(1)利根川東遷事業


 江戸時代以前の利根川は、江戸湾(東京湾)に流れていた。渡良瀬川も江戸湾に流れていた。もちろん、荒川も江戸湾に流れていた。そして、この3河川の本流及び分流は、途中で合わさったり、別れたり、また、豪雨になれば、いたる所で洪水が発生し、さらに、川筋すら変化するのであった。


 要するに、大雑把なイメージからすると、西から、荒川、利根川、渡良瀬川の3河川及び分流は、ごちゃごちゃ、ごちゃ混ぜで、江戸湾に流れていたのである。詳細に説明すると、どこで合流、どこで分流、あすこで合流、あすこで分流……ということも可能だろうが、もう、訳がわからなくなるので、「3河川及び分流は、ごちゃごちゃ、ごちゃ混ぜで、江戸湾に流れていた」ということで、ご勘弁を。


 ただし、まったくの「未開の地」という意味ではありません。たとえば、中条堤(ちゅうじょうてい)の起源は16世紀のようです。中条堤は埼玉県熊谷市辺りの利根川の堤防に直角に数千メートル続くもので、増水時、巨大な遊水池となり、下流の洪水被害を減少させる機能を有するものである。


 まぁ、少しは人工的に整備されていた、という程度である。

 

 徳川家康(1543~1616)が、豊臣秀吉の命令で、1590年、江戸・関東へ国替えになった。徳川家康の目には、3河川の大々的な整備が必要と映った。第1に水運、第2に水害防止・農地開発である。江戸中心の水運網を整備するとともに、広大な関東平野の生産能力飛躍的アップを構想したのである。それは徳川家の揺るぎない基盤となる。


 家康によって、大規模な河川改修が始まった。その大事業を担ったのは、伊奈忠次(いな・ただつぐ、1550~1610)である。伊奈忠次は実に多くの河川改修をなした。


 ここで、予め一言。


 関東河川整備の最大ビッグ・プロジェクトが「利根川東遷」事業である。前述したように、利根川は江戸湾へ流れていた。それを、大土木工事によって、利根川の水を江戸湾ではなく太平洋(銚子)へ流す、それが「利根川東遷」事業である。一部分は江戸川によって江戸湾に流すが、本流は銚子へ流すというビッグ・プロジェクトである。素人目にも、超大土木事業であることがわかる。


 この利根川東遷事業のメイン事業は、赤堀川の開削であった。利根川と常陸川(ひたちがわ)の分水嶺が開削され、そこが赤堀川と呼ばれた。この事業は難工事で、1621年に開始され、33年の歳月をかけ、1654年に赤堀川が通水した。そして、利根川の水が銚子河口へ流れた。


 その立役者が伊奈忠次の後を継いだ伊奈忠治(いな・ただはる、1592~1653)である。ただし、赤堀川開削工事は、難工事で悪戦苦闘、伊奈忠治は成功を見ることなく亡くなった。その後を継いだ、嫡男・伊奈忠克(いな・ただかつ、1617~1665)が完成させた。


 伊奈忠次・伊奈忠治・伊奈忠克を「関東流」治水事業の「伊奈氏三代」という。江戸時代初期、関東の治水事業は、伊奈氏三代がほとんど関わっていた。似たような名前なので、再掲しておきます。


伊奈忠次(ただつぐ、1550~1610)

伊奈忠治(ただはる、1592~1653)

伊奈忠克(ただかつ、1617~1665)


(2)伊奈忠次

 

 伊奈氏の先祖は、長野県伊那であるらしい。伊奈忠次の2~3代前に三河国の小嶋(おじま、愛知県西尾市)の小豪族になったようだ。伊奈忠次の前半生は波乱万丈で非常に面白いのですが、河川改修と関連がないので省略します。


 豊臣秀吉の小田原攻め(1590年)に際して、徳川家康のもとで、大軍が通過しやすいように駿河・遠江・三河の道路・橋梁を整備した。そして、大軍の兵糧を円滑に確保・輸送した。徳川家康は、伊奈忠次の才能は、戦場での軍事ではなく、土木・輸送にあると見抜いたのである。伊奈忠次は、家康の期待にみごと応えた。


