●説明しなければ嘘をつくことになる


 この度の新シリーズでは、新型コロナウイルス感染症が世界に蔓延し始めてから3年を経ようとしている状況について、「コロナ時代」が始まったと規定し、この時代の始まりと、これを受容できるのか否認するのかの将来の物語を、識者たちの発信を拾っていくことから探る、との目的を示し、主に4点の論点を示した。


 すなわち、


〇民主主義体制下での行動制限、人流制限、コロナ時代前半の対応から学ぶことは何か。

〇新しい働き方。顕在化したブルシットジョブとエッセンシャルワーカー

〇同調圧力と世間の圧力、風評被害、人権侵害

〇死をフォーカスにした「トリアージ」のひとり歩き


 である。

 

 ただし、前回でも述べたように、医師たちの医療問題的意識から発信される現場論や、新型コロナウイルス感染症自体に関する変異や流行規模に関する展望論などは極力関心を払わないでいく。それでも、折に触れてこうした現場の声を拾うことを躊躇うことは避けたいと思う。その判断と評価は、このコラムの筆者である一般人として、ど素人のものであり、その理解の範囲であることを断っておきたい。


●「無理して帰るな」のリアル


 今回からのテーマは「民主主義体制下での行動制限、人流制限、コロナ時代前半の対応から学ぶことは何か」である。理解を得たいのは、行動制限、人流制限から人々、市井の人々が学んだことを述べてみたいということである、規制当局や、政府分科会などのような専門家の発信を主として扱わないということである。そのため、拾い出す「声」は、医療界ではない人々、無名の人々の発信をベースにしていき、コロナ時代の始まりを一般社会がどう受け入れようとしているのかを考えてみたい。


 コロナ時代の始まり、たとえば人流制限が本格化し始めた2020年春頃の若い労働者たちの感覚はどうだったのか。2022年上半期の直木賞を受賞した窪美澄の短編小説集には新型コロナがパンデミックになった状況下での、東京で住み働く若い人の感覚がいくつか描写されている。


『真夜中のアボカド』の主人公、アラサーのOL女性はコロナが始まってほぼ1年間のうちに、恋愛相手に裏切られ、妹の元カレに失恋するが、そのやるせない転変に深く影を落とすのがコロナだ。(20年)春のコロナの自粛期間が始まって、職場は早々にリモートワークになり、ステイホーム、不要不急の外出を控えることが常識となり、パソコンの画面越しにしか職場仲間とは合わない日々が続くと、この短編小説は始まっていく。


 当初、主人公は「満員電車の通勤がないって最高!」と新しいワークキング・スタイルに喜びがあったのだが、1週間も絶たないうちに、「幽閉されている」と思い、桜の開花も散り終えにも無関心なまま、「ぐつぐつと暮らして」いるのだが、やっぱりコロナは怖いから、スーパーやコンビニに行くくらいしか外出しない毎日を続ける。コミュニケーションはスマホであり、恋愛はLINEが中心に進行する。


「いかにランチの無駄話や会社帰りに同僚とちょっと呑むなんてことが、私の生活の息抜き兼ガス抜きになっていたかを思い知らされた」ことを明確に認識し、「コロナ鬱とまではいかないまでも体も心もすぐれない」と自覚する主人公は、この世代で働く人たちの代弁であり、こうした描写がプロローグから一気に続いている。「コロナ鬱まではいかないまでも」に、主人公自らの心身の健康維持に踏みとどまる意思の強さを示しながらも、誰かのサポートがなければすぐにでも崩れていくような脆い心情が表現され、その後の物語を暗示する。


 作品中での主人公は、コロナが早く終わらないかと何回か願うし、その願いの理由には恋人との逢瀬の少なさもあるが、島根に住む両親への思いもある。両親は「コロナが心配だから帰ってこなくてもいいからね」と主人公に言っている。両親が主人公を思いやって言っているのか、自分たちに感染させるから帰るなと言っているのかが判然としない曖昧な言葉が、この世界ではひどくリアルなニュアンスを伝えていて効果的だ。


 筆者にも地方に住む子どもがいるが、この3年間に「無理して帰ってこなくていい」と何度伝えただろうか。彼の家族への感染が怖いのか、高齢となった自分たちの感染が怖いのかが自分でもよくわからない伝言だと気が付く。そして、たぶんこの会話は社会全体でこの3年間に交わされた最も共通性の高いものだろう。


