●「健康」と「死」の仲立ちをする何か


 フランスの内科医、ジャン=ダヴィド・ゼトゥンは、その著書『延びすぎた寿命』で、次の世代の課題は「長生き」でも、「いかに健康で死ぬか」でもなく、「健康改善運動」ではないかと指摘している。「健康に生き、寿命を全うするか」の前提として「健康改善運動」の提案がある。


 現在、世界的には、ゼトゥンのようにメンタルケアなども含めて包括的で多様な「健康概念」の浸透をムーブメントとして起こすグループがあり、それが徐々に広範な支持が加わり、このままで推移すると常識化にまで醸成していくことすら考えられる状況が生まれている。いわゆる「人新世」の地層的変革の認知と視野を前提にしたもので、「健康」の概念は広範で幅広いものになりつつある。


 SDGsの流れ、サスティナブルへの意識、ジェンダーギャップに見られる差別の概念へのやわらかな抵抗のようなものが、「健康」概念を変え、ふくらみを豊かにさせようとしている。そして、これらを包括して考えるとき、身体的や精神的「健康」だけでなく、当然のように社会的、経済的な考え方が概念に包含されてくる。ブルシット・ジョブに象徴された、いわゆる「働き方の概念」の基本的な見つめ直しの契機みたいなものもその範疇に入るのであろう。


 そうした考え方を総合し、くるんでいるようなムーブメントに「Well-being」がある。自律的な活動、個人の思いの尊重、きわめて広いサークルでの「健康主観」とでも言うべきものだろうか。グローバルにはすでに確立した考え方であり、それらをニーズに合わせて商品化し、ソフトウェア化すれば世界市場は500兆円を超えるという試算もある。視点としてあるのは、健康・医療が軸だが、社会、そして地球規模での思惟に触れ合わなければ理解が進んだとは言えない。具体的な医療的課題としては、個別化医療、グローバル社会でそのサイクルが短期化し、リスクが拡大している感染症対策などが対置されるが、本質的な考え方の軸になるのは「健康」だ。


 当然のことながらWell-beingの視座での「健康」は地球規模での環境問題も密接にかかわり、住居や賃金や交通インフラなども包摂される。


 そうした地平から考えれば、「健康」に対する認識は大きく変わり、避けられない「死」に対する考え方も大きく変化するかもしれない。「健康」と「死」が対極のものではなく、同列に並び、それがWell-beingの中で受容される世界がくるのかもしれない。「健康寿命」は、どこかに「いかに手を懸けずに死なせるか」という都合のいい論理が隠されてい気配がある。「健康」と「死」の間に、「いのち」というきわめて情緒的だが、多様性のある概念を仲立ちにすることで、Well-beingな新たな見送りの形が生まれる予感がする。


●混乱はしばらく続く


 しかし、医療の現場では現在も医師たちが困惑を深める状況が続いている。ゼトゥンの『延びすぎた寿命』といい、駒ヶ嶺朋子著の『死の医学』も含めて、アトゥール・ガワンデ以降、死に向き合う、あるいは望まない死の形などに言及する医師たちが増えてきた。それは一般市民にいまだにWell-beingの思潮の広まりはみられず、「医師だけが死をどうするかの対処」に透明度の低い主観と議論を継続しているという状況を映している結果だと言ってもいいだろう。


 看取りの現場で、死出の旅立ちに寄り添ったために殺人の罪を問われた医師たちや、病院医療と在宅医療の本質的な看取りのマインドの違いなどがそれぞれの現場で顕在化している時期、ある意味ターニングポイントなのかもしれない。


 むろん、法的な不備は鈍感でアナクロな行政や立法府の人々の稚拙さによるが、それを待たずにむしろ、善意の医療者たちが、死出の旅立ちに過酷な痛苦は必要ないという共通の思いを持ち始めたからではないかと思う。「医療」は今や、「人を生かす社会的技術」ではなく、「人を死なせない技術」になり、そのことの是非を立ち止まって考える必然を、ガワンデ以降の医師たちの思潮が発信している。Well-being的な現代思潮から言えば、「人を生かす社会的技術」の延長線上に、「看取られる死」が存在する時代が来ようとしているのではないか。


●脱延命治療をソフトランディングさせる


 大阪で訪問診療医を務める作家の久坂部羊氏は、著書『人はどう死ぬのか』で、「上手な最期」と「下手な最期」という表現で、「上手な最期」に看取りの社会的技術の開発への期待を示唆している。


 同氏は同書の「“上手な最期”を迎えるには」の章で、「上手な最期」を知るためには、「下手な最期」を考えるのも一法だとして、「下手な最期とは、激しい苦痛に苛まれながら、死ぬに死ねない状態で時間を長引かせる死に方」だとし、医療用の麻薬や鎮静剤を使って無理やり命が引き延ばされると、麻薬や鎮静剤も効かないほどの苦痛に襲われ、そして、たくさんのチューブやカテーテルを差し込まれ、意識もないままあちこちから出血し、浮腫や黄疸で生きたまま、肉体が腐っていくような状態になりながら、機械によって生かされる、と説明している。


 そして、「最期を迎えるに当たっては、高度な医療は受けない方がいい」、「医療は死に対して無力と言われる所以」だと切り捨てるのである。そのうえで、「下手な最期」を忌避するには「病院に行かないこと」とのアドバイスも付け加えている。「超高齢の人や末期がんの人」は病院に行かないほうがいいと具体的に示し、「病院に行くなら助かる可能性もあるけれど、悲惨な延命治療になる危険性もある。病院に行かないなら、そのまま亡くなる危険性もあるけれど、悲惨な延命治療は避けられる」と読者に「心得」を授けている。


 この著書で私があらためて認識したのは、病院での看取りの不自然さだ。多くの著者自身の経験したエピソードの中に、ふだんは患者と付き合わない家族や親戚の無理解が下手な最期を演出する可能性が高いことがわかる。


 また、医療現場での現代の医師の混乱ぶりもみえる。とくに医師について、「まだ経験の浅い若い医者」「医療に前向きな信念しかもたない医者」「あとで遺族から非難されることを恐れる保身の医者」のタイプ分けで語られている。経験の浅い医者は経験を積めば期待できる。信念の強い医者については「医師としては優秀な者に多いのが困りもの」で、遺族のバッシングを怖れて保身しか考えない医師がもっとも厄介だというのは、理解した。


 久坂部氏の延命医療に対する姿勢が語られる中で、「死んでもいい命などない」や、「人の命は地球より重い」といった教条主義的な意見には共感できない点は私も同じだ。しかし、私は安楽死や尊厳死が「社会的圧力や周囲への遠慮などで、本人が望まないのに行われる危険性がある」という点には同様の危惧を持つひとり。


 私は、久坂部氏のように在宅医療で尊厳をもった「看取り」を実施しているなら、延命医療を縮小させる法制化は必要がないと思う。私が感じる「怖さ」や「リスク」は、この国の社会、下世話にいえば「世間」がたいへんに同調圧力を強めることがある。これについてはかなり多くの見解を述べてきたので、ここでは言及しない。


 人はどう死ぬのか。進み過ぎた延命医療を分別できるように、「健康」と「死」を仲立ちさせる「いのち」の人文的、社会的なアプローチと、人々のWell-beingな思潮の成熟が必要ではないかと考える。(終)