(1)第3代藩主・徳川綱誠と側室お福(本寿院)


 尾張藩第7代藩の主徳川宗春(むねはる、在職1730~1739、生没1696~1764)は、とても、とっても、ものすごく面白い殿様である。「偉人」という単語のイメージではないが、とにかく「メチャ面白い人物」である。


 8代将軍徳川吉宗(在職1716~1745、生没1648~1751)と必ず比べられる。2人を比較する用語として、よく規制強化・規制緩和が使用されるが、それを使用すると、なんとなく現代政治・経済をイメージしてしまうので使用しないことにします。一応、2人のイメージは、

  徳川吉宗……質素倹約

  徳川宗春……遊興奨励

と思ってください。


 江戸時代、質素倹約に反対した大名は、宗春ただひとりであった。

 

 徳川吉宗の享保の改革は、デフレ不況下の質素倹約であるから、どん底不況継続であった。一方、徳川宗春は何もない田舎町である尾張名古屋をアッと言う間に、大都市に発展させた。しかし、徳川宗春失脚(1739年)以後、ずっと、「宗春はアホ殿様、吉宗は名君」という評価が続いている。


 今は知らないが、かつて名古屋祭でも、信長・秀吉・家康、それから加藤清正は登場するが、徳川宗春は登場しなかった。名古屋でも無視されていたのだが、やっと、約10年前から、宗春は、「類まれなる名君」という評価が、名古屋方面からチラホラ発信されるようになった。はたして、大人気を獲得するか……。


 前口上は、この程度にして、徳川宗春の父は、尾張藩第3代藩主・徳川綱誠(つななり、在職1693~1699、生没1657~1699)である。この殿様は、食べ物大好き、女性大好きであった。まぁ、人間の本能に忠実ということかな……。


 食べ物大好きのため、草苺(くさいちご)を食べて食中毒(食あたり)になり急死した。宗春が3歳の時である。


 女性大好きの方は、正室以外に16人の側室がいた。その結果、続々と子供が生まれ、男子22人、女子18人、合計40人が記録されている。当時は出生直後に死亡した場合は記録に残さないことも多く、実数はもっと多かったらしい。妻妾、子供の数のことであるが、江戸時代の殿様の中には徳川綱誠よりもお盛んな殿様がいるので、徳川綱誠が極端に多いというわけではないようだ。当時の医学水準では、子供の半数以上は幼少期に死亡する。徳川綱誠の子供も、成人したのは、男子5人、女子1人だけであった。宗春は一番下の男子であった。

 

 宗春の母は、梅津(宣揚院、1673~1743)である。別段のエピソードらしいことはない。


 ところが、4代藩主・徳川吉通(在職1699~1713、生没1689~1713)の生母は、すごいですよ~。落飾前は、福または下総(しもふさ、1665~1739)と呼ばれていた。落飾して本寿院と呼ばれた。絶世の美女なるがゆえに、3代藩主・綱誠の目にとまり、その子が4代藩主となった。


 綱誠の遺言状には、「『心次第』江戸にて養い」とあり、要するに、江戸へ移って、心のままに自由奔放の生活をしていいよ、ということである。綱誠は本寿院の本性を知っていたのだろう。一般的な解釈は、「自分が亡くなったら、あなたは淫乱の性なので、田舎町の尾張ではまずいので、大人口の江戸でなら目立たないから自由奔放にご乱行して構わないよ」ということになっている。


 以下、一般的解釈をベースに……、


 本寿院は26歳で未亡人になった。セレブで美貌の未亡人、エロ小説のストーリーそっくりの道を歩むのであった。


 4代藩主の生母として藩政に口出ししたため、尾張藩重臣から嫌われたこともあろうが、有名な淫乱女性で、朝日文左衛門重章(1674~1718)の『鸚鵡籠中記』(おうむろうちゅうき)では、「貪淫絶倫」(どんいん・ぜつりん)とある。貪淫絶倫の具体的内容は省略しますが、露骨なポルノ表現もあり、男をとっかえひっかえしてセックス三昧したことが書かれてある。ただし、すべて伝聞で真実は分からない。


