7月23日、ウクライナ軍は黒海に面した南部オデーサ海洋貿易港が、ロシア軍のミサイル攻撃を受けたと発表。前日に穀物輸出再開に合意した矢先の攻撃に対し、ウクライナに駐在する米国のブリンク大使はツイッターで、“The Kremlin continues to weaponize food.”と非難した。食料の武器化という表現から思い出したのは、「エコノミック・ステイトクラフト」。医薬・医療業界も決して無縁ではない概念だ。
この言葉は、10日ほど前、株式会社FRONTEO主催の『AI Innovation Forum 2022』で知った。同社は、前身となる株式会社UBIC以来、20年近いデジタルフォレンジック(電子鑑識)で培った人工知能(AI)のノウハウを生かし、AIを主体としたビジネスモデルへの転換を進めている。フォーラムでは、事業の柱である「リーガルテックAI」「ライフサイエンスAI」「ビジネスインテリジェンスAI」のセッションを主軸に、12の講演が行われた。
聴講が多かった講演は『AIで心の病を定量する』(慶應義塾大学医学部・岸本泰士郎氏)、『新たな産業革命の旗手は誰か』(衆議院議員・甘利明氏)、『患者の転倒転落リスクをAIで予測する』(石川記念会HITO病院・細川克美氏)、『多様化するリスク:今なぜ経済安全保障が必要なのか』(東京大学公共政策大学院・鈴木一人氏)だったという。確かに、ライフサイエンス分野における、心の病の定量や、転倒転落リスク予測による医療の質向上や現場の負担軽減は魅力的なテーマだが、ロシアによるウクライナ軍事侵攻の先行きが見えない現在、「経済安全保障」がとても気になった。
■さまざまな場面でのES
鈴木一人氏といえば、5月5日にロシア外務省が発表した「入国禁止措置対象とする日本人63人」のひとり。本人は、「ロシアへの経済制裁に直接関与してはいないが、制裁の研究をしていたためか」と首を傾げていた。その鈴木氏は今回のフォーラムで、経済安全保障を考えるときに外せない言葉として、エコノミック・ステイトクラフト(economic statecraft:ES)を挙げ、「経済的手段を用いて政治的な意思や価値を強要(強制)すること」と説明した。Statecraftは元来、国政術、政治的手腕といった意味だ。
ESの代表的な手段は「制裁」。例えば、西側諸国のロシアへの経済制裁は「戦争をやめなさい」という意思を強要するものだ。過去の事例では、2010年に尖閣諸島沖で中国漁船が海上保安庁の船舶に衝突した事件を機に日中間の緊張が高まった際、中国が突然レアアースの輸出を停止した。これは、「通商の停止」によって「(勾留中の)船長を開放しなさい」という意思を通そうとするものだった。
■異質な国々との「自由貿易」
【政経融合の時代へ】鈴木氏は、近年「自由貿易」の中身が徐々に変質してきていたと指摘する。
第二次大戦後、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)からWTO(世界貿易機関)体制に至った時期を経て、我々は当たり前のように「戦前のようなブロック経済ではなく、世界が自由貿易でつながるのが正しい姿だ」と受け止めてきた。だが振り返ってみると、冷戦時代の自由貿易は西側諸国間のものだった。同盟関係にある日米や友好関係にある欧州との貿易が非常に盛んになった一方、中国や東側諸国との取引には制限があり、自由とはいえなかった。
ところが、冷戦が終わると、中国は2001年、ロシアは2012年にWTOに加盟。当時は、あたかも世界が自由貿易一色に染まるかのような期待感があった。やがて中国は「世界の工場」として、資源大国ロシアは「世界のガソリンスタンド」として、世界経済の中に組み込まれていった。
規範も価値も共有しない国が自由貿易の中に入ってきて、相互依存の関係が深まるにつれ、国家間対立の際に経済をテコにして関係を整理しようという事例が頻発するようになった。「政冷経熱」「政経分離」という区別ができたのは過去の話で、「政経融合」の時代に入りつつある。
【貿易と相互依存の武器化】特定の物資を過度に他国に依存すると脆弱性が生じ、それを狙い撃ちするESが起こりやすくなる。中国やロシアが自由貿易の枠組みに組み込まれてきたことで、我々はさらに脆弱になっている。米欧なら話し合いで解決する道があるが、中露相手ではそうはいかない。現在、ロシアはウクライナに対し、武力を用いて自らの意思を通そうとしている。脆弱性を持つことが、経済的な問題にとどまらず、武力を用いた対立につながっていく恐れがある。
そこで、いま問題になっているのが、経済安全保障すなわち「経済的手段による国益の確保」「経済的手段による他国からの圧力・圧迫に対抗し得る能力」である。「安全保障」という言葉を使うのは、国家の経済秩序や支配秩序を守り、他国からの意図的な政治的価値の強制を逃れるために必要だからだ。
【ESへの対抗策】こうした現状において、わが国が目指すべき経済安全保障の手段は、「戦略的自律性の確保」と「戦略的不可欠性の維持・強化・獲得」である。
