(1)父・藤原俊成と母・美福門院加賀


 藤原定家(1162~1241)の「定家」は、「さだいえ」と読んでも「ていか」と読んでも、どちらでもかまわない。戸籍謄本があって、フリガナが書いてあるわけではないので、本当のことはわからないが、たぶん、訓読みの「さだいえ」が本当なのだが、なんとなく、音読みの「テイカ」のほうが流行っています。「定家」に限らず、官職名の「太政官」の訓読みは「オホヒ・マツリコト・ノ・ツカサ」ですが、いつの頃か知らないが、誰もが音読みをするようになった。「訓読みか、音読みか」に関しては、いろいろな学説があります。


 最初から、余談になって、ごめんなさい。

 

 藤原定家とは……


『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』は3大和歌集と言われます。そして、『万葉集』と言えば柿本人麻呂、『古今和歌集』と言えば紀貫之、『新古今和歌集』と言えば藤原定家を連想します。要するに、藤原定家は、後世に大きな影響を与えた天才歌人です。


 2つの勅撰和歌集、『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の撰者であり、晩年に『小倉百人一首』を撰んだ。


 補足ですが、勅撰和歌集とは、天皇や上皇の命で編集された、いわば公式な和歌集です。これに撰ばれることは、歌人にとって大変な名誉でした。『古今和歌集』(905年成立)から『新続古今和歌集』(1439年)の間、21の勅撰和歌集があり、「二十一代集」とよばれます。古い順に並べてみます。


➀古今和歌集、②後撰和歌集、③拾遺和歌集、この3つを「三代集」と言います。

④後拾遺和歌集、⑤金葉和歌集、⑥詞花和歌集、⑦千載和歌集、⑧新古今和歌集、ここまでを「八代集」と言います。

⑨新勅撰和歌集、前述したように撰者は藤原定家です。⑩~㉑は省略します。


 父は藤原俊成(1114~1204)です。藤原北家全盛を築いた藤原道長(966~1028)の血筋ではあるが、傍系であるため、いわば中流貴族である。和歌の才能はあったが、出世できず、出家を考える有様であった。ところが、縁あって美福門院加賀(?~1193)と結婚した。この名からもわかるように、美福門院加賀は美福門院の女房で、老年になって、五条局と呼ばれた。


 美福門院(1117~1160)は、大変な権力者である。「昔人の物語(98)美福門院得子」を参考にして下さい。藤原俊成は、そのコネで、そこそこ出世した。出世目的で結婚したのか、そこのところが微妙で、よくわからないが、2人の間に生まれたのが、藤原定家である。


 出世のためのコネづくりの欲もあったろうが、やっぱり恋ですね~。


『新古今和歌集』巻13は「恋三」で、その最後の歌は、次のものです。


女につかはしける                皇太后宮大夫俊成

 よしさらば のちの世とだに たのめおけ つらさにたへぬ 身ともこそなれ


返し                      藤原定家朝臣母

 たのめおかむ たださばかりを 契りにて 憂き世の中を 夢になしてよ


(現代訳)俊成は37~38歳、美福門院加賀も34~35歳である。2人の間には、極めて大きな恋の障害物があったようだ。「わかりました。そうならば、後の世(来世)では、一緒になれると期待を持たせてください。私は、辛さに耐えきれなくて死んでしまう身になってしまうかもしれません」


 美福門院加賀の返歌。「お約束しましょう。あなたの来世での期待をあてにしてください。それだけを契りとして、この辛い現世を夢と思ってください」


 障害物のためか、2人の恋は熱烈ですな~。まぁ、しかし、障害物を乗り越えて、2人は結婚し、そして1162年、俊成49歳、加賀46歳の時、藤原定家が誕生した。晩婚・晩年出産であった。


 その後の俊成は、和歌の才能を発揮し、1183年に後白河院の院宣を受け、第7番目の勅撰和歌集の編集を開始し、1188年に『千載和歌集』を完成させた。つまり、当代の歌人ナンバーワンとなった。俊成が指導した歌人には、子供の藤原定家以外に、寂蓮、後鳥羽院、九条良経、式子内親王ら多数いる。1204年、91歳で没した。


