前回の本欄で少し触れた宗教ジャーナリスト・米本和弘氏が唱える「強制改宗批判」だが、1980年代後半、地方支局で駆け出しの新聞記者だった私が統一教会問題にかかわったのは、まさにこの問題、「脱洗脳」の取り組みを取材したときのことだ。当時、若者の入信に悩んだ多くの親族は、集団生活を送る身内の入信者を強引に教団から引きはがし、シェルター的な施設に一定期間隔離、プロテスタントの牧師らに統一教会の経典と聖書との矛盾・乖離などを根気強く説明してもらい、「脱洗脳」を目指したものだった。


 ところが、洗脳がまだ充分に解けない段階で教団側の「追手」に見つけられ、「奪回」されてしまったり、信者本人が隔離場所から逃げ出して教団施設に舞い戻ってしまったり、脱会支援が失敗に終わることもままあった。教団と家族が互いに「拉致・監禁」を非難し合い、警察に被害届を出す状況も生まれたが、信者本人が「教団で集団生活を続けたい」と言明すれば、ほとんどその意思が認められた。マインドコントロールで正常な判断力を失っている、ということは、なかなか考慮されなかった。


 家族にしてみれば、身内の信者と何とか話し合おうと思っても、そもそも当人を信者集団から引き離さない限り、手の打ちようがない。しかし米本氏は、強引に自家用車に押し込めて連れ去るようなこの手法を、「強制改宗」と問題視したのだ。脱洗脳でなく「改宗」という言い方をされてしまうのは、牧師など「正統なキリスト教関係者」の助力を得るためだ。


 私自身が数人の元信者に聞いた話では、霊感商法などの詐欺行為をいくら道徳的に批判されようとも、信仰はまったく揺るがない。しかし、教えそのものについて、例えばキリストの言葉として教団が教える内容が、実は聖書にはまるで違う意味合いで書かれていることなどを逐一示されると、「教えへの疑念」が沸き起こるという。つまり、無宗教の立場から反社会性を説くよりも「真っ当なキリスト教」を引き合いに出すほうが効果があるのだが、反面この手法は「別の宗教への誘導」すなわち「改宗」という見方もされてしまうのだ。


 かといって、米本氏の指弾する「強制改宗」以外の方法で、信者本人の「気づき」はなかなか得られない。カルト問題を解決する難しさは、まさにこの点にある。統一教会の政界との癒着排除、2世たちの救済など、政治が早急に取り組むべき課題は明白だが、信者個々人の脱洗脳という究極の解決には、よほど本腰を入れた対策が求められる。「これからは関連イベントへの祝電・出席を断るようにする」などという表層的な意思表示しかしない多くの政治家には、問題の深刻さを理解する様子が微塵もない。


 そして個人的に今回、とくに気になるのは、NHKや全国紙の異様なほど消極的な姿勢だ。ネット上のメディア批判の高まりに、ここに来てNHK、朝日新聞はようやく問題を報じ始めたが、依然として内容はぺらぺらに薄い。こうしたなか、今週の週刊朝日は『朝日ジャーナルが報じた統一教会問題の“原点”』という記事で、今はなきジャーナル誌の80年代後半の記者だった藤森研氏やフリー記者として取材班に加わった有田芳生氏などの証言をまとめている。


 90年代前半にかけ、教団批判の急先鋒だった朝日ジャーナルや週刊文春には、統一教会から組織的な抗議電話、嫌がらせが集中した。信者らは記者たちの自宅周辺にまで出没して威嚇した。教団側は当時も今もこの事実を否定するが、今週の文春『元信者多田文明「筑紫哲也はサタン」と抗議電話した』という記事で、ジャーナリストの多田氏は、教会の信者だった当時、朝日ジャーナルの編集長からTBS「ニュース23」のキャスターに転身した筑紫氏への抗議電話を自身もかけたことを認めている。NHKや全国紙の記者たちはぜひ、当時の2誌を手に取って、同業の先輩が持っていた「記者魂」を感じ取ってほしい。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。