではないか」との懸念を伝えている。
繰り返すと、本来、日本で医療用語として意味されてきたトリアージは、川口が言う通り、「緊急避難的に行われる救命医療の手法」だったはずである。それがパンデミックとはいえ、「治療の指針」となった。そして、トリアージの根拠が「重症度」での区分ではなく、年齢になったことの危惧を川口は指摘していると思われる。「制度改革まで含めて一般化される」という言葉は、「老い先短い」「治療の進展が期待できない」がトリアージの原則となることへの警戒を示したものといえる。
一方で新城は、こうした概念はアナクロだとの認識も示している。彼はPCR検査の徹底を求める主張を厳しく批判しながら、「特定の患者を排除するという、ずいぶん古い倫理感がまた復活してきた」と語っている。
この対談が行われたのは20年半ば頃。海外で進む医療崩壊と、そこに怯える国内メディアのヒステリックな咆哮を、必死に冷静に見ようとしていて、当時の医療関連、介護関連専門家のポジションにいる人が、その空気に流されまいとしていることがわかる。彼らも平静を保つことが難しい時間だったことは理解しておこう。
●コロナで雑になった医療の反映
新城は21年8月の第4回目の対談で、コロナ下でのトリアージは、健常者か障害者か、基礎疾患があるかないか、若年か老年かではなく、つまり医療資源の配分の問題ではなく、自らの体験では「勘」でしかなく、「何らかの基準をつくって数値化してトリアージなんてできない」と述べている。ある意味、トリアージというものは本来、そういうものではないかと思える。
災害現場で、大規模事故下で、戦争下で標準化されたトリアージなどというものが本当に存在するのかという原初的なことを考えると、やはりトリアージはその場その場、その時その時で、状況に応じて即時的に編み出される緊急避難であって、コロナ下での治療指針でトリアージが使われるのは抵抗が強いのは当然ともいえる。
つまり、一定の規律が求められる一般的な医療や介護の現場で、トリアージをあえて外挿する意味は、新城の言葉であっさりと否定されている。そして、こうした考え方をマイノリティー化し、トリアージという「新鮮な」言葉に騙されるメディアの何と多いことか。
この対談のなかで新城は、コロナで治療に対する信頼は大きくなったが、ケアの力はなくなってきているとの分析を前提に、医療はコロナ以後「雑になってきた」との印象を繰り返している。そして、「雑になった分、人の命の取り扱いもすごく雑になってくる」と述べる。
安楽死に関する議論のなかで語られたものだが、市民、患者の側からではなく「自らの雑さを意識できない医療の側から」、安楽死許容論が出てくることの危惧は、まさに「命」のトリアージを医療側が求め始めているサインではないだろうか。(幸)