(1)「スーパー美少年アイドル」から「人気なしの老芸人」へ
世阿弥(ぜあみ、1364?~1443?)は、どの本を読んでも「世界に誇る一流芸術家」と記されている。でも、一流芸術家だから、終生「人気抜群」というのは嘘である。世阿弥は、10代の頃、「スーパー美少年アイドル」で人気抜群であった。しかし、年齢を重ねると人気も低下した。なんとか、人気を回復したい、と必死に考えた。そして、自分のため、そして弟子のために、「こうすれば人気が出る」という奥儀を書いた。しかし、人気回復には至らず無名の老芸人となって、死んでいった。そして、この奥儀書が、世界に誇る素晴らしい芸術論らしいのである。
世阿弥は無名の人として亡くなった。だから、数百年間、忘れ去られた存在であった。それが、明治になって、偶然に脚光を浴びるようになった。それは、「南朝史観」と結合したからである。
南朝史観とは、「南朝」の後醍醐天皇・楠木正成は正義であり、「北朝」の足利氏は「悪」とするものである。世阿弥は、若い頃は足利氏に寵愛されるが、やがて疎遠になり、晩年には佐渡へ流される。よって、「南朝史観」では世阿弥は足利氏の迫害を受けた「悲劇の芸術家」となる。しかし、戦後の研究では、「南朝史観」の世阿弥は完全に否定された。
でも、ドラマ的には、足利氏に迫害された「悲劇の芸術家」のほうが断然おもしろいので、今も、そんな説明が多い。あるいは、風変わりな説であればあるほど、素人は喜ぶことを意識したのか、梅原猛は「観阿弥は楠木正成の甥」を主張した。むろん、梅原説は否定された。
(2)猿楽の進化
世阿弥は猿楽師である。父の観阿弥(かんあみ、1333~1384)とともに猿楽を大成させた。
観阿弥・世阿弥って、「能楽じゃないの?」と思われる人も多いので、若干の用語解説をしておきます。
明治になって、猿楽、狂言、式三番の3つを「能楽」と総称するようになった。「じゃ、狂言って何?」「式三番って何?」と知識欲が生まれるので、順序立てて説明します。
猿楽は、散楽、申楽とも書くが、一般的には猿楽である。
古来、芸能はさまざまあった。軽業、手品、物真似、曲芸、歌舞音曲、呪術芸などである。そのなかで、物真似を中心とする滑稽的寸劇が猿楽で、庶民の間で人気を博した。これら猿楽など雑芸を職業とする者も生まれたが、彼らは仏教の六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)から離れた「七道の者」、要するに賤民と意識された。
平安中期の藤原明衡(あきひら、989?~1066)の『新猿楽記』には、大笑いを獲得する芸が数多く紹介されている。例えば、
●2人で行う相撲を1人で演ずる。
●偉そうに歩く高級役人の歩きぶりをまねる。
●大姉御が男の着替えを見て恥ずかしそうに扇をかざす姿をまねる。
●カマキリのまねをして首を振る。
●独身の尼が乳幼児用オムツを求める。
●僧侶が袈裟を失くして探し回る。
見物人は大笑いである。現代のお笑い芸人と似たような寸劇である。なお、藤原明衡は官吏登用試験に何回も不合格になり、合格後、出世してから、「なんて馬鹿馬鹿しい問題だ」として、2回、試験問題・解答をバラして処罰されている。まぁ、気骨のある学者貴族である。
鎌倉時代に入ると、寺社の祭礼に際して、参拝者へのサービスとして猿楽を披露する寺院が現れた。したがって、そこでは、内容が滑稽だけでなく、神仏の霊験を演じるようになる。つまり、ストーリーがしっかりある劇となったのである。浮草家業の不安定芸人達は、スポンサー登場で大喜び。スポンサー寺社の意向に沿い、かつ、参拝客が喜ぶ劇を演じるため、工夫をこらした。
参拝者は、寺院の僧侶の固い説法よりも、芸人達の寺院の縁起、神仏の功徳を感動的かつ平易に演ずる猿楽を目当てに来るようになる。しかも、芸人達の劇は神仏への奉納であるから、観客は無料である。芸人達は、寺院からの安定収入継続のため、工夫に工夫をこらした。猿楽芸人と寺院の関係は、かくして密になる。
そして、猿楽芸人の座が組織された。とりわけ、大和(現在の奈良県)の大半は興福寺が支配していたので、巨大組織興福寺と関係を持った猿楽芸人の座は確固たるものになった。大和四座とは、「結崎座」(後に観世流)、「円満井座」(現在の金春流)、「板戸座」(現在の金剛流)、「外山座」(現在の宝生流)の4座である。
同じ頃、日吉大社(滋賀県の琵琶湖の西)には、6つの座、「上三座」「下三座」があった。こちらは、室町時代末期には衰退した。