 小田原攻めで北条氏が滅亡すると、徳川家康は、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヵ国から関東5ヵ国へ移封された。そして、伊奈忠次の活躍となる。


 関東5ヵ国は240万石で、120万石は有力家臣に分配・配置された。伊奈忠次も足立郡小室(現在の埼玉県伊奈町)・鴻巣に1万3000石が分配され大名(武蔵国小室藩第1代藩主)に抜擢された。武蔵国とは、現在の埼玉県・東京都・川崎市・横浜市の地域である。


 残り120万石は家康の直轄地とした。その直轄地には、伊奈忠次、大久保長安、長谷川長綱、彦坂元正などが関東代官頭に任命されて統治した。代官頭の下に、代官頭の部下、現場責任者とでもいう複数の代官が任命された。


 ここで、お芝居ならば名シーンとなるお話を。


 家康は、直轄地120万石を代官頭・伊奈忠次の単独支配に任せる意向を示した。


 しかし、家康の側近・本田正信(1538~1616)が、「120万石もの実権を1人に集中させることは、いかがなものか」と反対を述べた。


 家康は、「伊奈忠次は権力を乱用する人物ではない」と言う。本田正信は、「そう申されても、世の常は権力の蜜に酔いしれるものでございます、さらに言えば、1人で120万石を管理することは、人間の能力を超えていまして不可能でございます」と反論する。


 あれやこれやの会話の末、100万石は伊奈忠次、20万石は大久保長安、長谷川長綱、彦坂元成の分割管理となった。


 そして、家康は、伊奈忠次と本田正信を同席させ、誓詞を書かせた。一般常識は、伊奈忠次が誓詞を書くものだが、なぜか、本田正信が筆をとることになり、本田正信は不思議な顔をしながら、家康に「一条は、何と書きましょうか」と尋ねた。


家康「一つ、忠次が受け持った支配権は、己れのものの如く大切に致すこと」

正信「次は」

家康「一つ、下々の者を使うにあたっては、依怙贔屓をつかまつざること」

正信「次は」

家康「それでよい」


 要するに、家康は伊奈忠次の過去の言動から、彼の完璧なほどに誠実無比な性格、そして、それに基づく農民庶民の統治手法に、感嘆していたのだ。


 本田正信に誓詞を書かせ、伊奈忠次に誓わせた。


 実際のところ、直轄地の統治は伊奈忠次が中心になったことは間違いのない事実である。


 比較する人物として大久保長安(1545~1613)に若干触れておきます。伊奈忠次は、「抜群に仕事ができる」、そして「超誠実真面目」という人物である。大久保長安も、「抜群に仕事ができる」は同じだが、「私利私欲に走る」という人物である。伊奈忠次の話は「おもしろくない」が、大久保長安は「とても、おもしろい」。とにかく、猿楽師出身、武田家に仕えたが、武田家消滅後、手練手管で徳川家に仕えた。妾の数が70余人、金山・銀山開発、不正蓄財で巨万の富、死してなお「大久保長安埋蔵金伝説」が語り継がれる。


 多くの黄金埋蔵金伝説が存在しているが、大久保長安埋蔵金伝説はマニアの間では「信憑性が高い」とされている。かく言う私も、長安埋蔵金の候補地「箱根の仙石原」へ行った。嘘か真か、「仙石原の南、富士山が見える所に、黒い花の咲くツツジがあり、その根元にある」と伝えられている。仙石原で南方を見渡し、キーワード「黒い花のつつじ」とは何かな~、どこかな~、ぼんやり空想したことがあった。むろん、つつじの花が咲く季節に行ったのだが、「黒い花のつつじ」はなかった。


