週刊文春『新聞不信』欄に、自民党支持率が急落する一方、野党の支持率にも一向に伸びる気配がなく、立憲民主党や日本維新の会が執行部を一新したにもかかわらずこの体たらくであることを指摘して、「新聞が野党の惨状に切り込まない」「野党を甘やかしている」と嘆く内容が載っていた。
だが、私はこのコラム筆者のみならず、長らく蔓延するこの手の論法に、以前から違和感を覚えていた。政権与党と野党とを同列に批判しても無意味だと思うのだ。極論すれば、野党など当面どうでもいい。ひいきの野球チームが連戦連敗の苦境にあるとしよう。補欠選手とスタメンの入れ替えも打開策のひとつだが、現状のスタメンがベスト、選手の入れ替えなど論外とする立場なら、スタメンに奮起を求める以外にない。チームの惨状を見て「控え選手がダメだからだ」と、補欠の罵倒ばかりする人がいたならば、これはもうお門違い、八つ当たりの主張であることはすぐにわかる(選手層の拡充にはつながっても、目の前の試合に勝つ話には到底なり得ない)。
国政の話に引き戻せば、野党は「試合に出ない人々」なのである。国民生活を左右する政策決定はすべて与党の手で行われる(「提案型」などと言ってみても、何らかの取引材料にならなければ野党提案はほぼ無視される)。現状の国政に不満や不足を感じていて、与野党の「取り替え」が論外と思うなら、どうやって与党に「よりましな政治」をさせるのか、その1点こそ国民が論ずべきことだ。野党を罵倒したところで国政の改善にはまったくつながらない。むしろ、現状の全肯定という誤ったメッセージを政権に送るだけだ。野党がダメダメなら、国民自らが与党・政権を叱咤する以外にないのである。
という当たり前すぎる「そもそも論」を言わねばならぬほど、近年の世情には「うっぷん晴らしの野党批判」があふれていた。しかし、そんな防壁に守られた自民党1強の体制も、ここに来て激震に見舞われている。旧統一教会問題の発覚と五輪汚職の摘発で「絶対的権力は絶対に腐敗する」という実例が万人に可視化されたためだ。あいにく今後しばらくは国政選挙のない「(為政者にとっての)黄金の3年間」が続く。この腐敗の沼を何とかするためには、国民自らが選挙以外のあらゆる方策で、政権に「圧」をかける必要がある。
その意味で文春や新潮は、今週も与党腐敗の泥沼を懸命に暴いている。トップ記事は『自民党と統一教会癒着 写真文書入手』。そこに『統一教会元会長の息子が実名「訣別宣言」』という関連記事が続く。『公明党が隠蔽した参院議員「凌辱セクハラ」』という記事もある。こちらは新潮では『「山口那津男代表」がセクハラ口封じ 被害女性が告発! 公明党議員の「わいせつ」「妄想成功LINE」』というトップ記事になっている(公明党はこの「口封じ」を事実無根として両誌を提訴した)。
新潮は統一教会問題でも『「麻生太郎もイベントに再三……「絶縁」できっこない「岸田・統一教会」腐れ縁』と続報を打ち、五輪汚職では『なぜ「森喜朗元総理」はいつも逃げ切れるのか』とリクルート事件以来、再三その名前が取りざたされながらも「塀の上を落下せずに歩き続けてきた」その強運とサバイバル能力を論じている。文春のほうは出版界にも飛び火した五輪スポンサー汚職の波紋について触れ、『角川の競合を排除「私は絶対認めない」森喜朗「天の声」音声』というスクープで、森氏が犬猿の仲にある講談社の五輪排除を強硬に推し進めた内幕を暴露。五輪汚職の最深部に彼の存在があるという「疑惑の構図」を示している。両誌とも、まさに怒涛の展開である。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。