●トリアージは雑な医療の逃げ道


 前回、災害時の緊急医療で使われてきたトリアージの概念が、新型コロナウイルス感染を契機に、死を選別する意味で使われることに徐々に違和感が少なくなっていること、あるいはトリアージ自体が「死か生か」を判断する意味で使われ出したことに疑問を呈してきた。


 もう一度繰り返すと、トリアージを広辞苑で引くと、「(選別の意)災害・事故で発生した多くの負傷者を治療するとき、負傷者の治療の優先順位をつけること。最も有効な救命作業を行うためのもの」と説明されている。トリアージは本来、災害や事故の際の効率的な救命業務の遂行のために考え出された「手引き」だ。救命するための「手引き」「手順」を状況に応じて「作る」ものであり、重症度の判断を通じて、できるだけ多くの人命を救うことが目的。


 一方で、このところのネットなどでみられるもっともらしい説明は、「重症度判定」だけでなく、ICU、救急医療室を多くは想定されているが、「救命優先判定」も含まれるというニュアンスで語彙の解説が付されている。そして、それがコロナ診療現場で人工呼吸器の装着優先度を主体に使われ、メディアもそれに追従してきたことによって定着した。トリアージ(の意味を)をそのままに放置し、拡大させていいのだろうか。


 この心配は、ALSヘルパー養成者の川口有美子氏と緩和ケア医の新城拓也氏の対談集『不安の時代にケアを叫ぶ』で、このコロナ診療現場におけるトリアージが語られている。その内容の多くは前回の稿で紹介したが、新城氏は21年8月の対談で、コロナ下でのトリアージは、健常者か障害者か、基礎疾患があるかないか、若年か老年かではなく、つまり医療資源の配分の問題ではなく、自らの体験では「勘」でしかないと語っている。


 その意味は、トリアージはその現場、現場である意味、「勘」のようなもので運用されるのであり、標準化されたり、基準のようなものがあるわけではないということであろう。


 筆者の私がこの発言を翻訳すれば、一定の規律が求められる一般的な医療や介護の現場で、トリアージをあえて外挿する意味はなく、否定されるべきものだということだ。トリアージという“新鮮な”言葉を拡大解釈し、活字化し放送するメディアは日に日に増えている。いいのか。


 新城氏は、さらにこうした「トリアージ=雑な医療の言い訳」が、ケアの力を弱めているとの分析を前提に、医療はコロナ以後「雑になってきた」との印象を繰り返している。そして、「雑になった分、人の命の取り扱いもすごく雑になってくる」と述べている。


 安楽死に関する議論のなかで語られたものだが、市民、患者の側からではなく「自らの雑さを意識できない医療の側から」、安楽死許容論が出てくることの危惧は、まさに「命」のトリアージを医療側が安易に求め始めているように筆者には思える。


 コロナをきっかけに雑になってきた医療、それを覆う「トリアージ」の便法で、尊厳死や平穏死の「判断」が雑になり、健康長寿という新たな国民的スローガンを傍らにしながら、「安楽死」への坂道の傾斜がきつくなり始めていると、感じるのは私だけか。


●感染症と生活習慣病で進む「雑」な医療

 

『延びすぎた寿命』を書いたジャン=ダヴィド・ゼトゥンは、膨大な資料の渉猟から、雑にならない医療から遠ざかり、いかに「健康に生き、寿命を全うするか」のヒントになる考え方を活字にしている。


 この本で驚かされるのは、1960年代頃まで、欧米の専門家のなかでも感染症は近い将来、克服されると考えていた人が相当数いたという事実だ。その分、感染症研究が狭小化し、立ち止まった感があるため、この度の新型コロナウイルス感染でも人類は大きな災厄に遭うことになったかもしれないのだ。生活習慣病やがんに医学医療のトレンドがシフトしていくなかで、「死ぬ原因」にまだ感染症がいることを新型コロナウイルス感染は証明して見せた。感染症医療は「雑」になっていたのだ。


 むろん、感染症のリスクを語り続けた人もいる。58年に、新興感染症・再興感染症という概念を示した微生物学者ジョシア・レーダーバーグは「新しい疾病(感染症)は確実に出現する」として警戒を促した。レーダーバーグが警戒を呼び掛けたのは、60年代以後の感染症を取り巻く環境が天然痘の撲滅によって「感染症は大した病気ではない」という高揚感の最中だ。レーダーバーグは33歳でノーベル賞を受けた人物だが、当時の思考停止状態を解くことはできなかったのだ。


 こうした史実をみると、この頃から医学医療は疾患個別性、患者個別性に臨床対応するやり方が主流になったことがわかる。感染症研究は、ある意味、地域性が強く、また患者集団の選択性が強く、さまざまな疾病状態も示す。その意味で、疾患横断的な知見の収集には打ってつけであり、「総合診療医」などには避けて通れない研究分野、学習分野ではないかと思うのだが、疾患専門性や個別診断医療が深化するにつれて、感染症が軽視され、そのことが実は総合診断が、必要性を叫ばれながら「雑」な医療の代名詞化しているのではないかとの印象さえ持つ。


 もっと言えば、筆者の私の警戒心は、「看取り」の医療は総合診療医のテリトリーとなり、総合診療医に引き継がれることは「雑」な医療に渡されることであり、その引き継ぎの理由がトリアージで説明されるのではないかということだ。


 それは感染症に続いて、生活習慣病にも適用されようとしている。ゼトゥンは『延びすぎた寿命』で、明確に「後退する人間の健康」という主張を表明している。米国と英国での「健康投資」とコストのありように関する大きな違いや、北欧の経済的側面での多様な報告や論文の収集を通じて、半ば常識的になっていることの肯定と見直し、「不健康」の要因の複雑な仕組みを解こうとしている。


 なかでも米国における平均寿命の低下については、「イノベーションの国、アメリカは、平均寿命が低下した最初の先進国」との位置づけを読者に印象付け、アン・ケースとアンガス・ディートンが15年に発表した論文を引き、「アメリカ人の特定のグループの全死因死亡率が上昇しており、そのグループは白人中年男性で、彼らの最近の死因は『絶望死』だ」と2人が定義していることを紹介している。


●いかに死なせるかでなく健康改善運動を


 この人々の死亡率が悪化している直接の理由はアルコール、鎮痛剤オピオイド、自殺である。「絶望死」というネーミングのインパクトは強烈だ。絶望死は90年代から増え始めた。2人が明らかにした死亡の要因は、経済的要因がすぐに思い浮かぶかもしれないが、むしろそれも含めた社会的な要因、複雑な背景を考えなければならない。


 2人の論文は私などから見ればかなり思い切った分析で、白人男性グループに特徴的で、そういう傾向がヒスパニックや黒人男性グループにみられないのは、後者が「逆境に慣れている」ために、痛みを感じず、白人男性は逆境に弱いのではないかとの見方を示している。これからの健康長寿のあり方を支える医療的スタンスは、「疾患横断」的なものの見方だけでなく、社会的、経済的環境と、「逆境」に対するメンタル観察も必要なのだ。簡単にトリアージして「雑」な医療で済まされる時代ではないことが理解できる。


 ゼトゥンは英国の健康悪化は、慢性的な財源不足と社会的保護の脆弱さが要因だとしている。私は日本もどうやらこの轍を踏んでゆきそうな気配を感じる。それだけに次の世代の課題は「長生き」でも、「いかに健康で死ぬか」でもなく、「健康改善運動」ではないかという著者の提案は説得力を強く感じる。(幸)