『鸚鵡籠中記』は、本寿院のことだけが書かれているのではなく、朝日文左衛門重章が27年間、見聞きした膨大な内容が日記として書かれてある。この日記は、存在自体は知られていたが、尾張藩の藩庫に秘蔵されていた。そりゃそうだろう、藩主の生母が淫乱であるだけでなく、尾張藩に不都合な事実が遠慮なく書かれてあるからである。ようやく、昭和40年代に公開された。かなり話題になり、漫画にもなっている。なお、朝日文左衛門重章は色好き酒好の尾張藩中級武士である。


 本寿院の貪淫絶倫の話は、徳川時代末期まで有名であったようで、過激ポルノ実話として発展していったのであります。


 本寿院はご乱行なるがゆえに、幕府から厳重注意が申し渡された。しかし、そんなことで、本能は抑えられない。それゆえ、四谷屋敷に幽閉される。幽閉されても淫乱性は静まらないので、あれやこれやとポルノ話は続きます。

 

(2)尾張藩と紀州藩の将軍争い


 エロ話は別にして、四谷屋敷で重大事件発生。


 正徳3年(1713年)7月26日、本寿院の実子である尾張藩第4代藩主・徳川吉通が、四谷屋敷を訪問した。母・本寿院へのご機嫌伺いである。当然、本寿院と徳川吉通の会食というおもてなしを受ける。その夜、徳川吉通は急逝した。急逝の原因は何か?


 その前後にも不審な事件が発生している。


 正徳3年(1713年)閏5月、尾張藩士2人が連続して吐血急死、1人は自害とも言われている。宗春が初めて江戸へ行った際、2人の武士が付き添った。その2人が、急死したのだ。


 正徳3年閏5月20日、尾張藩の御連枝(分家)の陸奥国梁川(やながわ)藩の藩主松平義昌(1651~1713)が死去。後は、その5男である義賢(義方)が継いだ。梁川藩3万石は尾張藩の血脈断絶を予防するためにつくられた藩である。


 正徳3年7月26日、前述のように、尾張藩第4代藩主・徳川吉通が急死。後は、幼い嫡男・徳川五郎太(1711~1713)が継いで、5代藩主となった。


 正徳3年10月18日、幼い5代藩主・徳川五郎太が死去。後は、叔父の徳川継友(1692~1731)が継いだ。


 これらの不審な事件の背景には、第6代将軍徳川家宣(いえのぶ、在職1709~1712、生没1662~1712)の後継者問題が横たわっているかも知れない。正徳2年(1712年)徳川家宣が重病になった。


 第7代将軍を誰にするか?


 新井白石(1657~1725)の『折たく柴の記』には、次のようにある。①家宣の子である4歳の家継(いえつぐ)、②第4代尾張藩主・徳川吉通、の名が挙がった。そして、①に決まるのだが、4歳の徳川家継が子を生まずに亡くなった場合は、尾張の徳川吉通が将軍に任じられることは、公然の事実とされた。


 正徳2年(1712年)10月14日、第6代将軍徳川家宣が逝去。


 正徳3年(1713年)4月2日、第7代将軍に幼い徳川家継(在職1713~1716、生没1709~1716)が正式に就任した。


 そもそも、徳川御三家でも尾張藩が筆頭で、徳川宗家に後継者が途絶えた場合、尾張藩に優先権があった。したがって、尾張藩は何もせずとも将軍職が回ってくると安直に考えていたようだ。しかし、紀州藩第5代藩主の徳川吉宗(1705年に藩主に就任)は、野心満々で将軍職を狙っていた。そして、数々の工作をしたようだ。