●実は国民の「倦み」が怖い政府


 むろん、3年も経った今、社会はこうした逼塞した社会状況に倦んでいる。『真夜中のアボカド』の主人公も、裏切りや失恋がコロナのなかで進むうちに、それでも「再生」していくが、現実はそうもいかないだろう。


 一般市民の共通したこうした「鬱」に近い逼塞感の中で、今年7月から始まった第7波に対応しては、政府施策は6波までとは大きくその立ち位置を変えた。オミクロン株対策を急がざるを得ない一方で、社会の「倦み」に、行政も専門家も視線をようやく向けた。


 8月に入ってすぐに、新型コロナ対策分科会の会長や国立感染症研究所のトップなどが参加する専門家有志は政府に対して、「感染拡大抑制の取り組み」と「柔軟かつ効率的な保健医療体制への移行」について提言を用意し、8月2日に発表している。実はこの提言はその1ヵ月以上前から準備されてきたものであり、この間厚生労働省を中心に行政と専門家の間で、「提言」内容をめぐって細かい論議が継続されていた。有体にいえば、専門家提言を行政は否定し続け、主導権を渡さなかったのだが、この間の攻防に関する具体的なレポートはここでは省く。


 この過程のなかでは、「提言」を遮る形で、厚労省は7月22日、濃厚接触者の待機期間に関する通知を出して、待機期間5日、抗原検査陰性3日の方策に変更している。その後も、水際対策の緩和などが次々に打ち出されたことは周知のとおりだ。


 こうした一連の流れで示されていることは、第7波が今までで最も強い感染力を持ったものであり、世界でも最高の感染者数を出していたにもかかわらず、現実には規制はかなりの速度で緩められてきたことである。国内経済の逼塞状況、とりわけ宗教団体と与党との関係性の暴露や、円安という経済政策の失敗(数十年に渡ったもので、コロナが第一の要因ではない)から、人々の目を逸らすように社会の「倦み」に乗じて行われた政策だ。


 かなりの速度で社会経済活動を重視し一般人の行動制限を緩和する政策が、ついに出される状況について、専門家有志のひとり、神奈川県医療危機対策統括官の阿南英明(医師)は、ノンフィクション作家、河合香織のインタビューに答えて、「命が何より大切だと言う人もいますが、私はそんな単純な話だとは思いません。コロナ以外にも多くの疾患がある中で必要な医療が受けられずに死ぬのが問題なのです。そして、社会が死ぬのも同様に大きな問題だと思います。ここで重要なのは嘘をつかないことです。社会経済と感染症の両立というなら、政府は死者が増える可能性があることを国民にしっかりと説明する必要があります。残念ながらファンタジーはない。何かをしようとするならデメリットやリスクは伴います。そのリスクを社会が許容するかどうかという話し合いがまったくなされていない。国会で議論すべき問題で、今のままでは成熟した民主主義とは言えません」(世界8月号)と語っている。成熟した民主主義を期待することは必要だろうが、昨今の政治を眺めれば、それがかなり無力な希望に思えるのは筆者だけではないだろう。


●戦争は終わるが……


 民主主義ではなく、現実に政府が怖いのは国民の「倦み」ではないかと思う。そして、この「倦み」に対して最もやってはいけないことが、阿南が言うように「嘘をつく」ことだ。窪美澄の短編『星の隋に』では、経営するカフェがコロナで「全然ダメだよ」という父親に育てられている少年が、友人に東京大空襲を教えられ、その友人に「今だって戦争みたいなもんじゃないか」と言われる。友人はそのうえで、防空頭巾の代わりにマスクしてコロナというウイルスと戦っている、世界中で500万人以上の人が死んでいると教えるのだ。主人公の少年はそうして、自らが置かれている状況(実母との別離)への整理がつかないまま、それが戦争という悪夢とシンクロしていく。


 社会や市民は政府が思っているほどにしたたかではないし、戦後復興の神話は歴史に1回しかない神話でしかない。コロナの規制をフルスピードで緩和しても、今回の戦争は終わるわけではないということを政府は忘れているのかもしれない。コロナはまだ続く。阿南が言うように、「死者が増えることをしっかりと説明」しなければ、それは実は「嘘」をつくことと同じなのだ。(幸)