以前、ファイザー製の新型コロナウイルス感染症用ワクチンの創薬過程を記した、『mRNAワクチンの衝撃』を紹介したが、あちらは創薬したビオンテックを中心にした開発物語だった。
今回取り上げるのは、もう一方の主役であるファイザーを中心に話が展開する『Moonshot』である。タイトルはケネディ大統領のムーンショット(月へのロケット打ち上げ)計画からとられている。
ケネディ大統領の計画は、困難に立ち向かうなか、数々の問題解決をする過程で〈技術面でも組織面でも、それまでまったく予想もできなかった数々のイベーション〉を生み出した。
今回、ファイザーでも、9ヵ月という常識からは不可能と思われる短期間でワクチンを開発するなか、〈一〇年分の科学的知見をあの九か月間に結集させた。それによって他の多くの科学分野に波及効果が生まれ、結果としては当初は予想もつかない大きな変化〉がもたらされたのだという。
本書は、アルバート・ブーラ会長兼CEO(最高経営責任者)による1冊。いわばファイザーの“公式記録”である。きわどいエピソードは期待していなかったが、それでも業界トップ走り続けるメガファーマの凄みが随所にちりばめられていた。
そもそも同じmRNAワクチンの開発に短期間で成功したモデルナとファイザーの間には決定的な違いがあった。モデルナはmRNAに特化した企業でほかに選択肢はない。
一方、ファイザーの〈研究チームは、アデノウイウルス、組み換えタンパク、結合型、mRNAなど、ワクチン開発の基盤となる数多くの技術プラットフォームを扱ってきた〉。数ある選択肢の中から、それまで実用化されていなかったmRNAワクチンを選択するというリスクをとったのである。
■“大きいのに迅速”を支える圧倒的な人材
巨大組織には官僚的な鈍重さがつきものだが、開発スピードや突然変異のリスクと頻繁な追加接種の可能性、製造上のハードル、他社との提携などさまざまな要素が関係するなか、適切な判断が下せたのは見事としか言いようがない。
ファイザーと比べて小ぶりで小回りがききそうな日本の製薬会社からは、現時点でワクチンは登場していない。何が違うのか?
本書から読み取れたのは、ファイザーの圧倒的な人材の厚みである。
例えば、ワクチン・チームを率いるのは、ドイツ人女性科学者のキャスンリン・ジャンセン氏。〈ワイス社、メルク社、グラクソ・スミスクライン社などで数々のブレークスルーに携わった経験をもつ〉。
ウイルスワクチン担当バイスプレジデント兼最高科学責任者のフィリップ・ドーミツアー氏はノバルティスのワクチン事業の出身だ。
ブーラCEO自身は、以前、アニマルヘルスケア事業部でギリシャの技術ディレクターを務めるなど、獣医学博士でもある。
出身国やさまざまな専門分野、過去に勤務した会社など、多様な背景を持つ人々が、科学的な知見をベースに〈ライトスピード(光速)〉で意思決定を行い、プロジェクトを推進していく素地がある。
驚いたのは、ワクチン開発と並行して、製造設備の建設や物流方法の検討も進められたことだ。
世界で初めてのmRNA製品の工業生産であるにもかかわらず、ワクチンの開発と同時並行で製造設備の設計作業に入っていたのだ。
ファイザー製ワクチンの話を聞いた当初、「マイナス70度」という保管条件を知って、「どうやって運ぶの?」と疑問視していたのだが、その点も抜かりがなかった。専用のボックスを作るだけでなく、ドライアイスの製造設備まで設置して低温度での輸送を実現したのである。
輸出制限など、ワクチンをめぐる政治的な動きについては、広く報道されていたが、本書でも描かれているとおり、今回のコロナ渦では、ワクチンの確保に首脳レベルが関与する事態になった(菅前首相もブーラCEOと会談している)。自らワクチンを開発・製造できない国は、輸入できなければ国民も政治家も窮地に陥ってしまうのだ。
次なる感染症の襲来に備えるうえでも、日本国内におけるワクチンや治療薬の開発体制の整備は不可欠だ。しかし、本書でファイザーの圧倒的なダイバーシティ、スピード感、開発力・技術力、プロジェクトの推進力を知るにつけ、陰鬱とした気持ちになってしまった。グローバルなメガファーマの背中は遠い。(鎌)
<書籍データ>
アルバート・ブーラ著(光文社1870円)