 そのひとつが、最大のライバルである吉通及び尾張藩の評判を落とすことである。吉通の生母・本寿院のスキャンダルは格好の題材であった。「火のない所に煙は立たず」で、若干のご乱行はあったかもしれないが、『鸚鵡籠中記』の「貪淫絶倫」は、紀州藩の工作の成果である可能性が大である。スキャンダル拡散だけでなく、毒殺も実行したかも知れない。幕閣や大奥への工作も抜かりなく実行した。正徳4年の「絵島生島事件」も、なんらかの関係があるかも知れない。


 正徳6年(1716年)4月30日、第7代将軍に幼い徳川家継が7歳で亡くなった。8代将軍候補者は、最有力候補が尾張藩6代藩主の徳川継友、ライバルが紀州藩の徳川吉宗であった。尾張藩は相変わらず、何もせずとも当然将軍職が回ってくるとボンヤリしていた。しかし、紀州藩は幕閣・大奥へ大工作を行い、その結果、吉宗就任となった。『鸚鵡籠中記』には、尾張藩の無能・無策をからかう落書が江戸中にあふれた、と記されてある。その中の一首を紹介しておきます。


 尾張には能なし猿が集まりて 見ざる聞かざる天下とらざる


「昔人の物語 第53話百地丹波」で書いたことであるが、3大忍術秘伝書のひとつは、紀州流忍術書『正忍記』(しょうにんき)である。これは1681年に紀州流の名取三十郎正澄が書いたものである。吉宗は、「御庭番」なる幕府諜報機関、要するに秘密公安警察を新設し、そのメンバーは全員が紀州藩出身者、すなわち紀州流忍者であった。つまり、吉宗の将軍就任(1716年)に紀州流忍者が陰で大活躍し、その論功行賞が「御庭番」創設であったと思う。

 

(4)気楽な「部屋住み」生活


 ようやく、本題の徳川宗春に入ります。


 父の第3代藩主・徳川綱誠が1699年に亡くなった時、宗春は3歳である。宗春は一番下の男子で、嫡男で第4代藩主に就任した徳川吉通の他にも4人の兄がいた。どう考えても藩主になる可能性はなしで、いわゆる「部屋住み」の境遇である。ただし、尾張藩は表高62万石ながら木曽の山林などもあり、実質100万石といわれる豊かな藩である。そのため、「部屋住み」であっても、豊かな生活、気楽な生活が保障されていた。ずっと名古屋で生活した。


 そして、正徳3年(1713年)4月、宗春18歳、尾張から出たことがない宗春は、初めて江戸へ向かった。江戸へ到着するや、前述したように、宗春に付き従って尾張からきた2人の藩士が謎の死を遂げた。そして、同年7月には第4代藩主・徳川吉通が急死。同年10月には幼い第5代藩主・徳川五郎太が死去した。


 そうした不審な事件が連続したのであるが、漠然とは尾張藩と紀州藩は後継将軍を巡って対立している、と説明されたとは思うが、宗春としては、どうすることもできない問題なので、「へぇー」と思うだけだった。それよりも、初めての江戸にワクワク、吉原遊びも覚え、「楽しい気楽な部屋住み」生活を満喫していた。そうこうしていたら、紀州の吉宗が8代将軍になった。宗春の内心は「順当なら、尾張藩なのに。悔しいな」と思ったに違いない。しかし、思うだけで、宗春としては、どうしようもない。どうしよもないことを、ぐだぐだ思っても無益とさとり、相変わらず吉原遊びである。


 気楽な生活を楽しんでいたが、1729年、宗春34歳の時、突然、陸奥国梁川藩3万石の藩主に任命された。梁川藩松平家は尾張藩徳川家の分家で、後継ぎが絶えたため、将軍吉宗の命令で、宗春が梁川藩の藩主になったのだ。藩主になっても、現地へ行くこともなく、江戸でも楽しい日々が続いた。しかし、やはり藩主としての自覚はしっかりあって、現地の事情などを学んでいる。それで、具体的に何をしたかはわからないが、古文書や伝承では「領民思い」であったらしい。

  