 俊成は「幽玄」や「艶」を重んじ、その後の日本の各種芸能の美的概念に大きな影響を及ぼした。


 横道へ逸れますが、「皇太后宮大夫」について。藤原俊成の最高位階は正三位で、最高官職は皇太后宮大夫であった。皇太后大夫とは、皇太后官職の長官である。後白河天皇(1127~1192、在位1155~1158)の中宮・藤原忻子(よしこ、きんし、1134~1209)が、皇太后となり、そこの長官である。ただし、忻子は美人であったが後白河院の寵愛は薄かった。後白河院の寵愛は、最初は平滋子(じし/しげこ、=建春門院、1142~1176)にあった。平滋子は平家一門ではあるが、平清盛らとはほとんど関係を持たなかったが、後白河院をバックに絶大な権力を振るった。しかし、1176年、35歳で病死する。


 その後、後白河院の寵愛は、丹後局(=高階榮子、たかしな・えいし/よしこ、1151?~1216)へ移る。丹後局も、また絶大な権力をふるい、「朝務は、ひとえに、かの唇吻(しんぷん)にあり」、要するに、丹後局の紅い唇(くちびる)ひとつで政治が左右され、楊貴妃に異ならない、と言われた。1192年、後白河院が崩御した後、権力は「非後白河院」の九条兼実(1149~1207)が握ったが、丹後局は、源通親(みちちか、1149~1202)と組んで「後白河院近親=反九条兼実派」の中心人物であった。源通親は俗称・土御門(つちみかど)通親と呼ばれ、村上源氏である。源頼朝の清和源氏と系統を異にする。


 1196年、丹後局らは九条兼実追放に成功した(建久七年の政変)。権力の中枢に返り咲いたが、後鳥羽上皇(1180~1239、天皇在位1183~1198)が、本格的に院政を始めた1202年頃から、源通親の死去もあって、権力が消失し、朝廷を去り浄土寺に移り住み、1216年、65歳(?)で亡くなった。平安末期から、権力を握る女性が続々と登場したのだが、ほとんど無視されている。


(2)式子内親王との仲は


 藤原定家は、大病である麻疹(はしか)、天然痘にかかっている。そのためか、呼吸器疾患に苦しむ虚弱体質となった。また、神経質で、さらには、感情むき出しの場面もある。中流貴族として、そこそこ出世もするが、政変で不遇になったり、厚遇されたりした。基本的に、出世への意欲が貪欲で、熱心に猟官運動をしている。むろん歌人としては大活躍である。では、女性関係は?


 1162年、定家誕生。


 時期は不明であるが、藤原季能の娘と結婚。


 1184年、藤原季能の娘との間に、長男・光家を儲ける。

 1194年、藤原季能の娘と離婚、藤原(西園寺)実宗の娘と結婚。

 1195年、藤原(西園寺)実宗の娘との間に、長女・因子を儲ける。

 1198年、藤原(西園寺)実宗の娘との間に、為家を儲ける。

 

 なお、藤原定家の子は他にもいる。


 なぜ、藤原季能の娘と離婚したのか、藤原(西園寺)実宗の娘との結婚に何かあったのか、分からない。エピソードらしいものは伝わっていない。よくある離婚、よくある再婚ということかな……。


 それでは、面白くない。天下ナンバーワンの歌人、しかも恋の和歌が多い天才歌人だから、なにかしら「すごーい恋があるのはずだ」と、みんなが想像した。ほんの僅かな状況証拠に基づいて、式子内親王と藤原定家の各種物語が創作された。


 とりあえず、式子内親王の事実を取り上げます。


 1149年、後白河天皇の第3皇女として生まれる。


 1159年、卜(うらない)によって、賀茂斎院(賀茂斎王)となる。伊勢神宮の斎宮と同類で天皇家の未婚女性から選ばれる。京都の賀茂神社は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の総称で、古代賀茂氏の氏神の神社で、古代賀茂氏には、天神系、地祇(ちぎ)系がある。天と地の両系列ということだろう。天神系は神武天皇を先導した人々が先祖という感じ。地祇系は大物主神(三輪山)と関係が深い。賀茂神社の賀茂祭を葵祭といい、平安時代、「祭り」と言えば「葵祭」を意味した。要するに、伊勢神宮と賀茂神社は天皇家にとって2大神社であった。


 賀茂斎院は、伊勢神宮の斎宮よりも歴史が短く、平安時代初期から鎌倉時代初期までで、35人いた。賀茂斎院の任務は神との交信で、現代ならば超能力者である。その1人が式子内親王である。