室町時代になると、大寺院がスポンサーの猿楽は、「延年」や「田楽」を取り入れ、芸能として、さらに磨かれた。
「延年」は、寺院の大法会の後、余興として発展したようだ。したがって、単独の芸能ではなく、高級芸能から庶民芸能まで、寸劇だろうが舞踊だろうが、何でもあり、である。最初は仲間内の余興だったが、次第に、観衆を楽しませるようになった。そして、室町時代になると規模も大きくなった。しかし、江戸時代になると、衰退した。現在では一部の寺社・地域で行われているに過ぎない。
「田楽」は、一言で言えば、集団舞踊である。一方、猿楽は劇が主である。田楽は猿楽の劇的要素を取り入れ、猿楽は田楽の舞踊的要素を取り入れた。
こうして、猿楽は進化した。
進化を推し進めた仕掛けとしては、「立ち合い」がある。
これは、猿楽の座に限らず、あらゆる芸能団体の真剣勝負で、勝ち上がれば、拍手喝采となる。負ければ、翌日から収入ゼロである。猿楽のそれぞれの座は、勝つために、白拍子や田楽の曲や舞を取り入れて、猿楽を進化させた。その進化は観阿弥の「結崎座」(後に観世流)だけでなく、他の猿楽の座も同様に進化したのであった。
世阿弥が書いた奥儀書にも、「立ち合い」必勝法が書かれてある。
老婆心ながら、現代の能楽から当時の猿楽をイメージしないほうがいい、と思います。まぁ、バックにコーラスと楽団がいて、スターが踊りながら歌う、そして寸劇をする。その寸劇の内容が神仏の霊験、物真似である、そんな感じである。
もうひとつ老婆心ながら、「能」という単語について、説明しておきます。「能」と「能楽」は、異なりますので、ご注意を。室町時代の「能」は、ストーリーのある劇をいう。ストーリーの内容が高尚であるとか、お笑いであるとかは関係なしです。猿楽はストーリーがあるので能です。田楽の中にもストーリーのあるものは(田楽)能となります。
「能楽」は前述したように、明治になって出来た用語で、「猿楽+狂言+式三番=能楽」です。そのため、明治以後は「能」は高尚なストーリー、「狂言」はお笑いストーリーという感じに変化した。
(3)三代将軍足利義満の寵愛
そうしたなか、3代将軍足利義満は観阿弥・世阿弥を庇護するようになった。
世阿弥の父である観阿弥の出生については、よくわからない。それは当然で、一般庶民よりも下とみなされている浮き草稼業の芸人の出生なんか、誰も気にしない。ただ、その後、観世流が継続されるなかで、いろいろ創作された。
そもそも、例えば、日本の大名の家系図なんてものは、創作が多い。尾張・三河・美濃の「武士らしいこともできる農民」が大名になった。だから、京の学者貴族に大枚の金を支払って、立派な本物らしい家系図を創作してもらったのだが、昔は、それが素直に信じられた、というに過ぎない。
観阿弥は大和猿楽四座のひとつ「結崎座」に属していて、大和を中心に活躍していた。1370年代になると、自分の一座を率いて、京都周辺でも猿楽を興行するようになった。興福寺関連の寺院で演ずる場合は観客は無料だが、それ以外の地での興行は有料である。観阿弥一座は有料興行でも集客能力抜群であった。当時の、京都では、猿楽よりも田楽のほうが人気があったが、観阿弥の進化した猿楽は京都でも大いに喝采を浴びるようになった。
その頃、観阿弥は「バサラ大名」の佐々木高氏(=京極道誉、1296~1373)との交流があったようだ。「バサラ」とは、ド派手な遊びが大好き、といった感じ。政敵の花見の宴に対抗するため、京都中の芸能人を一人残らず集めて超大々的花見を催した人物である。
佐々木高氏にしてみれば、多くの芸能人のなかのひとりが観阿弥だった、ということであろう。でも、観阿弥はバサラ大名から大きな刺激を受けたに違いない。新時代、ド派手、ビックリさせる……そんな単語の内容が観阿弥から世阿弥に伝わったに違いない。
そして、運命の日が到来する。1375年(1374年説もあり)、京都の新熊野神社で観阿弥が12歳の世阿弥と猿楽を演じた。3代将軍足利義満(在職1369~1395、生没1358~1408)は、17歳である。17歳の将軍は12歳の世阿弥を一目見るなり惚れこんでしまった。世阿弥は、スーパー美少年アイドルなのだ。
3代将軍足利義満は、観阿弥・世阿弥を、ものすごく援助した。とりわけ、美少年の世阿弥を可愛がった。単なる人気タレントのファンではなく、男色(男性同性愛)であった。そのため、将軍の好意を得るには、まず世阿弥にプレゼントするのが効果あり、という社会現象まで現れた。トンデモナイ現象だとして、「此の如き散楽(さるがき)の者は、乞食の所行なり」とひとりの公家は日記に書いた。
