運命の出会い


 豪商でも紀伊国屋文左衛門のようなハチャメチャなキャラクターは人気抜群である。一方、国富増大の基盤をつくった河村瑞賢(1618〜1698)のような偉人的豪商は、まるっきし人気がない。スキャンダル連発のタレントのほうが、品行方正なタレントよりも人気が出るらしいが、往々にして人物評価は天邪鬼である。


 河村瑞賢の2大業績は、安全・確実・迅速に本州をグルリと一回りできる海路、すなわち、「東廻り」「西廻り」を整備・確定したこと、及び、畿内の治水事業をなしたことである。むろん、商人だからがっぽり儲けたのであるが、それにしても人気がない。


 河村瑞賢は伊勢国(三重県)の貧農の子である。13歳の時、一旗揚げるべく江戸へ出た。車力やら土木作業などを真面目にコツコツ働いたが、パッとしない。現代で言えば、非正規労働者、アルバイターという感じ。だもんだから、江戸での成功をあきらめ、「商売はやっぱり上方で」とばかりに、僅かの金を持って上方へ向かう。


 旅の途中の小田原宿、ここでベートーベン、ジャ・ジャ・ジャ・ジャーンの『運命』の出会い。一人のモノシリ老人に出合う。


「江戸がダメで、なにが商売は上方じゃと。お前は時代の流れが、まるでわかっていない。これからは、江戸が日本の中心じゃ。江戸を離れるのは間違いじゃ。お前の人相は大成功の相じゃから、ただちに江戸へ引き返せ」


 瑞賢は悩める青年だったと思う。上方へ行っても成功する保証はなにもない。老人の言葉を信じて江戸に戻ることになった。この老人を、黄檗宗の鉄牛禅師(1628〜1700)であったとか、鉄眼禅師(1630〜1682)であったとか、鉄心禅師(1641〜1710)であったとかするお話もあるが、年齢的に辻褄が合わないからフィクションである。まぁ、それなりの「学があるオシャベリ老人」だったのだろう。運命の出会いの後日談もあるが、セクシーガールが登場するわけでもないので省略。ともかくも、青年瑞賢は、老人のアドバイスを信じて江戸へ戻ることになった。


 瑞賢の行動パターンとして「聞き上手」がある。後年、彼は紀文のような吉原での豪遊はしなかったが、他人が成功すると、その人を招いて大宴会をするのが常だった。他人の成功を心から祝福する気持ちもあったろうが、「成功の秘訣」をちゃっかり聞き出す目的があったと推理する。 


 そして、品川まで来た。


 崖があり下に川がある。ふと見ると、茄子や瓜がたくさん川岸に漂着している。ちょうど盂蘭盆の翌日で、精霊にそなえるため川へ流したものだ。そこで、再びベートーベン、ジャ・ジャ・ジャ・ジャーンの『運命』のひらめきが瑞賢の脳細胞をおそった。


 乞食に少々の銭を与えて拾い集めさせて、古い桶を購入して塩漬けにして、土木作業現場へ持っていった。メチャ安いから、バカ売れ。河村瑞賢の最初の成功とは、ゴミの商品化であった。


 土木作業現場で漬物商売をするうちに、如才なく現場の役人と懇意になる。そして人夫頭となり、さらに土木の下請け業者となり、そして材木業者となる。その間、いわば生産性向上の工夫をしたエピソードが、いろいろあるが省略。 


明暦の大火で大儲け


 そして、明暦3年(1657年)、3度目のベートーベンじゃなくて、今度は半鐘の音、ジャン・ジャン・ジャン・ジャン……、大火災発生。猛火は瑞賢の家の方向へ押し寄せてきたが、瑞賢はキッと猛火を見つめるや、あるだけの金銀を懐にして急きょ旅支度。家財道具を撰び運び出そうとしていた番頭はびっくり。


「焼ける家など、どうでもよい。これから木曽へ行って材木を買い占める」と言うや、超スピードで木曽へ到着。


 森林の管理支配人の屋敷の門に入ると子供が遊んでいる。瑞賢は小判に穴を開けて紙ひもを通し、子供に「ほおーら、キラキラおもちゃだよー。坊やにあげるよ」と言って渡した。子供は無邪気に「このおじちゃんから、キラキラおもちゃを、もらったよ」と告げる。管理支配人は瑞賢をスゲェー大商人と信じ込んで、材木売買契約が即時成立。瑞賢は買い占めた材木全部に瑞賢の名を記した。


