正直、プロレスの楽しみ方をついぞ理解できないまま、60年余り生きてきてしまった。あのリング上の興行を果たしてスポーツと見るべきか、それともあれはショーなのか。そんな基本さえ結局わからずにいる。同世代の男性では、少数派かもしれない。1980年ごろからか、プロレスの面白さをサブカル的に語ることを「粋」とする風潮が広がって、表立ってプロレスをけなす人はあまり見かけなくなった。作家・村松友視氏の著書『私、プロレスの味方です』がベストセラーになった辺りからの傾向に思える。


 アマノジャクの私はそんな雰囲気も含め、何だか嫌だった。偏見と言われればそれまでだが、「真剣勝負の格闘技か否か、そんな問いを発すること自体がナンセンス。プロレスの見方をわかっていない」などと上から目線で語られると、それだけでうんざりしたものだった。


 そんなわけで、ジャイアント馬場氏にしろアントニオ猪木氏にしろ、昭和の大スターだったことは認めるが、果たしてどこがどう偉大だったのか、その根本の部分が私はわかっていない。ただしそんな私でも、10月1日に他界した猪木氏に関しては、マイク1本で、あるいはビンタによる「闘魂注入」で、どのような場でもたちどころに人々を盛り上げる、その傑出したカリスマ性は見事なものだったと思っている。


 今週の各誌は、この猪木氏の訃報を大きく取り上げている。猪木氏と言えばまず、伝説のモハメド・アリ戦である。週刊文春の12ページ大特集『さらば!アントニオ猪木』では、米国ボクシング関係者から入手したというこの試合前年のアリの言葉を録音したデータが紹介されている。それによれば、この試合はあくまでエキシビジョンマッチであり、お互いに相手を本気で傷めつけはしない、とアリは見ていたが、一方でどちらかでも「怪我をしたフリ」などをすれば、リアルな試合でないことが(観衆に)「バレてしまう」とも語っていて、微妙な「さじ加減」を想定したことが示されている。そのうえで猪木氏の側がもし、真剣勝負に持ち込むなら、「猪木は殴られないように床に寝転ぶだろう」と現実の試合展開を見事に言い当てている。


 寝転んだ猪木氏をとにかく上から殴ろうとするアリ。仰向けの体勢でそれをかわしつつ、ひたすら足を狙って蹴り続ける猪木氏。「究極のガチンコ勝負」は結局ドローで終わったが、素人目にその「絵面」はあまりに退屈で、世間には「世紀の大凡戦」と酷評されてしまった。当時、中学生として試合中継を観戦した私にも「つまらない試合」としか映らなかった記憶がある。


 特集ではこのほか、政治家としての活動や事実婚を含めた4回の結婚、金銭トラブルも多かったビジネス面のエピソードなど、総じて「山師」的に見える彼の一生を多角的に描いている。個人的にとくに興味深く読んだのは、スポーツ専門誌『Number』の編集者だったころ、猪木氏を取材したノンフィクション作家・柳澤健氏の回想だ。パキスタンでの「伝説の試合」の実情を現地に飛び掘り下げると、パキスタンの英雄を倒したことで観衆が怒り狂い、暴動になりかけた、という「伝承」は作り話だったと判明したという。「天性のエンターテイナーでもあった」と柳澤氏は柔らかい表現しかしていないが、純粋なスポーツ誌でそんな「アスリート」をどう描くか、悩ましい取材だったことだろう。


 本欄で先週取り上げたノンフィクション作家・佐野眞一氏のほうは、文春にも新潮にも結局、訃報は出なかった。確認できたのは、ノンフィクションライターの安田浩一氏が週刊朝日に書いた文だけだ。若き日に佐野氏のデータマンを務めたこともある安田氏は、橋下徹氏の抗議による連載打ち切りとその後の「盗用問題」の発覚で暗転したこの「大作家」の人生に嘆息し、「佐野さんは身をもって、書き手としてしてはいけないことをも教えてくれた」とまとめている。何ともやるせない追悼文だった。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。