 1169年、病のため賀茂斎院を退く。伊勢神宮斎宮・賀茂斎院は、退下した後、稀に結婚した者もいたが、通常、生涯独身であったようだ。


 母の実家、父の後白河院の法住寺、そして八条院暲子内親王(1137~1211)のもとで生活した。八条院は鳥羽天皇と美福門院得子(藤原得子)の子で、最大の荘園領主であった。最大の財産家であったが、あまり政治に口出ししなかったようだ。


 式子内親王は、時々、権力がらみの事件に巻き込まれてしまうが、単なる「疑い」だったり「濡れ衣」だったりで、処分なしで済んでいる。まぁ、権力の中心近くにいると、なにかしら事件の余波をこうむるものだ。


 1200年、後鳥羽院の求めで百首歌を詠み、藤原定家に見せている。式子内親王は藤原俊成の弟子の1人で、新36歌仙、女房36歌仙の1人である。『新古今和歌集』では女性最多である。


 1201年、53歳で亡くなる。


 なお、式子内親王の男性関係の推理話としては、藤原定家の他に、浄土宗の法然(1133~1212)もいる。賀茂斎院の美女、内親王で和歌の名人、となると、誰しも、「内緒の男」がいたのでは、と邪推するものだ。


 式子内親王の和歌で、『新古今和歌集』巻11「恋一」にあり、小倉百人一首にも選ばれている。


 玉の緒よ 絶えなは絶えね なからへは 忍ふることの 弱りもぞする


(現代訳)私の命よ、絶えるなら絶えよ。このまま長く生きれば、(秘密の恋が)、秘密にする力が、弱くなって、ばれてしまう。


 この歌は、歌会で「忍恋」という題を出されて、詠んだもので、自分の実際の恋を詠ったものではない。しかし、野次馬は、定家との恋に関係づけて、創作話を流行させた。


 式子内親王と藤原定家の噂がたったため、父藤原俊成は定家に意見をするため定家の家に来た。留守だったが、定家の机に、式子内親王のこの歌が残されていた。俊成は、2人の恋が命をかけるほど真剣だと察知し、その後、2人の仲について無言となった。


 創作話は楽しいね。


 もうひとつ、創作話。これは、ドーンと胸をうつお話です。猿楽師・金春禅竹(1405~1471)の代表作『定家』である。金春禅竹は世阿弥の娘婿です。


 旅の僧が1人の女と会う。女は式子内親王の石塔の墓を案内する。石塔は葛(くず、かずら)で覆われている。この葛は、定家の執着心が変じた「定家葛」(テイカカズラ)と説明する。内親王が死んで墓に入っても、今なお纏わりついているのだ。僧は法力をもって定家葛をほどいて、内親王を石塔から脱出させる。内親王は感謝の舞を演じる。しかし、内親王の姿は、醜い老婆の顔であった。それを恥じた内親王は、定家との永遠の愛欲苦界を選び、自ら石塔へ戻り、再び定家葛が覆う。


 とにかく、この創作話は滅茶苦茶有名になり、テイカカズラは、正式の植物名になりました。


 なお、京都市上京区に宮内庁の般舟院陵(はんしゅういん・の・みささぎ)があり、そこに、式子内親王の墓と石塔があるが、写真で見るかぎり定家葛はありません。


(3)『新古今和歌集』


 1201年、後鳥羽院は『新古今和歌集』の編纂を命じた。撰者は、源通具、六条有家、藤原定家、藤原家隆、藤原(飛鳥井)雅経、寂蓮を含め6人であったが、そのなかの寂蓮は途中で亡くなり、実際は5人である。しかし、後鳥羽院も積極的に選別に加わり、さらには、撰者以外の職員も加わった。


 1216年に最終的に完成した。「八代集」最多の1970首(伝本によって若干の差あり)である。西行が94首で最多、以下、慈円、藤原良経、藤原俊成、式子内親王、藤原定家、藤原家隆、寂蓮、後鳥羽院となっている。


 なお、承久の乱(1221年)によって、後鳥羽院は隠岐(島根県の島)へ流された。隠岐の後鳥羽院は、約400首を削除・修正した。これを『隠岐本』という。


 歌風は、藤原定家の父・俊成が唱えた「幽玄」「艶」を、藤原定家が「余情妖艶の体」に発展させ、それが特徴ということらしい。「幽玄とは……」「余情妖艶の体とは……」は、面倒なので止めておきます。それから、自身の気持を素直に詠うことより、技巧的工夫が重んじられたらしい。