 ついでに、代官頭になった長谷川長綱、彦坂元成については、ほとんど知られていないので若干紹介しておきます。


 長谷川長綱(1543~1604)は、今川家の家臣であったが今川家没落後、徳川家に仕えた。主に、三浦半島の幕府直轄地を管理した。海運の知識・才能があった。


 彦坂元成(?~1634)も今川家出身である。民生関係で才能を発揮したが、年貢の私物化で失脚した。


 横道に逸れたので、本筋に戻ります。


 伊奈忠次は、家康の直轄地に対して、基本的には、河川改修などによって新農地開発、水害減少を広範に行った。幕府の収入は倍増したが、農家も所得倍増で繁栄した。それゆえ、世を挙げて、伊奈忠次は良吏であると褒めたたえた。


 先に述べたように、伊奈忠次は、幕府直轄地100万石の管理・支配とは別に、足立郡小室(現在の埼玉県伊奈町)・鴻巣の1万3000石の領主となった。そして、足立郡小室に陣屋を設けた。


「陣屋」には、いろいろな種類があるが、基本的イメージは、その辺り一帯を支配する屋敷(兼役所)ということになろう。たとえば、①3万石以下の大名で城を持たない大名(無城大名、陣屋大名)は、小規模な堀・石垣のある屋敷が陣屋となって、そこが拠点となった。②大藩の家老は自分の所領地に陣屋を設けた。③上級旗本も、知行地に陣屋を設けた。④幕府直轄地では、代官所を陣屋と称したようだ。⑤その他、いろいろな陣屋があった。


 伊奈忠次の陣屋があった所は、彼への感謝・称賛を忘れないため、地名を「伊奈町」に変えた。現在でも埼玉県伊奈町では、伊奈忠次を熱烈に称賛している歌謡曲『忠次公~ふるさと伊奈と青い空~』が歌われている。その歌詞の一節を紹介します。それを読めば、伊奈忠次の功績がおおよそわかると思います。


♬みんな笑顔にした 代官頭 ゆうゆうと流れる 自慢の備前堀

※「備前堀」……伊奈忠次の官位は「備前守」で、関東各地に、備前堀、備前堤と呼ばれる堀や堤防がある。

♬新田の開発 河川の改修 みんな笑顔にした 代官頭

♬利根の流れを変え 豊かなむさし野へ みんな笑顔にした 代官頭


 もうひとつの歌謡曲『水のように』の一節も紹介します。


♬葦原(あしはら)しげる 関東の地を 豊かな郷(さと)に変えた

 民に慕われ 数々の知恵 教えさずけた 優しさ

 小室陣屋は 心に残り 長い時 見つめ続ける

※「数々の知恵 教えさずけた」……伊奈忠次は土木事業だけをしていたのではない。炭焼き、養蚕、製塩、製紙などを推奨し、桑、麻、楮などの栽培方法を教えた。


 伊奈忠次は、この歌謡曲のように、農民・庶民から神仏のように感謝・称賛されたのである。娯楽時代劇では、「おぬしも悪よの~」「めっそうもない、お代官様こそ~」という名台詞で、「代官=悪人」なのだが、まったく逆に「代官頭伊奈忠次=神仏」として拝まれたのである。


 なお、荻生徂徠(1666~1728)は、代官のことを「年貢の取り立てより外に肝心なることは無しと心得る……下劣なる役職」とボロボロに言っている。娯楽時代劇の「代官=悪人」は、案外正しいのかも知れない。


 さて、伊奈忠次の功績は多々あるが、最大の業績はやはり河川改修である。多くあり過ぎるので、主なものだけ、簡単に記載します。


 現在の埼玉県北部の本庄市に、利根川に並行する人工用水路「備前堀」を造った。後世の追加工事も含めて、約7万8000石の水田が開発された。


 同様に、群馬県でも、利根川と並行して人工用水路「代官堀」を完成させた。これにより、赤城・榛名の間の未開地が新田に生まれ変わった。


 荒川沿いの埼玉県北西部の熊谷市・鴻巣市・深谷市・寄居町でも、河川の水を一時的に溜めるための「奈良堰」「玉井堰」「麻生堰」を造った。


 荒川の氾濫被害を減少させるため、埼玉県桶川市東部に約600メートルの「備前堤」を造った。


 茨城県水戸の仙波湖付近に人工用水路「備前堀」を造った。


 そして、「利根川東遷」のテーマに移ります。


 冒頭に記載したように、当時、西から、荒川、利根川、渡良瀬川の3河川及び分流は、ごちゃごちゃ、ごちゃ混ぜで、江戸湾へ流れていた。いわゆる「第1次利根川東遷」は、利根川を渡良瀬川(下流部分を太日川=ふとひがわと呼ぶ)に導流させるものであった。


