安倍晋三元首相の国葬が終わり、翌日の新聞、テレビは国葬の様子を大きく報道した。同時に岸田文雄首相が出席してくれた38ヵ国・地域、国際機関の各代表と「弔問外交」を展開したとも報道した。


 周知のように国葬には反対する声が多かった。いや、各社の世論調査でも国葬反対は半数を超え、賛成は4割程度過ぎない状態だった。原因は安倍元首相と旧統一教会との関係にあるのは言うまでもない。自民党の安倍派を中心に多くの国会議員が統一教会と染まっていたからで、報道が増えるにつれて国葬反対の声が増大した。


 国葬を決めた岸田首相も内心では「早まった」と思っただろう。安倍元首相が選挙戦の、それも演説の最中に銃撃されたというショッキングな事件だったことから国民は一斉に賛成してくれるはずだし、加えて、安倍派に恩を売る絶好の機会だとも考えたのだろう、早々と国葬を決めてしまった。


 だが、この決定は岸田首相の早とちりとでも言うしかない。首相という立場なら情報を誰よりも早く入手できる立場でありながら思考が停止していたのか、あるいは先を読む能力が欠如していたのか。なにしろ、事件直後に「思想的な犯行ではない」と伝えられたのだから、個人的な恨みなのか、安倍元首相に騙されたとか何かあったのか、と、いったん立ち止まって考えるのがふつうである。警察庁から、あるいは国家公安委員会から銃撃は統一教会に関係していることに対する犯行、という話もあがってきていたはずだ。


 週刊誌記者なら、新聞社の社会部記者なら、統一教会がらみの犯行だと聞けば、即座に安倍元首相と統一教会との関連性がどのくらいなのか、と関心を持つ。即座に統一教会と安倍元首相との接点の取材に取りかかる。年配の記者なら統一教会の霊感商法を知っているし、安倍元首相を最も可愛がった祖父の岸信介元首相を始め、福田赳夫元首相らが統一教会と繋がっていることを知っている者もいるだろう。


 まして岸田首相は最高の情報を得られる立場だから、その場で立ち止まり、事態の進展を冷静に見ることができるはずだ。ところが、その判断ができず、「国葬にする」と発表してしまったのだから、岸田首相のオツムが問われる。側近が国葬を進言したらしいが、その場でどうすべきか判断できるかどうかが首相としての器の大小だ。残念ながら岸田首相には判断能力に欠けていた。先見性の思考力を欠く首相をいただく国民にとっては不幸と言うしかない。


 むろん、外国の特派員はこの機を見逃さない。動員したのかどうかは知らないが、国葬に献花する多くの人たちの行列と並んで、国葬反対のデモ、国民の冷ややかな眼差しを捉えて報道されてしまった。国民の半分以上が国葬に反対しているのに、国民の声に反して国葬を強行する羽目になったのだから仕方がない。


 それはともかく、新聞やテレビでは岸田首相の「弔問外交」を大きく報道していた。だが、弔問に訪れた外国の首脳には先進国や大国とされる国のトップは少ない。G7の国ではカナダのトルドー首相とアメリカのハリス副大統領が外国首脳の目玉だったが、トルドー首相はカナダ東部を襲ったハリケーンによる被害を理由に急遽欠席した。来日するとは言ったが、日本国内での国葬反対の声が半数を超えているという情勢を見て、内心では助かったと思っているかもしれない。


 ハリス副大統領は来日したが、韓国訪問と米韓合同演習視察のついでということになっている。ハリス氏は民主党左派と言われ、副大統領就任後、目立った活躍もなく、米国内での評判は散々だ。といって、日本を粗末に扱うわけにもいかない。弔問に派遣するにはうってつけだっただろう。バイデン大統領はやはり頭がいい。


 安倍元首相とは「ウラジミール」「晋三」と、お互いに「ファーストネームで呼び合う友達」と言っていたプーチン大統領のロシアは早々と行かないと表明し、安倍元首相が首相在任中に国賓として訪日することを約束したものの、新型コロナ感染症の拡大で来日を断念した中国の習近平国家主席は来ず、この手の国際会議などには、いつも首脳の代わりに用立てる中国政治協商会議の、それもトップではなく副主席を派遣しただけだ。オーストラリアの新首相とインドの首相が来てくれたのがせめてもの慰めだった。


 だが、大物かどうかではなくても、岸田首相は弔問外交ができたのだろうか。そもそも「弔問外交」などという言葉がおかしくはないのか。外交ではお互いに下から、つまり課長クラスから問題を上げ、それに対するそれぞれの対応を話し合い、まとまったところで上にあげる。そして最後にトップ同士が会って決定するものだ。


 弔問に訪れたときにはこうした準備も交渉もしていない。話し合うべきことだって決まっていない。われわれ庶民の葬式だって弔問の席で、後をどうする、生命保険がどうのこうと相談することはまずない。お互いに落ち着いてからするはずだ。外国のトップが弔問に来て、双方の国の問題を協議するなどということはない。


 元外務次官だった人も、「外交交渉をするなんていうことはありませんよ。顔を合わせて挨拶し、お互いに知り合うだけです」と笑う。


 以前、「饗宴外交」という話を書いたことがある。私も関係した国際政治情報誌に「饗宴外交」というページがあり、大手新聞の外報部のベテラン記者が執筆していた。もっぱらどんな料理を出し、相手国との交渉に役立てようとしているか、といった話が載っていた。外国のトップとの会談で、交渉がうまく行ったときは美味しい料理を用意し、交渉が決裂しそうなときはサンドイッチか何かにするのだろうか、と不思議な気になっていた。


 ところが、この饗宴外交の執筆者と読者との交流会があって、期待して臨んだのだが、ある読者が「外国でも交渉に料理を使うのか」と聞いたとき、当の執筆者が「外国では饗宴外交というのはない。外国の当事者に聞くと、たとえば、フランスでは訪問した外国の大統領や首相との食事では必ず、外国の首脳が大好きな料理を先に聞き出しておき、好きな料理を提供する。マスコミでもどんな料理を出したのかという記事はない」と答えたのだ。


 なんだ、饗宴は文字通り、ただ美味しい食事をするだけのおもてなしであり、外交などとは無関係だったのだ。饗宴外交というのは日本の新聞記者が勝手につけただけだった。


 弔問外交というのも、饗宴外交と同様、日本の政治記者が勝手に名付けた言葉に過ぎない。しかも、ジャーナリストの故半籐一利氏が「権力を持つ人が四文字熟語を使ったら気をつけろ」と警告していた。戦前、「八紘一宇」「七生報告」「一億玉砕」等々、政府、軍部が盛んにラジオ、新聞に報道させた四文字熟語だ。言葉は文化そのものである。


 今、新聞記者、それも政治を担当する記者が自ら「弔問外交」「饗宴外交」などと、中身のないことを、さもあるかのように四文字熟語で表現するのは如何なものか。(常)