(5)ド派手でお国入り、名古屋大発展


 梁川藩主になって、1年3ヵ月、事態は急変した。


 享保15年(1730年)11月27日、兄の第6代尾張藩主・徳川継友39歳が麻疹(はしか)にかかって死亡。徳川宗春35歳が第7代尾張藩主に就任した。

年が明けて、享保16年(1731年)正月、宗春は、藩の令を出す。

  • 公儀の法度、代々の法規を守るべきこと。……吉宗の政策に反する治世を決意していたので、用心深く宣言した。宗春は、吉原遊びをしながら、政治のあるべき姿を考えていたのだ。
  • 藩邸内での歌舞音曲の許可。……吉宗の質素倹約とは正反対。
  • 夜の外出の許可。……夜遊び、朝帰りもOKですよ。
  • 本寿院の蟄居を解く。……未亡人が少しくらいご乱行したって、いいじゃないの。食欲と色欲は人間の本能なので、女性だって男性同様で、いいじゃないの。


 徳川宗家のイデオロギーは朱子学である。その根本は、殿の命令は絶対、ということだ。朱子学と質素倹約が、どこでどう関連しているのか、私にはよくわからないが、「質素倹約は絶対善」で、「贅沢浪費は絶対悪」である。娯楽や遊びは、せいぜい必要悪である。おそらく、宗春は、気楽な「部屋住み」生活の中で、「質素倹約は絶対善」「贅沢浪費は絶対悪」に違和感を持ったのだろう。「人間は遊びも大切」「金を貯めるだけではよくない。使ってこそ活気が出る」を漠然と悟ったのだろう。


 享保16年(1731年)4月12日、藩主として初のお国入り。徳川宗春は奇妙奇天烈なド派手ド奇抜ファッションで登場したのである。


 前もって一言。徳川宗春は失脚して、その後、宗春関係の文書・肖像画はすべて破棄されたようだ。しかし、失脚後、宗春時代を「なんて楽しい時代だったことか」と懐かしんで書かれたのが、『遊女濃安都』(ゆめのあと)である。作者不明で、似たような本が十数種類もある。『遊女濃安都』を読もうと探したが、たどり着けなかった。それで、以下の名古屋繁栄関係の文章は、あちこちに書かれてある断片の孫引きです。それにしても、「ゆめのあと」を「遊女濃安都」と書くなんて、感心してしまいました。


 お国入りのド派手ド奇抜ファッションについて……


「水色の頭巾にべっ甲の丸笠、そのふちに二方が巻煎餅のように上へ巻き上がり、唐人笠のよう。衣服は黒ずくめで足袋も黒。かごではなく馬に乗ってきた」


 なんかよくわからないが、非常に奇抜な笠を頭にのせて、首から下は黒一色。馬に乗ってきた。通常、殿様はかごに載って姿と顔を見せないものだが、ド派手ド奇抜ファッションを尾張の人々に見せつけるため、馬に乗って現れたのである。もう、みんなビックリ。


 お国入りの時だけでなく、芝居見物、遊郭遊びに出かける時は、白牛に乗り、ド派手ド奇抜ファッションで、1.5mの長い煙管を持って出かけた。こそこそ遊びにいくのではなく、堂々と目立つように遊びに行ったのである。民衆は拍手喝采である。


 余談ながら、名古屋が生んだ快男児・民社党委員長春日一幸(1910~1989)を、夜の10時頃、東京駅八重洲口で目撃したことがある。銀座のホステス4~5人を連れて、ゆったり、ゆったり歩いている。新幹線に乗るため、タクシーじゃなく、銀座の店から歩いて来たのだ。今思うと、春日一幸と徳川宗春がダブってみえる。


 思い出話はさておいて……、宗春のド派手ド奇抜ファッションのメッセージは、「質素倹約なんて糞くらえ、みんな楽しく遊ぼうよ。それが、みんなの幸せにつながる」である。この衝撃は尾張のみならず、すぐさま江戸や上方に伝わり、歌舞伎『傾城夫恋桜』(けいせいつまこいさくら)となり、その役者絵は現存する宗春の唯一の絵である。黒牛に乗り、ド派手ド奇抜ファッションで、1.5mの長煙管笠を持ち、美顔の若小姓が3人周りにいる、そんな役者絵である。歌舞伎『傾城夫恋桜』は江戸や上方では大ヒットしたが、名古屋では不評であった。役者の顔が本物の宗春と似ていなかったからだ。

