前回の砂漠の中でのお話は、カザフスタンでのエピソードであったが、今回のそれは、ウズベキスタンでの話である。


 アラル海は、ウズベキスタンとカザフスタンが、その沿岸部を半分ずつ取り囲んでいるような形で広がっていた、もともとはかなり大きな湖である。しかし、環境破壊の典型例のようにしてしばしば取り上げられることがあるように、ソ連時代の内陸部での農業開発の影響で水量が短期間に急減し、湖の面積が小さくなっていったのと同時に、水中の塩分濃度は上昇、生き物の居ない小さな塩水池のような状態になった。アラル海が水量豊かな大きな湖だった頃は、たくさんの魚が棲んでおり、豊かな漁場で、沿岸部には獲った魚を缶詰めにする大きな工場が複数あって、たくさんの人々が暮らしていたのだそうだ。


 我々が、ウズベキスタン側のアラル海沿岸部を訪れたのは、2003年夏のことだったが、その頃のアラル海は、面積がもともとの面積の三分の一とか四分の1とか言われるような状況で、沿岸部の村はさびれ、アラル海だったはずの場所は草が生える平原になっており、あちこちに錆びた船の残骸が放置されたままの状況だった。これらの船は、アラル海の水が減って引いていくスピードがあまりに速かったので、沿岸に繋いでおいた船を沖のより深いところに逃す作業が間に合わず、丘に上がった状態になってしまったものだということだった。現在ではこれらの船の残骸は一部を除いてほとんど撤去されてしまったらしいが、我々が訪れた時にはたくさん残されていた。


 アラル海が豊かな漁場だった頃にはとても大きな村だったという場所に案内してもらい、空きアパートの一室を借りて寝泊まりすることになった。かつては湖岸にあったという村は、塩分濃度の高い不毛の土地にポツポツと民家が残る様相で、漁場が失われてからは、人々が暮らしていく手立ても無く、多くの住民が引っ越してしまった。ましてや旅行者がそんな場所に来るはずもなく、我々外国人が宿泊できる施設など、あろうはずがなかったのである。


取り残された漁船の残骸

かつてのアラル海湖底


 アパートといっても電気や水道は使える状態にはなく、特に、水の状況は酷かった。水道蛇口から僅かに出てくる水は濁っていて、洗い物にはなんとか使えるが、飲用には適さない。真水は深く掘った穴の底に汲みに行かねばならず、塩分を含まない水は量的にもまったく不足していたので、ここでもシャワーはずっとお預けだった。


 アラル海はウズベキスタンでは、いわば、西の端にあたる地域になるのだが、我々は東の端の方にある首都タシケントから、車で数日かけてたどり着いた。途中には、かつての大帝国の首都だったサマルカンドや、さらに古い都だったブハラやヒヴァなどがある。また、近代医薬学の基礎となったカノン(医学典範)を著したイブンシーナや、哲学者であり聖人と崇められるアヴィ・ライホーン・ヴィルニーの生誕の地もその道中にあり、いずれもそれを表す立像や小さな記念館が建てられていた。


イブン・シーナの立像


 イブンシーナもヴィルニーも、活躍した地域はアラビア半島が中心だったはずなので、筆者の浅知恵では、彼らはアラブ人なんだろうと勝手に思っていた。しかしそれは違ったようで、中央アジアの生まれだったということである。意外だった。


 サマルカンドは古都であると同時にウズベキスタンでは最も大きなメドレセ、すなわちイスラム教の学校があるところで、多くの人が行き来する都市である。COVID-19のパンデミック以前には、観光で訪れる日本人も多かったはずである。我々がアラル海への往復の途中で通過した時も、観光客目当ての物売りがたくさん寄ってきた。


サマルカンドのメドレセの壁


  例えば、街中で車を停めるやいなや、ナンと呼ばれる中央アジア独特の平たくて丸いパンを山のように積み上げて抱えた子供や女性たちが駆け寄ってきて、土産に買っていけとばかり、何人もが自分のナンを押し付けてくるのである。その売り子の数、ひとりやふたりではない。車を取り囲んで買ってくれるまで動かさないぞと言わんばかりの、すごい数と熱気で迫って来るのである。サマルカンドのナンは他の村や街のナンと違った特別な材料の配合で作られており、模様も凝っていて、日持ちがするので、お土産にするのにちょうどいいのである。ウズベキスタン人の同行者たちはそれを心得ていて、売り手それぞれに違うナンの出来栄えを確かめて好みのものを選び、5枚、10枚と買い求めていた。ウズベキスタン人にとってもサマルカンドは特別な場所らしかった。


 さて、もとアラル海沿岸部の村のアパートを拠点に我々は薬用植物の調査を始めたのであるが、灌漑による干ばつ、水不足、は予想以上だった。ほかの地域で見た乾燥地帯は、少なくとも1年に数回とか数日とか、あるいはそれ以上か、雪解け水から川に水が流れる時期があったり、季節的な雨が降ったりして、水が供給され、植物はそれを使って生き延びて繁殖するという状態があった。しかし、このエリアはそれが無く、地面には一面に白く塩分が結晶し、ところどころに耐塩性のある植物が赤っぽい絨毯のように生えているばかりだった。


遠くに小さくなったアラル海の水が見える


せっかく遠路はるばるやって来たアラル海ではあったが、薬用植物的にはめぼしいものがなく、予定より少し早く帰路についたのだった。


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伊藤美千穂(いとうみちほ) 1969年大阪生まれ。元京都大学大学院薬学研究科准教授。専門は生薬学・薬用植物学。18歳で京都大学に入学して以来、1年弱の米国留学期間を除けば京都大学一筋。研究手法のひとつにフィールドワークをとりいれた。途上国から先進国まで海外経験は豊富。教育・研究の傍ら厚生労働省、内閣府やPMDAの各種委員、日本学術会議連携会員としての活動、WHOやISOの国際会議出席なども多かった。現国立医薬品食品衛生研究所生薬部部長。