世阿弥は将軍を中心とする社交界のアイドルであった。猿楽師は教養が低いのが当たり前であるが、世阿弥は連歌などの教養を猛烈に学び吸収した。そのことは、後年、世阿弥の著作に反映されるのである。
順風満帆かと思いきや、世阿弥には、ライバルの猿楽師がいた。近江猿楽の犬王(?~1413)の存在である。世阿弥よりも少し若いと推測されている。当時の大和猿楽と近江猿楽との差は、私にはよくわからないが、どうやら、近江猿楽のほうが、明るく美しいものであったようだ。犬王は、足利義満の法名「道義」から一字をいただいて、「道阿弥」に改めたことからもわかるように、足利義満の寵愛は、世阿弥から道阿弥へ移行したのである。
1408年の後小松天皇の「北山行幸」は、足利義満が主催した超大イベントである。メインの「金閣」での天覧能は、道阿弥の一座が舞台を務めた。世阿弥は40歳を過ぎ、スーパーアイドルの時代は完全に過ぎ去っていた。
(4)佐渡流罪
1408年の「北山行幸」の直後、3代将軍足利義満が逝去した。4代将軍足利義持は、猿楽よりも田楽が好みであった。
時代は、6代将軍足利義教(在職1429~1441)となった。
従来は次のように考えられていた。足利義教は、世阿弥の甥である音阿弥を寵愛し、世阿弥と世阿弥の実子・元雅(もとまさ)を嫌った。そのため、元雅は憤死し、世阿弥は佐渡へ流された。
近年の研究では、これはまったくの誤りで、「南朝史観」に基づいて作られた創作に過ぎない。事実は次のようになる。
1398年、甥の元重(音阿弥)が誕生。子のない世阿弥は、音阿弥を養子にする。つまり、音阿弥が長子である。
1399年、実子・元雅が誕生。つまり、元雅は次男である。
足利義教は、観阿弥・世阿弥の正統な後継者である音阿弥を重んじただけである。建前を病的に重視する足利義教にとって、観世座の後継者は音阿弥であることは当然のことであった。
世阿弥は、実子・元雅も可愛がって、観世座は、音阿弥の座と元雅の座に分裂した。1432年、実子・元雅は旅先で若死にした。現在も存在している観世流は音阿弥の座の系統である。元雅の座は消滅していった。
そして、世阿弥の佐渡流罪の件であるが、6代将軍足利義教は、織田信長を数倍超える恐怖政治を実行した。同時代の人の日記には「万人恐怖、言フ莫レ、言フ莫レ」と記した。笑っただけで領地没収となった者、酒の注ぎ方が下手で出家させられた女人……、ほとんど毎日、誰かが取るに足らない理由で処罰されていた。たぶん、世阿弥の佐渡流罪とは、万人恐怖の1コマ程度の事件であろう。だから、世阿弥の流罪の理由はわからない。
とにかく、1434年、世阿弥72歳のとき、突然、佐渡に島流しになった。佐渡の正法寺には、世阿弥が雨乞いの舞をしたときに付けた「べしみ」と呼ばれる鬼の面が残っている。「べしみ」とは、下あごに力を入れて、口をぐっと結んだ表情の鬼の面である。「べしみ」を見学できるのは、6月の「ろうそく能」だけである。
世阿弥が、佐渡島で亡くなったのか、それとも、帰京できたのか、不明である。人気なしの老芸人への関心は、限りなくゼロであった。一応、1443年、81歳まで生きたとされる。
(5)猿楽のその後
3代将軍足利義満の庇護があって、観阿弥・世阿弥を中心にして猿楽は大成した。
その後、武士の間では、猿楽が好まれた。
蛇足ながら、司馬遼太郎も含め勘違いが蔓延っているので、一言。織田信長が桶狭間の戦いの直前行動について、『信長公記』には、こう書かれてある。
此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、一度生を享(う)け、滅せぬもののあるべきか、と候て、法螺貝ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、立ちながら御食をまいり、御甲めし候ひて御出陣なさる。
この「人間五十年、化天のうちを……」の歌のことであるが、「猿楽」の『敦盛』にはない。この歌があるのは「幸若舞」の『敦盛』である。ところが、司馬遼太郎も含め、「猿楽」(能、謡曲)であるとしている。要するに、今や、一流文化人も、猿楽についてボンヤリした認識なんだろうな……と思ってしまう。
本筋に戻して。