 

 むろん、殿様ひとりが民衆の喜ぶファッションをしただけではない。


 祭、盆踊り、花火などを盛大にした。花火はアッと言う間に広がり、尾張の隣の三河は現在も花火生産が多い。花火大会は、見物人でごった返し、肥溜めに落ちる人もいた。


 女子供の夜間外出のため、広小路と本町筋に提灯や行灯を数多く置いて毎夜灯りつけた。


 武士の芝居見物は禁止されていたが、OKにした。それまでは、町人に変装したり、覆面をしなければいけなかった。

 

 遊女町(新地)を、西小路(中区松原)、葛町(中区正木)、富士見原(中区富士見町)の3ヵ所に開いた。全国から遊女1000人が移ってきた。3ヵ所以外にも多くの岡場所(非公認の遊女屋)ができた。


 芝居や相撲もドンドン許可した。宗春以前は芝居興行は1年1回であったが、享保17年には100回を超えた。2倍3倍じゃないよ、たった1年で、100倍だよ~。大須(名古屋市中区)には、常設芝居小屋が60軒以上並んだ。むろん、一流芸能人が江戸・上方から大勢集まった。名古屋は芸能の最大拠点となったのである。


 外食の店がズラリと並んだ。全国からさまざまな外食店が出店した。伊勢の赤福餅や江戸の幾世餅(いくよもち)も店を並べた。赤福餅の看板は「餅くふかあ」とあり、下から読めば「あかふく餅」である。幾世餅は焼いた丸餅の上に餡(あん)を乗せたもので、大評判となり、本家争いで大岡裁きがなされた餅である。とにかく非常に多種類の食べ物が並んだのである。


 建物がドンドン建ち、人口が増加し、商人の儲けは急上昇した。


 田舎町の名古屋は一挙に活気を帯び、江戸・京・大阪に次ぐ大都会になったのである。「名古屋の繁華に興(京)がさめた」と言われた。名古屋の急成長に京都商人がうろたえたのである。8代将軍吉宗の質素倹約政策によって全国的に不況が継続していたが、名古屋だけが一挙に好景気になったのである。


 名古屋だけ好景気、名古屋だけ急成長……、あまりの大成功に、宗春自身が一番ビックリしたのではなかろうか。


 なお、宗春は公式行事の際は、しっかりと、公儀の法度、代々の法規を守ったファッションであった。吉宗の御庭番の目を警戒してのことだ。


(6)宗春の「温治政要」


 享保15年(1730年)11月に藩主となり、すぐさま、自分の政治理念を書き始め、享保16年(1731年)3月には書き終え、上級藩士全員に配布した。21ヵ条、約7000文字である。


 第1条は「慈」「忍」が大切、第2条は、「仁」が一番、まぁ、ごもっとも、ごもっとも、である。


 第3条がスゴイです。「千万人のうち一人誤って刑しても、国持大名の恥である」。国政は誤りがあっても、直すことができる。刑罰の誤審は、取り返しがきかない。この第3条と第17条を合わせ読むと、まったくスゴイ。


 第4条は、重役に就くと、最初は賢く行うが、徐々に堕落する。第5条は、上に立つ者は慈悲憐憫が第一の学問である。第6条は、適材適所。第7条は、好みを押しつけない。第8条は、法令が多いのはよくない。第9条は、倹約もやり過ぎはよくない。第10条は、どんなに良いことでも、評判が悪いことがある。だから、仲良くしなければならない。


