先週と今週の週刊新潮に『遺留品が語る「沖縄戦」秘話 激戦地で発掘「ハンコ」が導く遺族探しの旅』という「特別読物」が前後編に分けて載った。タイトルに惹かれて読んだわけではなく、その下に記された連名の記事執筆者が「元朝日新聞カメラマン 浜田哲二」「元読売新聞記者 浜田律子」という風変わりな組み合わせだったため、正直、記事よりもそちらへの関心で、合計10ページもの長文を読み進めたのだった。


 記事によれば、2人はもともとライバル紙に所属するカメラマン(夫)と記者(妻)だったが28年前に結婚、当時は「同業他社の記者同士が結婚した場合、どちらかが退職するか、僻地に転勤させられる不文律」があったとされ、妻の律子さんはやむなく入社4年目で退職、専業主婦になったという。以来、律子さんは夫・哲二さんの出張取材先に興味があるときは、自らも自費で同行するようになったのだという。


 かたや夫の哲二さんは「職場内で横行するセクハラや暴力事案の仲裁に入った途端、左遷の憂き目に遭った」とのことで2010年に朝日を辞め、以後フリーに。今回記事化した沖縄での遺骨収集は、約20年前から休暇などを利用して夫婦で取り組んできた一種のライフワークらしい。近年は毎年約2ヵ月間、沖縄で部屋を借り過ごしているという。


 そんな2人が交互に文章を書く形で今回まとめたレポートは、糸満市の遺骨収集現場で偶然、1本の印章を発見、「佐岩」という人名にない2文字を「佐藤岩雄」という兵士の名と読み解いて、北海道に住む遺族に届けるまでのプロセスを描いている。


 沖縄には、沖縄戦の遺骨が今なお野に大量に眠っていて、現地には戦後何十年もその収集を続ける人たちがいる。その尊い努力には、ただただ頭が下がるのだが、フリー記者という同業の立場で思うのは、もし2人が「取材活動」としてこれに取り組むなら、これだけの時間と労力を注ぐ感覚が正直よくわからない。もちろん感覚は各人違っていて当然で、遺骨収集は夫婦の沖縄での取材活動のごく一部かもしれないし、そもそも何を調べるか、テーマ選びの判断は人それぞれである。


 ただちょっと気になるのは、哲二さんの文章には少々「思い込み」が強く見えることだ。当人は朝日在職中、「リベラルな社風として知られる会社で、右翼的な取り組みと揶揄される遺骨収集」を記事化するなどして変人扱いされた、と振り返るが、果たしてそうなのか。ただ単に、ニュース価値の有無で意見が合わなかっただけなのではないか。少なくとも私は、遺骨収集を「右翼的」とネガティブに見る人にこれまで出会ったことはない。


 と、そういった微細な引っ掛かりはあるにせよ、結論として記事はなかなか興味深かった。ストーリーを要約してしまえば、戦地跡にあった印章の持ち主を見つけ出し、遺族にそれを手渡した、それだけの話だが、なんと言ってもこの企画の面白さは「足を使った取材の意外性、臨場感」にある。言ってみれば、テレビ番組の『家、ついて行ってイイですか?』(テレビ東京)や『ポツンと一軒家』(テレビ朝日系列))などに通ずる面白さだ。ジャーナリスティックな狙いや切り口を持たずとも、誰かの人生に深く分け入れば、それだけでかなりの確率で興味深い人間ドラマと遭遇する。


 往年の名ジャーナリスト・本田靖春氏の懐旧談だったように思うが、読売での若手記者時代、いわゆる「街ダネ取材」をするために、住宅地図を手にしらみつぶしに話を聞き歩いた思い出を読んだ記憶がある。いわば、笑福亭鶴瓶氏による『家族に乾杯』(NHK)方式だ。ネット時代のいま、取材経費の厳しさもあり「足を使った取材」がどんどんやせ細ってきて、テレビを見るだけで記事を書く「コタツ記事」という言葉さえ出きてしまう始末。そんななか、時代に逆行した「非効率な取材」のプロセスこそが意外性に富み面白く、人の息吹が感じられる。そんな意味合いで最近になく魅力的な記事だったように思う。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。