文藝春秋OBのノンフィクション作家・下山進氏によるコラム『2050年のメディア』の掲載誌がサンデー毎日から週刊朝日へと今週号で変わった。サン毎での最終話は「第113回」を数え、同誌での連載は3年ほど続いたことになる。「新天地」の週朝でもコラム名は引き継がれ、「MEDIA IN 2050」と添えられたデザインも同じ。ナンバリングだけが「第1回」と仕切り直された。


『また会う日まで 我が心のサンデー毎日』と銘打ったサン毎の最終話(先週号)で下山氏は、週刊現代や週刊ポストに続きサン毎も6月から毎月合併号を織り交ぜて「月3回」の発行となり、《そうした流れのなかで、サンデー毎日でのこの連載を、「週刊」で発行を続ける『週刊朝日』に移すことの了承をいただきました。ケンカをしたわけではありません》と「引っ越し」の経緯を語っている。


 下山氏のこの連載は、雑誌や単行本、あるいは地方紙、テレビなど毎回さまざまな切り口で激動するメディアの「今」を取り上げている。例えば、ここ2ヵ月ほどのコラムを見返すと、さまざまな社の担当編集者が集まった「半藤一利さんの思い出を語り合う会」のことだったり、サントリー美術館での『大英博物館 北斎展』を入り口に江戸時代の大衆メディアだった浮世絵を語ったり、はたまた日本人数学者による「abc予想」証明という極めて難解な話題を見事に番組化したNHKプロデューサーの手腕を称えたり、実に幅広く「メディア」を視野に収め、文化や社会を論じている。


 週朝での初回は『応募原稿から出たベストセラー、「同志少女よ、敵を撃て」』。《出版社では、たいがいの編集者は、その人(筆者)の過去実績から本を出すかどうかを決めている。営業は初版部数を、やはり過去実績から決める》。そんな実情を考えると、日本人が書いた独ソ戦の小説、しかも著者は1冊も本を出したことがない人物、というハンディを背負ったこの本は、早川書房以外では陽の目を見なかった可能性もある、と指摘する。それでも2010年の創設以来、話題作を生み出せないでいた同社の「アガサ・クリスティー賞」の応募原稿として、これに目をとめた編集者や早川の若き副社長らは、自分たちの「目」を信じ、異例の売り出し方をしたのだった――。で詳細は次号に、となるわけだが、今回のこのコラムでも話題作を仕掛けた裏方のストーリーで下山氏は読者を惹きつける。


 実は十数年前、私は南米数ヵ国で取材した日系社会のルポを書き、初めての本を出すことができたのだが、当初はそのなかの1エピソードだけを膨らまして本にするつもりでいた。その「幻の処女作」の原稿を最初に読んでもらい、痛烈なダメ出しを食らったのが、当時、文春の編集者だった下山氏であった。今思えば、自分でも「書籍化はキツイ」と自認する出来栄えだったのだが、そのときはあまりに身も蓋もない酷評を受け、内心、かなりムッとしたものだった。


 今回の週朝コラムによれば、一般論で見た場合、『同志少女よ、敵を撃て』クラスの傑作原稿でも、平時の持ち込みなら(著者の実績のなさなどを見て、編集者は)《原稿すら読まないかもしれない》のが現実らしい。そう考えると、あのときの自分は知人の紹介があったとはいえ、数百枚もの「ダメ原稿」を根気よく読んでもらえただけでも感謝すべきだった。そのおかげで本のコンセプトをいちから練り直し、結果的に書籍化を果たせたのだ。


 ともあれ、年々危機を深めてゆくメディア業界で生き残りを模索するうえで、私以外にも多くの同業者が下山氏のコラムを、参考書のようにして読んでいるように思う。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。