 正岡子規は、『古今和歌集』『新古今和歌集』をボロクソに罵倒しているが、自分が明治新時代の新しい歌をつくるんだ、古いものはダメだ、という猛烈な意気込みが言わせたのだろう。


 さて、『新古今和歌集』の代表的名歌は、どれだろうか。


 前述した、藤原俊成の「よしさらば…」、定家母の「たのめおかむ…」、そして、式子内親王の「玉の緒よ…」は、間違いなく名歌である。それに劣らぬ、それに優る和歌は、数多くあり過ぎるので紹介するのを止めます。ただし、「三夕(さんせき)の和歌」だけは、紹介しておきます。


 3つとも「秋の夕暮れ」で終わっています。文法では「体言止め」で、『新古今和歌集』に多くあり、『新古今和歌集』の特徴とされています。「三夕の和歌」は、むろん、『新古今和歌集』を代表する和歌に数えられています。


 寂しさは その色としも なかりけり 槙(まき)立つ山の 秋の夕暮れ

 (歌番361・寂蓮法師)


(解説)寂しさは、色もないな~。槙の生えている山の秋の夕暮れ。という直訳では、どうもな~。問題は「色」の意味です。『般若心経』に「色即是空、空即是色」とあり、「色」の単語が登場すると、ドキッとします。寂しいな~、寂しいな~、寂しさには色も形もないのに、寂しいな~。槙の生えている山の秋の夕暮れを見ていると。


 心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の 秋の夕暮れ

                           (歌番362・西行法師)


(解説)アホな私にも、「あわれ」がわかります。鴫(しぎ)が飛び立つ沢の秋の夕暮れを見ていると。しかしながら、現代の都会育ちの者にとっては、そもそも、鴫がわからない。鴨(かも)と鴫の区別もつかない。両方とも大きさも茶色ベースの色で、さほどの差はない。多きな差はくちばしで、鴫は長い。鳴き声が違うという説明を読んだことがある。飛び立つ時の鴫の鳴き声が、「あわれ」を感じさせるのかも知れない。


 見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ

                            (歌番363・藤原定家)


(解説)浦は浜辺。苫屋(とまや)の苫(とま)は萱(かや)や菅(すげ)で編んだムシロのこと。苫屋は、屋根や壁がムシロの簡易な小屋で、漁業シーズンに道具を置く、および寝泊まりする。和歌の現代訳は必要ないでしょう。


(4)『新勅撰和歌集』


 1232年6月、71歳の藤原定家は、後堀河天皇(在位1221~1232、生没1212~1234)から、『新勅撰和歌集』の編纂を命じられた。定家は単独で撰別作業を始めた。ところが、同年10月、後堀河天皇が譲位することが決まり、その2日前に、仮奉覧となった。後堀河院が死去すると、定家は撰別作業を止めてしまうが、九条道家・教実親子が引き継ぎ、1235年に完成する。要するに、九分九厘、定家が編纂した。


 定家も道家・教実親子も、鎌倉幕府への忖度から、後鳥羽院・順徳院の歌を排除、武士の歌を多く撰んだ、とされる。政治と芸術が若干絡んだわけだ。


 しかし、『新勅撰和歌集』の価値が減じたわけではない。『新古今和歌集』が「花」、『新勅撰和歌集』が「実」と認識された。


(5)『小倉百人一首』


 1235年、宇都宮頼綱(1178~1259)から嵯峨野の別荘(小倉山荘)のために、古来からの歌人の和歌1首ずつ、100首を選んだ。後に、『小倉百人一首』と呼ばれ、大普及した。定家の好みが反映して、恋が46首、秋が15首となっている。


 定家の『小倉百人一首』の歌は、1218年の内裏歌合わせで詠んだ歌で、『新古今和歌集』にも『新勅撰和歌集』にもありません。


 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ


(現代訳)待っても待っても来ない恋人を待っています。松帆の浦の風がやんだ夕方、その時に焼く藻塩(もしほ、当時の製塩法)のように、私の身も恋い焦がれながら。


 江戸時代の太田蜀山人の狂歌では、「定家どの さてもき長く 来ぬ人と しりてまつほの 浦の夕暮れ」とからかっています。定家の恋歌は、実体験ではなく、空想の産物であることを見破っています。


 なお、藤原定家には、数冊の歌論書、家集『拾遺愚草』、日記『明月記』がある。また、小説『松浦宮物語』の作者と推測されている。


 私の家定のイメージは、天才歌人であるに違いないが、後世からは「歌道の家元」ように思われたのではなかろうか。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。