 第11条、心の持ちようが大切。第12条、見せ物、外食店を許可。第13条、知識が大切。第14条、諸芸の達人になるのは難しい。第15条、若者への意見の仕方。第16条、若い時の誤りは学問となる。第17条は、火の用心である。その中に、「たとえ千金を溶かした物でも、軽い人間一人の命には代えられない」とある。言葉だけの人命尊重は、いくらでもある。第3条と第17条によって、宗春治世の尾張では、死刑ゼロであった。


 第18条は、上に立つ者は、下情に通じることが大切。ただし、通じすぎてもダメ。第19条は、社会変革はゆっくりと。第20条、改革がすべて正しいと思うな。第21条は、君主はいかなる家臣に対しても分け隔てなく思いやりを持って接する。


「温治政要」の大半は、ごもっとも、ごもっとも、である。目立った特色は、「3条+17条」の人命尊重である。これに関しては、次の項「(7)名古屋心中」でも取り上げます。それから、「温治政要」には、随所に、将軍吉宗の批判が込められている。どこが、どう批判しているか、については説明が長くなりますので省略します。


 なお、「温治政要」はかなり出回り評判になった。そこで、上方の出版社が普及版を出す段取りをつけたが、幕府は出版禁止命令を出した。さらに、宗春処分後は、回収処分となったが、かなり出回っていたため、あちこちに相当数残った。


(7)名古屋心中


 享保16年(1731年)4月12日、宗春の初のお国入りから、一挙に名古屋は発展した。そんななか、享保18年(1733年)11月、闇之森(くらがりのもり)八幡社(名古屋市中区正木2丁目)の境内で心中未遂事件が発生した。以前は「闇之森心中」と呼ばれていたが、最近は「名古屋心中」と呼ばれることが多いようだ。飴屋町花村屋遊女小さんと日置村畳屋喜八の心中未遂である。


 心中に対する幕府の方針は、2人とも死んだ場合は埋葬禁止、死体を裸にして野原に捨て置く、片方が生き残った場合は死罪、未遂の場合は、3日間さらし者にして、元の住所に戻さず非人とする。むろん結婚などできない。厳罰主義である。


 ところが、「名古屋心中」は、世にも珍しいハッピーエンドなのだ。


 さらし者3日間は広小路で短時間だけ、そして2人は親元へ返された。つまり非人にならずにすんだ。そして2人は、結婚して、赤ちゃんも生まれた。


 たまたま、名古屋で興行していた浄瑠璃の太夫・宮古路豊後掾(みやこじ・ぶんごのじょう、1660~1740)がこの心中事件を、すぐさま新作浄瑠璃『睦月連理玉椿』(むつまじき・れんりの・たまつばき)に仕上げた。そして、黄金薬師(現在、円輪寺・名古屋市栄3丁目)で上演したら、超大ヒット。「広小路が狭小路になった」と言われたほど観客が集まった。

 

 そもそも、近松門左衛門(1653~1725)らは、実話を題材にして浄瑠璃を作り上げたのだが、心中浄瑠璃が大ヒットすると、実際の心中そのものが増加した。そのため、幕府は、心中浄瑠璃を禁止した。


 そんななかでの、新作心中浄瑠璃である。名古屋人は、心中未遂への寛大な処置、そして、心中浄瑠璃の上演黙認は、徳川宗春の意思であることを、よ~くわかっていた。「神様、仏様、お殿様」って感じで、拍手喝采したのである。

 

 前述したように、『温知政要』の第3条には、「千万人のうちに一人誤って処刑しても大名の恥である」とある。第17条には、「たとえ千金を溶かしても物でも、軽い人間一人の命には代えられない」とある。封建時代にあって、徳川宗春は、かくも堂々と高らかに民の人命尊重を掲げたのである。これは、本当に稀有なことで、涙を流した儒者もいた。現代の歴史学者も賛嘆している。


 なお、豊後掾のことであるが、『睦月連理玉椿』(むつまじき・れんりの・たまつばき)で大成功を収め、一躍、トップ芸人になった。彼は、たまたま大ヒットした芸人ではなく、しっかりした実力を有していた。その実力が『睦月連理玉椿』で大きく開花したのである。豊後掾の浄瑠璃は、情緒的、色気のある謡で、その芸風は豊後節と言われた。そして多くの弟子が、さらに発展させ、多くの豊後系浄瑠璃を生んだ。


