●もう元には戻らない


 前回までの「活字を読む」シリーズでは、医療全体を読書の世界から俯瞰しえみたものだが、今回からは視点を変え、照準を少し絞って、「コロナ」について社会で試みられている論議や主張、それらのトレンドを何回かの連載でみていきたい。


 今は、コロナの「時代」になってしまった。決して「新興感染症」の「流行」の「時間」ではなく、感染症でいえばインフルエンザのような社会における「定番」の疾患として居座りかけている。たぶん、「コロナ時代」が始まったのだ。この時代の始まりと、これを受容できるのか否認するのかの将来の物語を、識者たちの発信を拾いながら占ってみたいと思う。


 しかし、ここでは医師たちの医療問題的意識から発信される現場論や、新型コロナウイルス感染症自体に関する変異、流行規模に関する展望論などは極力関心を払わないでいきたい。医療的技術論や制度論に関しては、医師や行政担当者が日々の科学的情報をアップデートすればいいことであり、このコラムの筆者自身が医学的常識とかけ離れた「ど素人」である以上、それらの論議に参加できる資質も、資格もない。


 ということで、ここで発信していく話は、「ど素人」が理解できた範囲での多くの識者(医師を含む)から発せられる社会的問いかけ、あるいは呼びかけ、あるいは新たな認識を拾い出したものである。公平を期してはいない。惚れやすい私は、一定の議論に、面白い意見に肩入れしやすい傾向も自覚しているが、それをまず断っておくことで、この稿を始めたい。


●炙り出されたいくつかのこと


 しかし、やはりまずコロナの現況を「時代」と捉えてよいか、を考えておくべきかもしれない。9月半ば現在、国内において新型コロナ感染は第7波の終末期にあると私にはみえる。第1波の始まりは2020年の初頭だった、ほぼ3年近くを経て、第7波が続き、高齢者のワクチン接種はすでに4回目を数える。だが、たぶん、第8波はすぐに来る。


 2022年の甲子園高校野球大会で勝ち、東北地方に初めての優勝をもたらした仙台育英高校の監督は優勝インタビューで、「今の3年生は、中学の卒業式からずっとコロナの中を生きてきた」と象徴的な言葉を残している。高校生活の濃密な3年間をマスク過ごした子どもたちがいることは、「時代」といって差し支えがあるわけがない。彼らはいつか「コロナ世代」と呼ばれるだろう。そして、それを象徴として実に3年間が過ぎたことを、改めて私たちは実感している。もうコロナ時代前期として意識できるのだ。


 この間にいろんなもの、コロナ以前にはなかったものが噴出し、現れた。人々の心に入り込んだ新型コロナの恐怖は、内在する差別をあぶり出した。それは例えば移動する人、飲食店、パチンコ店、ライブハウス、カラオケへの口汚い罵りも混じった差別や、医療従事者や介護労働者に対する偏見にも表れた。それらは、理性が失われたヒステリーともいえる社会の「異様」だったと、今になれば多くの人が思うはずだ。確かに、「時代」は続いているが、そのバカバカしい「差別」は消えかかっている。


 感染者は平気でテレビで窮状を訴えたりするし、有名人の感染経験者が経験を語っても責められることは皆無となった。そうした変化も「時代」を象徴する。


 確かに、コロナは社会的影響の実相を変化させてきたが、しかし感染症としての存在が消えたわけではない。その存在は小さくなったわけでもない。それでもマスクをしない国は増えてはいて、国民性や文化観の違いは明瞭にはなっているが、感染者は増減を繰り返しているし、日本でもいまだに1日に10万人以上の感染者が報告されている。私はこうした「人々の意識の変化」が時代を形作っていく最中にあると思う。そしてその時代の最中にあるいくつかの証言を目に触れる活字や発言から見ていきたいのだ。


●脆弱な世界と隣り合わせ


「時代」だと断言していくには、「コロナ前」がひとつの時代であって、「もはや前の時代ではなくなった」との認識は不可欠である。それだからこそ、「いつになったら旧の暮らしに戻れるのだろうか」「早く以前の生活を取り戻したい」という願望や希望にはノーと言わなくてはならない。政府対策分科会の専門家委員である押谷仁氏は、雑誌「世界」9月号の河合香織氏の取材に答えて、コロナ前の生活に戻ることについて「元の生活というのはそもそも『危ない社会』なのです」と語っている。


 押谷氏は、元の社会は感染症だけでなく自然災害を含めて脆弱な社会で、もっとひどいパンデミックが起こるかもしれない、皆が(現状の)高齢者が200人、300人と死んでいっても、それがなかったかのように暮らしていくことでいいのかと問いかけ、「それで本当にいいのか。我々から想像力が失われていっている」と言っている。もちろん、「昔の生活に戻りたい」は、元の生活が「ユートピア」だったと人々が考えているわけではないことは当たり前で、「コロナがない、なかった」ことだけを願っているのだが、実はコロナが見せたものがある以上、元に戻れるわけはない、もうコロナを知ってしまったのだからという厳然とした事実があるということでもあるのだ。


 過去にも大きな災害はあり、人々はそれを乗り越えて生き抜いてきたのだが、しかし経験として「災害は忘れた頃にやってくる」脆弱な世界といつも隣り合わせだということも知っている。つまりコロナ時代は、今を最中にして継続しており、もはや元の世界には戻れないのだ。時代は現出しているのである。


●レジリエンスとしての所作


 そうした意味で、コロナ時代をひとつの時代として捉えながら、コロナ以後の新しい社会について考えなければならない、というかそろそろ考える準備に入らなければならないのではないか。想像力を失うのではなく、まず次代のためのエンスをどう考えていくのか。


 医療評価研究者の久繁哲徳氏は、著書『医療の世界史』付論で、そもそも毎年60万人は死亡するインフルエンザでは騒がない「元の時代」があったことに触れながら、コロナ時代の象徴として「煽り」を挙げている。数理モデルSIRを基本とした単純な感染予測を「荒唐無稽」と切り捨てているのだが、20年3月には、こうしたシミュレーションがメディアに大々的に報じられ、政治判断にも影響を与えたことに彼は強い批判を示している。


 そのうえで、情報とパンデミックを連結した「インフォデミック」から身を守るための必要を説く。これもまたコロナ時代ですでに一部では社会が身につけなければならない「所作」となったかもしれない。それが市民にも、メディアにも身についたところで、いわゆるレジリエンスの出発が始まるかもしれない。ある意味、コロナ時代の「希望」や「期待」はそこにあるかもしれない。戦争などやっている場合ではなく。


 ここでは今後、このシリーズでとりあげていく「コロナ時代」に向き合うテーマを掲げておきたい。


●民主主義体制下での行動制限、人流制限、コロナ時代前半の対応から学ぶことは何。

●新しい働き方。顕在化したブルシットジョブとエッセンシャルワーカー

●同調圧力と世間の圧力、風評被害、人権侵害

●死をフォーカスにした「トリアージ」のひとり歩き


 いずれも多くの図書から得た知識や印象が、私のこうした「まとめ的コラム」の特徴であり、いずれも前回シリーズの「活字で読む」ものと同工異曲かもしれない。しかし、今回は雑誌やメールマガジンにも目を通し、「コロナ時代」のトレンドと、ウイズコロナ時代の展望をながめてみようと思う。いいかげんに「元に戻りたい」という幻想から立ち上がることを模索してみたいのだ。(幸)