大名は、それぞれ自分の好みの猿楽師を抱えた。したがって、猿楽を鑑賞できるのは、主に武士であった。ただし、寺社が寄付集めで開催する勧進能では庶民も見物した。それと、「四座一流」以外の芸人が猿楽を巷で演じることもあり、それも喜ばれた。なお、「四座一流」とは、「四座」は「大和四座」の流れを汲む四座で、「一流」とは、江戸時代に金剛座から分かれた喜多流をいう。
それから、謡だけが独立して楽しまれるようになった。猿楽は、舞・謡・囃子の3要素で成り立っている。室町時代末期から、謡だけが、独立して流行り出したのだ。江戸時代には、庶民は猿楽を見物する機会が少なかったが、謡だけが大流行した。結婚式で歌われる「♪高砂や、この浦舟に帆を上げて~」は、猿楽『高砂』の謡である。
明治維新によって、大名の保護がなくなった猿楽は衰退した。しかし、1881年(明治14年)の能楽社の設立によって、生き残ることとなった。このとき、猿楽、狂言、式三番の3つを「能楽」と総称することになった。
「狂言」とは、滑稽を主とする猿楽である。まぁ、お笑い劇である。
「式三番」とは、猿楽史の初期、老人の面を付けた神が天下泰平・国土安穏・五穀豊穣を祈る神的な舞台芸が生まれた。これを「式三番」といい、猿楽のなかでは、神聖かつ重要な特別演目になっていた。
猿楽は名称を能楽に変えて、生き残っている。なんとなく、過去の文化というムードが漂っているような……。
(6)『風姿花伝』
世阿弥は、20種以上の伝書を書いたが、その最高峰が『風姿花伝』である。能楽論、演劇論、芸術論、その内容は、世界に誇るべき内容、と言われている。ただし、猿楽の金春宗家の相伝の秘伝書だったので、金春宗家以外は存在すら知られていなかった。明治末期になって、やっと公開された。
『風姿花伝』は全7編あり、1400年頃に3編を書き始め、残り4編を約20年間かけて書いたと推測されている。つまり、世阿弥の人気絶頂時期ではなく、人気低下時期に書かれたわけである。人気回復には、どうすべきか、それが基本にあったと思う。
第7編の最終部分を超要約すると、次のようになる。
ある特定の猿楽を「良い」とか「悪い」とか言うが、何を基準にしているのか。当世の人々の土地土地によって好みが異なるので、その好みに合わせることこそ、「求めに応じた花」なのだ。ここではこの芸風が歓迎されるが、別のところでは違った芸風が賞賛される。人々の心が描く花は、そうしたものだ。どちらが正しいか、ということはない。時々、その場その場で、求められるものが、花である。
要するに、絶対的に良い花などない。観客が喜ぶのが花である。観客が喜べば、それが花である。なんとなく、高級な芸術論ではなく、人気第一主義の現実主義という感じである。
それで「花」とは何か。観客が喜ぶ猿楽が花で、観客を喜ばせることができる猿楽師が花のある猿楽師である。
同じ劇をしていると観客は飽きてしまうから、花は変化しなければならない。
あるいは、真剣勝負「立ち合い」で勝つためには、「秘すれば花」を持たねばならない。ここ一番の大勝負のため、切り札を持つ必要があるというわけだ。
「幽玄」なる単語が、登場して、なにやら深淵な響きを持つが、どうやら難しく考えるべきではなく、「美しい、とても美しい、とてもとても美しい」といった意味のようである。
『風姿花伝』を読む心構えは、人気が低下した芸人が「どうしたら再び、脚光を浴びるか」という視点に立つべきだと思う。深淵な芸術論という先入観を廃したほうがよい、と思う。
(7)付録
まったくの付録です。
私の住む東京都杉並区の名誉区民は2022年(令和4年)3月末時点では、13人です。そのなかの4人が能楽関係です。なんか、不思議な気がします。
小柴昌俊(令和2年逝去)……ノーベル物理学賞
山彦節子(平成30年逝去)……江戸時代に生まれた河東節浄瑠璃
★二十二世 金春惣右衛門(平成26年逝去)……囃子方太鼓
★安福建雄(平成29年逝去)……囃子方太鼓高安流
佐々木苑子……染織作家
石井桃子(平成20年逝去)……児童文学者
遠藤実(平成20年逝去)……作曲家
速水融(令和元年逝去)……社会経済学史学者
★四世 山本東次郎則壽……狂言方大蔵流
★野村幻雪(令和3年逝去)……能シテ方観世流
芝祐靖(令和元年逝去)……雅楽演奏家
近藤淳(令和4年逝去)……物理学者
久保田淳……日本文学者
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。