 この事業は、忍城の松平忠吉の家臣小笠原三郎左衛門吉次の施行であるが、伊奈忠次もアドバイスをしていたようだ。そもそも小笠原吉次と伊奈忠次は同郷の幼馴染の間柄なので、2人は気楽に知恵を出し合っていたと思う。


 この第1次利根川東遷によって、かつての利根川は「古利根川」と呼ぶが、「古利根川」の土地及び両岸地域は、水害のない良好な広大な農地に生まれ変わった。しかし、太日川の右岸は、年中水害となり完全に荒廃した。河川の「右岸」とは、上流を背にして、海の方(下流)を見て、右が右岸という。つまり、太日川の西側は氾濫常習地帯となってしまったのだ。この地域が復活するのは、1641年の新川(江戸川)開通まで待たねばならなかった。


(3)伊奈忠治


 伊奈忠次は、1610年に亡くなった。跡は長男の伊奈忠政(1585~1618)が継いだ。大阪の陣(1614~1615)で活躍したが、1618年に死去した。その所領・家督は、忠政の子・忠勝が継いだが、幼少(8歳)であるため、関東代官職は忠次の次男・伊奈忠治(1592~1653)が継いだ。なお、忠勝は9歳で亡くなり、小室藩は改易となった。


 要するに、伊奈忠次の関東治水大事業は伊奈忠治に受け継がれたのである。伊奈忠治は、忠次生存中に、すでに幕府勘定方として徳川家に仕えており、現在の埼玉県川口市赤山に7000石を拝領していた。関東代官職を受け継ぐと、兄・伊奈忠次の配下であった代官や土木関係者の多くが、伊奈忠治の配下となった。


 7000石と書いたが、最初は大半が原野で実質800石程度であって、その後の開発によって1635年頃には実質7000石になったということらしい。


 忠治は、忠次の死後、忠次が管理していた幕府直轄地のかなりの部分を実質的に管理していたようだ。さらに、3代将軍徳川家光の信頼を獲得し、急速に幕府内での実質的権限が増加した。関東一帯で、さかんに新田を開発した。たとえば、足立郡淵江領(現在の東京都足立区竹ノ塚辺り)だけでも、38ヵ村のうち、新田村が19ヵ村もある。


 あるいは、現在の茨城県つくばみらい市の中心部(当時は常陸国筑波郡と下総国相馬郡)では広大な沼沢を干拓して筑波郡谷原で3万石、相馬郡谷原で2万石の新田を造った。合わせて5万石である。伊奈忠治の功績は代々伝えられ、1954年の町村合併で、新しい村名は「伊奈村」となった。2006年に、伊奈町と谷和原村が合併して、つくばみらい市になった。旧伊奈町は、今も「伊奈地区」となっている。伊奈忠次は埼玉県伊奈町となり、伊奈忠治は茨城県伊奈村となったわけで、親子がそれぞれ地名になったのは珍しいことだ。


 伊奈忠治の新田開発は総合計どれほどか。大雑把なことしかわからないが、数十万石と言われている。


 次に河川改修に話を移します。


 最大事業は「利根川東遷」である。元々の「荒川、利根川、渡良瀬川が江戸湾へ流れる」は、先にみたように「第1次利根川東遷」により、「荒川、渡良瀬川(利根川を併合)が江戸湾へ流れる」となった。渡良瀬川の下流を太日川という。