戦略的自律性とは、「戦略的に特に重要な物品を他国に過度に依存しない状態をつくること」である。全て国産にするわけにはいかないので、友好国あるいは信頼できるベンダーとサプライチェーンを構築するフレンド・ショアリング(friend-shoring)も併用する。もうひとつの鍵、戦略的不可欠性とは、「日本の存在が国際社会にとって不可欠な分野を拡大していくこと」である。
■2つの合理性の折り合いが課題
【経済的合理性と安全保障上の合理性】これまで中露に依存することには、価格が安い、供給が安定しているなど、何らかの経済的合理性があった。それをやめて、より高い国産や欧州産のものを買うことには、安全保障上の合理性がある。第二次大戦後の自由貿易では前者を追求してきたが、後者も考えなければならない時代になった。
【国家の合理性と企業の合理性】しかし、企業(経済活動をする主体)は当然ながら利益を追求し、そうやすやすと経済的に不合理な選択はできない。しかも、安全保障とは国の利益であって、企業の利益そのものではない。そこで、国がどういう役割を果たすかが重要になる。こうした状況の中で、22年5月に成立したのが「経済安全保障推進法」である。
【経済安全保障の3要素】経済安全保障には次の3つの要素がある。
❶サプライチェーンの強靭化:中露がチョークポイントを握っている場合、ESを“かまして”くる懸念がある。価値や規範を共有しない国への依存を減らし、リスクを回避するためには、(自国・自社の)サプライチェーンのリスクの現状を把握しておく必要がある。
❷技術不拡散:日本は天然資源に恵まれているわけではないので、戦略的不可欠性を持つには、日本にしかない技術や製品で勝負しなければならない。その技術が容易に盗まれたり、漏れたり、移転されると日本の強みではなくなってしまう。
❸他国の規制からの安全保障:米国が新疆ウイグル自治区の強制労働を禁止する法律をつくった事例のように、他国の法律によって自国の経済が危機にさらされる可能性がある。今回の経済安全保障推進法には入っていないが、今後の課題になるのではないか。
なお、今回のフォーラムでは、❶に関連して、株式会社FRONTEOが、この7月に機能を拡張し、自社サプライチェーンのリスクマネジメントに利用できる「経済安全保障ソリューション」の実例が紹介された。
さて、改めて経済安全保障の観点から医薬・医療業界を眺めてみよう。
まず❶を考えると、各医療領域に必須の医薬品すら供給不安が生じたため、2020年3月から「医療用医薬品の安定確保策に関する関係者会議」が行われ、翌21年3月に「安定確保医薬品リスト」が作成された。さらに22年3月に開催されたフォローアップ会議では、「サプライチェーンマッピング」のイメージが示された。21年度に抗菌薬の10成分については、「厚労省から各社及び各原薬メーカー等に個別聞き取りし、品目横断的に成分ごとのマッピングを実施した」という。一方、日薬連が行った「安定確保医薬品 自己点検の状況調査」では、自己点検が定着していないという問題が浮き彫りになった。企業レベルでの把握も不十分、それを厚労省が聞き取りしてまとめているのでは埒が明かない。それこそ、企業と国レベルでのAI解析や集約ができればと思ってしまう。
❷には戦略的不可欠性が深く関わるが、いま日本発の何が、他国にない技術や製品なのか。例えば2020年の世界市場における医薬品売上高100品目中、日本起源は9品目だった(製薬協・医薬品産業政策研究所調査)。不可欠性を掲げるのは、必ずしも最終製品とは限らず、医薬や医療機器開発過程で欠かせない技術でもよいわけではある。各種の新規モダリティについて見聞きしても評価はなかなか難しいが、「実はこんな製品・技術がありました!」とお伝えできる日が来ることを願っている。
【リンク】いずれも2022年7月25日アクセス
◎株式会社FRONTEO. “FRONTEO AI Innovation Forum 2022(7月12日開催).” “FRONTEO、経済安全保障ソリューションの新機能により、自社サプライチェーンの外側にあるリスクを分析.”
https://www.fronteo.com/20220712
◎鈴木一人. 検証 エコノミック・ステイトクラフト. 国際政治. 2022; Vol.205: 1-13.
https://jair.or.jp/publications/kokusaiseiji/7690.html
◎厚生労働省. “医療用医薬品の安定確保策に関する関係者会議(第6回)資料(2022年3月25日開催).”→【資料1-1】サプライチェーン調査関係、【参考4】医薬品の安全確保を図るための取組
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_24780.html
[2022年7月25日現在の情報に基づき作成]
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本島玲子(もとじまれいこ)
「自分の常識は他人の非常識(かもしれない)」を肝に銘じ、ムズカシイ専門分野の内容を整理して伝えることを旨とする。
医学・医療ライター、編集者。薬剤師、管理栄養士、臨床検査技師。