 この材木買い占めの逸話は、講談では紀文とされているが、完全な間違い。


 さて、江戸の大火事は江戸城をはじめ江戸市中の大部分を焼失させ、死者は10万8000人を数え、「明暦の大火」と呼ばれる。あまりの大被害のため、「振り袖」伝説まで生まれ、俗に「振り袖火事」とも呼ばれた。江戸三大火事とは、この明暦の大火、明和の大火(1772年、死者1万4700人・行方不明者4060人)、文化の大火(1806年、死者1200人)をいう。通称「八百屋お七の火事」で有名な天和の大火(1682年)の死者は830〜3500人と推定されている。こうした数字からも、明暦の大火の被害が超巨大であったことがわかる。


 当然、江戸市中の備蓄木材も焼失したから、材木商は木曾へ出向いた。しかし、すでに瑞賢に買い占められていた。これによって、瑞賢は巨利を得た。瑞賢40歳の時である。


 教訓、まず女子供を手なずけろ、田舎者にはハッタリが通用する……そんなことを考えてはいけません。


 力説したいことは、誰でも大火災を予測できた。その時なにをすべきか、瑞賢は平時から大火災の場合をシミュレートしていたのだと思う。 


老中稲葉正則に取り入る


 明暦の大火以後、江戸は大復興の建築ラッシュで高度成長。瑞賢は、幕府・諸大名に取り入って、土木建築業に精を出す。その取り入り方が、これまた、お上手。紀文のように、露骨な賄賂攻勢、吉原での接待攻勢という欲と色とのミエミエ方法ではなく、上品というか垢抜けている。


 老中の稲葉正則(1623〜1696)の信任を得たエピソードがある。小田原藩主の稲葉は、老中首座になった幕府の大人物である。


 稲葉が帰依する寺院へ、立派な銅製の手洗い鉢を寄付する。寺に参拝に行った稲葉は当然ながら、その手洗い鉢を使用する。あまりに見事な製品ゆえに、住職に尋ねる。


「立派な品だが、どこで手に入れたか?」


「河村瑞賢なる江戸の商人からの寄付によります」


 稲葉の頭の中には、しっかりと瑞賢の名がプラスイメージとして記憶される。そうしておいて、瑞賢は稲葉に接近していった。老中の稲葉正則との接近成功により、河村瑞賢は幕府の公共事業に参画していく。


 江戸は復興によって高度成長、人口急増。よって、江戸は米不足となり、幕府は奥羽の天領から米を輸送することになった。稲葉主導の幕命により、瑞賢は、1671年「東廻り」、1672年「西廻り」の航路を確立した。


 さらに、幕命により淀川河口の治水工事を行った。この治水は、河口だけを工事しても抜本的解決にはならず、上流の治山と下流の治水を一体的に整備するという治山治水一体の哲学によってなされた。


 航路開拓と淀川河口治水の成功により、瑞賢の能力は幕閣全員が認めるところとなり、全国各地で治水、灌漑、築港、開墾、鉱山開発などを請け負った。その活躍を、新井白石は「天下に並ぶ者がない豪商」と称賛した。


民間CIA長官かな


 ということが、河村瑞賢の一代記である。省略したエピソードは、すべて「すごい!」「頭がいい!」の「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」のお堅い偉人物語。どうも、いまいち面白くない。そこで、私の大胆想像力。


「東廻り」「西廻り」の航路確立とは、自動的に港からの情報ネットワークの元締めになったことを意味するのではないか。すなわち、公儀お庭番スパイ網とは性質を異にするものの、事実上、民間CIA長官になったのではないか。その情報をもとに、数々の大事件に劇画的活躍をしたのではないか。となると、セクシーな「くの一」も登場したりして……。


 1684年に大老堀田正俊殺人事件があった。大老堀田が若年寄稲葉正休(稲葉正則とは無関係)に、江戸城本丸御用部屋(老中たちの部屋)で突然殺害された。殺人犯の稲葉正休もその場で同僚に斬り殺されてしまった。原因は謎のままである。今に至るまで原因不明だから、いくらでも想像できる。少なくとも、瑞賢は淀川治水の時、視察に来た稲葉正休の案内役をしている。だから、案外、この殺人事件に関わっているかもしれない。


 越後騒動(1680〜1681)は、越後高田藩のお家騒動である。藩が2派に分かれて泥沼化して、結局、5代将軍綱吉の裁定によって、2派とも厳罰、高田藩は改易となった。騒動発生以前のことだが、瑞賢は高田藩の公共事業を請け負っている。その頃、銀山発見もあった。当然、瑞賢は高田藩の内実に詳しかったと思う。


 1675年、幕府は小笠原諸島の調査を実施した。小笠原諸島に関しては、風来坊の小笠原ナニガシというペテン師が暗躍するのであるが、不思議にも、そのペテン師の名前が正式名になってしまった。それはともかくとして、港の情報、海の情報の元締めたる瑞賢は小笠原諸島の調査開発計画に関わっていたかもしれない。


 とまぁ、そんな想像をすれば、少しは面白くなる。 


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。