 この渡良瀬川(利根川を併合)の水を一部は江戸湾へ流すが、一部は常陸川へ流して銚子へ流す、というのが「利根川東遷」大プロジェクトである。


 最大の難所は渡良瀬川(利根川を併合)と常陸川の分水嶺を切り開いて新川「赤堀川」で繋ぐ工事である。むろん、大プロジェクトであるから、「赤堀川」開削だけですむわけがない。「赤堀川」をめざす新水路「新川通り」の開削は順調だったが、「赤堀川」ができて水を流したら、常陸川の容量オーバーで、周辺は水害地帯となり荒廃した。そのため、各所の堤防を造ったり、常陸川の改修、いくつもの新水路を造った。そのひとつが江戸川である。


 悪戦苦闘の大プロジェクトは、伊奈忠治の生存中は完成しなかった。完成したのは、1654年であった。


「利根川東遷」事業に隠れて、案外「荒川西遷」事業が忘れられてしまう。荒川を熊谷で締め切り、新水路で入間川へ流す事業である。1692年に実行された。当時の下流は隅田川であった。


 利根川東遷と荒川西遷によって、新「荒川」と新「利根川」の間には、水害が減少した広大な埼玉平野が生まれたのである。


 なお、いつの頃か不明だが、伊奈忠治は、「関東郡代」と称されるようになった。「郡代」は「代官」と似たような地位であるが、伊奈忠治の「関東郡代」は実質的に関東総支配人という感じである。「関東郡代」は代々の伊奈氏に受け継がれ、関東全域の治水だけでなく、直轄地の訴訟、さらに通常の官僚組織では手に負えない大事件の場合、「関東郡代」伊奈氏が登場した。たとえば、市街地整備、富士山噴火、浅間山噴火、打ちこわし騒乱などで、「関東郡代」伊奈氏が登場するのであった。


(4)伊奈忠克


 伊奈忠克(1617~1665)は、伊奈忠治の嫡男である。父忠治の死によって、関東郡代を継いだ。父の7000石は、約4000石は忠克が相続し、2人の弟が約1500石ずつ相続した。

 

 父・忠治の屋敷は、時期はわからないが、常盤橋の付近にあった。常盤橋は千代田区大手町と中央区日本橋本石町と境である日本橋川にかかる橋である。しかし、1657年の「明暦の大火」によって、伊奈家の屋敷は馬喰町に移り、そこが郡代屋敷と呼ばれ、幕府の直轄地、つまりは関東総支配の中心拠点となった。郡代屋敷は町奉行所よりも多忙だったようだ。


 余談ながら、明暦の大火は、「振袖火事」とも呼ばれ、日本史上最大の火事で、当時の江戸総人口は30万人で、死者は3万~10万と記録されている。また、江戸城天守閣も消失した。江戸復興と伊奈氏の関係は不明である。


 さて、伊奈忠克は、父同様、治水工事、新田開発に果敢に取り組んだ。


 利根川東遷は、忠克のときに初めて銚子へ水が流れた。東遷を実現させるため、赤堀川の川幅拡張、常陸川の堤防整備、常陸川の川底を掘り下げ……、あれやこれやの大工事の末、やっと成功した。


 玉川上水は江戸市民の飲料水確保のため、多摩川の羽村から四谷まで約42キロが造られた。私の住む杉並区南部にも流れている。この工事は、幕府が計画し、玉川兄弟が請け負った。幕府は工事資金6000両(7500両とも)を出したが、難工事で資金が枯渇し、玉川兄弟は家や畑を売って工事費を捻出した。工事期間約8ヵ月で、1654年に完成した。玉川上水の総奉行は老中松平信綱、そして水道奉行は伊奈忠治が就任した。ただし、伊奈忠治は工事途中で死亡したため、伊奈忠克が引き継いだ。