 常磐津節・富本節・清元節・宮園節・新内節である。豊後系浄瑠璃は、凄まじい人気で禁止令すら出た。戦後のアメリカでも、プレスリーへの禁止令が出たが、とにかく豊後系浄瑠璃は幕閣が右往左往するほどの人気であった。さらに言えば、豊後掾の髪型、ファッションである「文金風」も大流行した。今も、花嫁の髪型「文金高島田」に名残を留めている。


 つまりは、徳川宗春の人命尊重政策が、豊後系浄瑠璃などの文化を生んだのである。ただし、徳川宗春失脚後は、「名古屋心中」は上演禁止となった。そして、忘れ去られた。しかし、21世紀になって、思い出されて、上演された。名古屋の芸人、頑張ってみゃ~。


(8)でも、失脚した


 かくして、一般民衆からも知識人からも、「紀州様でなく尾張様が将軍になったらよかったのに……」そんな声なき声が湧いてくる。そうなると、幕府も動かざるを得ない。また、名古屋では、遊び過ぎて破産する者、武道・勉学をそっちのけにして遊び一辺倒の者、そんな人間が目立つようになってきた。さらに、尾張藩の財政赤字化も心配になってきた。そして、ついには、失脚する。

 

 享保16年(1731年)の歳末の雰囲気は、もう極楽到来である。


「寒中大晦日を忘れての遊び事、老若・男女・貴賤ともに、かかる面白き世に生まれあふ事、是只前世利益ならん、仏菩薩の再来し給ふ世の中やと、善悪なしにありがたしありがたしと、上を敬ひ地を拝し、足の踏締なく、国土太平、末繁盛と祈楽み送る年こそ暮行ける」


 享保17年(1732年)3月、参勤交代で江戸へ行く。このときのファッションは宗春のみならず供の者も、それぞれ工夫をこらした金銀ギラギラで、大ファッション・パレードであった。約1年間、江戸在住となる。この頃は、絶好調である。


 5月に尾張藩江戸屋敷にて嫡嗣万五郎の端午の初節句飾りを町人に見物を許した。すると、吉宗は側近を派遣して詰問した。詰問内容は、3点あった。①国元ならともかく江戸でも派手なことをするのは、いかがなものか。②権現様(家康)から拝領の御旗まで町民に見せたのは、いかがなものか。③公儀の倹約令を守らないのは、いかがなものか。


 これに対する、宗春の答弁は、まったくもって堂々たるものである。①国元で遊山し、江戸では慎むという裏表ある行動は、私はいたしません。②御慈悲のある権現様は、そんな些細なことを気にするはずがありません。③本当の倹約とは、上の者が下の者の財布を欲しがらないことであって、私の華美はかえって下々の者の助けになっています。


 全体の調子は、間接的ながら、将軍吉宗は威張るな、将軍吉宗は民を苦しめているではないか、というものである。お芝居にしたら、名台詞のオンパレードである。詰問・答弁は、それだけで終わったが、吉宗と宗春の対立は決定的となった。


 あまり語られないが、バックグランドには、享保17年(1732年)の享保の大飢饉があったと思う。西日本を中心に餓死者1万2000人、この数字は各藩の幕府への報告した数で、実際は、数十万人と言われている。享保18年正月には、米価高騰により、江戸では「享保の打ちこわし」という大規模騒乱が勃発した。そんな大不況時に「紀州様でなく尾張様が将軍になったらよかったのに……」という声がひたひたと広がっていた。

 

 尾張藩の財政であるが、宗春以前は黒字財政であったが、藩主就任の翌年から赤字となった。それを町人からの借金で穴埋めした。宗春治世で商人は大繁盛したのだから、商人からの借金ではなく、田沼意次のように税金にすればよかったと思うのだが、宗春は民衆思いで、民の財布から金をむしり取ることを嫌がったのだろう。とにかく尾張藩は赤字が拡大しつつあった。