 なお、玉川上水は江戸市民の飲料水だけでなく、周辺の農地開発にも貢献した。


 現在の玉川上水は動植物の自然環境が脚光を浴びている。


 まったくの余談ながら、太宰治(1909~1948)は玉川上水で心中した。自殺5回目で成功した。自殺常習者と心中した女性が気の毒でならない。


 現在の埼玉県北部の幸手市に、幸手用水(葛西陽水)を施行し、琴寄溜井(琵琶溜井)も造成した。「溜井」(ためい)とは、灌漑用水をためておく場所をいう。幸手用水と琴寄溜井及び関係施設は武蔵野国東部の農業に大貢献し、


 これ以外のも、伊奈忠克が手掛けた治水事業は数々ありますが、記載は省略します。


(5)その後の伊奈氏


 面倒くさい話ですが、小室藩の伊奈家は、「忠次→忠政→忠勝」でお終いとなった。関東郡代の伊奈家は「第1代が忠治→第2代が忠克→」となる。


 第3代は伊奈忠常(ただつね、1649~1680)である。治水などをした。


 第4代は伊奈忠篤(ただあつ、1669~1697)である。治水などをした。


 第5代は伊奈忠順(ただのぶ、?~1712)である。治水もしたが、何と言っても、1707年(宝永4年)11月の富士山噴火(宝永の大噴火)での大活躍である。幕府災害対策最高責任者として「砂除川浚(すなよけ・かわざらい)奉行」と呼ばれた。新田次郎著『怒る富士』は、伊奈忠順が主人公の小説である。


 第6代は伊奈忠淕(ただみち、1690~1756)である。治水などをした。


 第7代は伊奈忠辰(ただとき、1705~1767)である。第6代と第8代のワンポイントリリーフである。


 第8代は伊奈忠宥(ただおき、1729~1772)である。関東郡代の職務は広範な関東総支配人という感じであったが、この頃から職務が限定的になって、関東での治水よりは、淀川などの近畿の治水が多くなった。それから、1764年の中山道伝馬騒動、これは農民約20万人の一揆で、これを鎮圧した。


 第9代は伊奈忠敬(ただひろ、1736~1778)である。


 第10代は伊奈忠尊(ただたか、1764~1794)である。1787年の天明の打ちこわしを収束させた。江戸町奉行が手に負えないので、関東郡代が事に当たったわけで、関東郡代の信用・人気が高かったことがわかる。関東郡代伊奈氏は「神様仏様伊奈様」と拝まれていたのである。余談だが、以前より、関東郡代伊奈氏の名を語る詐欺師が横行していて、これも伊奈氏の信用・人気のためである。


 しかしながら、伊奈家の跡取り問題が発火点となりお家騒動に発展し、1792年、関東郡代伊奈家は改易となった。幕府は、過去の伊奈家の功績に鑑み、1000石の一般旗本として家名だけは存続させた。その後の歴代伊奈氏は家名挽回のため、かなり頑張ったようである。


(6)その後の利根川東遷


 利根川東遷事業は、1654年に、開通したが、それで終わったのではない。この450年間、利根川大氾濫は、たびたび発生している。450年間、利根川東遷の補修補強が継続された。今も継続中なのである。


 利根川大氾濫の可能性は大地震よりも高く、東京都東部低地の墨田区・江東区・江戸川区などのハザードマップを一目見れば、恐ろしい光景が目に浮かぶ。


 1947年のカスリーン台風の大水害が再び東京都の東部を襲うのである。文学的表現を使うならば「利根川の先祖返り」である。大地震への危機意識はそれなりに高く対策もなされている。しかし、利根川大氾濫への危機意識はあまりない。


 数字を上げておきます。


 カスリーン台風の規模 流量2万1100㎥/s


 それに対して、河川整備計画(20~30年後)の流量は1万7000㎥/s


 つまり、20~30年後、計画どおり河川整備が実現できても、カスリーン台風規模の雨台風が来たら、水量は堤防を乗り越えて、東京都東部低地は壊滅するのだ。


 国土交通省は2015年に『水防災意識社会 再構築ビジョン』を策定した。そこにはこうある。「施設の能力には限界があり、施設では防ぎきれない大洪水は必ず発生するもの」。


…………………………………………………………………

太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。