 では、宗春は赤字財政をどうしようと思っていたのか。たぶん、後10年か20年すれば木曽の檜が伐採可能まで成長するだろうから、それで、どうにかなる、と思っていたのではなかろうか。


  享保18年(1733年)正月、江戸で大規模な「享保の打ちこわし」が発生した。宗春は、「吉宗の政治は間違っている、自分の政治が正しい」と意を強くしたに違いない。


 享保18年3月に、江戸を出立して、名古屋へ帰る。


 この頃から、「仕事をなまけて遊びばかり、博打や喧嘩が多くなった、やたら不倫騒ぎが多くなった」というマイナス現象を深刻に考えるようになった。質実剛健の気風を取り戻すべき、藩士・農民を含め2万人規模の猪狩りの大イベントを計画したが、幕府は、謀反の軍事訓練と疑い中止させた。


 享保19年(1734年)3月、参勤交代で江戸へ。


 この年から、猪狩りの大イベントが中止させられたので、やむなく、遊興奨励に若干のブレーキをかけ始めた。宗春は政策修正を余儀なくされた。


 享保20年(1735年)3月、名古屋へ帰る。


 元文元年(1736年)1月、遊女屋、芝居小屋の新設禁止。3月、3ヵ所の遊女町を西小路1ヵ所に統合。宗春の政策転換の理由は、①勤労意欲低下・博打・不倫増加、②財政赤字、③幕府の宗春への圧力強化、である。とりわけ、幕府は、「宗春謀反」のデマをまき散らしたのである。おそらく「御庭番」の仕業であろう。それと、尾張藩重臣を幕府側に取り込むべく、つまり反宗春にさせるべく工作を始めた。


 元文元年(1736年)3月、参勤交代で江戸へ。


 元文2年(1737年)4月、名古屋へ帰る。


 元文3年(1738年)3月、参勤交代で江戸へ。6月、尾張藩重臣が宗春を無視して、遊女屋全廃を命じる。要するに、重臣クーデター成功。


 元文4年(1739年)1月、吉宗、宗春の隠居謹慎を命じる。9月、名古屋へ帰り、三の丸屋敷に幽閉される。その後、下屋敷に替わる。


 明和元年(1764年)10月、下屋敷で死去(69歳)。


 宗春の心境は、「やるだけやった」という一種の満足感があったと思う。幽閉といっても、広大な屋敷に住んでいて外出禁止ということで、屋敷内ではかなり気楽な生活であったようだ。下屋敷では朝鮮人参の栽培に取り組んでいた。また、墓参など若干の外出は許可されるようになった。側室の「和泉(いづみ)=阿薫(おくん)=華子=宝泉院=芳負禅定尼」(1715~1780)と「おはる=春日野=貞幹院」は、最後まで、仲良く宗春のそばにいた。


 幕府は、宗春が死んでも許さなかった。そして、宗春は忘れ去られていった。


(9)付録、宗春の女性


 正室はいない。理由は複雑な身分関係が絡まっているので省略。


 側室は、4人とも6人とも。宗春は美人好みで、いずれも飛び切りの美女だった。


 側室のひとり、おはる、について。


 宗春の吉原遊びのことであるが、当時の常識として、「身元不明の御大尽」として遊ぶ。大名や武士が吉原で遊ぶのはOKだが、遊女の身請けは禁止されていた。にもかかわらず、身請けして蟄居させられた大名・武士は結構いる。宗春は春日野という遊女に惚れこんで、事実上の身請けをして、側室にした。どうも、春日野の親を尾張藩の武士にして、親が身請けして(親身請けの方が安上がり)、その後、側室にしたようだ。法律違反逃れスレスレの脱法行為である。幕府にはバレなかったが、尾張藩士は知っていた。元文3年(1738年)6月の尾張藩重臣クーデターの大義名分は、おはる、であったようだ。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。