●取り除く、付け加える、ばかり


 今回のシリーズでは、タイトルに沿った粗目のコンテンツとして、第一に「民主主義体制下での行動制限、人流制限、コロナ時代前半の対応から学ぶことは何か」を挙げた。新型コロナウイルス感染症で、戦時体制ともいうべき時間がすでに3年に喃々とするとき、日本国民はすでに前回指摘したように「倦み」の季節に入った。1945年以前の全体主義国家では通用したかもしれないが、情報化時代では「戦時体制」はもはや限界だ。


 ただし、コロナ感染者数は全数管理が不必要になったとはいえ、また、多少の減少傾向が見えるとはいえ、毎日の全国報告数は未だに1万人を超えている。2年前ならメディアが大騒ぎする報告数だ。致死率や高齢者の感染防衛に対する認識が深まったことなどもあるのかもしれないが、今やインフルエンザとあまり変わらない印象に移行しつつある状況を感じる。たぶん、感染症法での位置づけが変更される時期は近い。


 政府の政策も、2019年以前に戻す方向が明確にされた。総理大臣が、屋外でのマスク外しを求めているのがその象徴だが、10月半ばの現段階では、屋外でのマスク外しが市民に浸透している形跡はない。同調圧力社会のこの国では、誰かが外し始め、それが一定数に達したら一気に外すことになるだろうことは容易に想像できるが、それまでには市民間のトラブルもニュースになるだろう。浅慮なメディアにはおいしい季節の到来だ。


 経済政策も異常な速さで進む円安の圧力もあるのかもしれないが、政府施策も10月半ばになって、一気に具体的な進展が始まった。


 海外からの個人旅行の解禁と、全国旅行支援が11日から始まったのが、その典型といえるだろう。メディアの報道をみると、前者では、アジアへの旅行プランを急遽日本に変更したというファミリーへのインタビューが数多くみられたし、韓国や台湾、香港では日本の水際対策の緩和が伝えられるやいなや、現地旅行会社は予約殺到でパニック状態だといわれる。まして、「全国旅行支援」に対する、日本市民の待望は大きなものがあるようだ。


●賃金上がっても人手不足の米、賃金上げずに人手不足を嘆く日本


 ところが、こうしたいわば「戦時体制」の緩和が続くなかで、世界市場には19年以前に戻れない現象が起こっていることも、いくつか具体的な報道が増え始めている。グローバルな経済構造が分極化するなかで、状況としては非常に似たもので、各国の経済政策担当者には想像を超えたものとして戸惑いが広がり始めている。人手不足だ。



 この原稿の筆者としては残念な思いがするのは、この人手不足、まだ明晰な原因や理由や根拠についての分析を見つけられない。メディアの現場実況的な報道は、単発でまとまりがなく、どこかバイアスがかかっているものも多い。


 ただ、日本と米国での比較では、非常にわかりやすい構図を見せつけられているのも事実だ。どちらも人は足りない。日本では、全国旅行支援の概要が発表されたとたんに、関連業界(旅館、ホテル、バス、タクシー、ガイド)の人材不足が露わになった。筆者が見たテレビ報道番組では、旅館の経営者が「予約は殺到するが働き手がいない。対応できるのはキャパシティの4割程度」だと語り、タクシー運転手は「コロナでかなりの人たちが辞めた。その人たちが戻ってこない」と言っていた。厳しい時短営業から開放されたはずの飲食店も人手不足は深刻だという。


 しかし、日本のメディアは「人が少ない」「コロナで去った人材が戻らない」ところで、思考停止に陥り、それ以上の追及はしない。なぜ人手が戻らないのか、結論から先に言えば、「彼らが戻ってくるだけの十分な待遇改善はできるのか」程度の問いかけすらしないのだ。すでにメディアの彼らは長いものに巻かれており、どうやらその住み心地はとてもいいらしい。


 アメリカでもテレビや新聞報道で、人手不足に悩む飲食店経営者たちの声が拾われていた。ニューヨークの日本料理店の経営者は「求人広告を出しても、1本の電話もかかってこない」と諦観したような表情をみせた。ニューヨークの街並みをカメラがパーンすると、求人募集の張り紙がビルというビルの壁面、ショーウィンドウに貼られている。これにもほぼすべての報道が、そこから先は思考停止になる。物価高だが賃金も上がるサイクルが生まれていることは報道するが、その原因もよくわからない。なにしろ、「消えた働き手」が現在、どこへ行き何をしているのかにさえ、メディアは関心がない。


 働く人がいないという構図は日米で同じでも、経済のバックグラウンドは大きく違う。米国はコロナで失われた人材確保のために大きな投資をしたが、それによって賃金が上がり物価高が生じ、それを抑制するために金利を上げ、それがドル高を生んでさらに物価が上がるという循環がある。それに対し、日本では円安下で、インバウンド需要が見込めるのに、コロナが怖くて政策は後手を踏み、円安下では人件費を上げるモチベーションは生まれず、雇用の拡大にも及び腰になる。メディアは国の行く末に関心を持たないまま、戦争や宗教団体問題、コロナの新しい株の動向などに話題を転換し時間を費消する。


 米国での「悪循環」は物価高騰→賃金上昇→金利引き上げ→物価高騰であり、同じ現象としての「人出不足」でも、日本ではその過程での「賃金引上げ」が含まれていない。それなのに、結果としての現象「人手不足」が日米同時に起こっているとでも言いたげな誘導の無意味さ。経済構造の違いに目を向け、対処方針がまったく異なるのに、政府は分析力も決断力も失い、賃金引上げとそれによって起こる“副反応”への関心も当然ない。そのいい例が、有力な働き手の主婦パートのいわゆる130万円の壁には手を付けないことだ。


●忘却の時代


 こうした何かを分析し、追求し、議論をする風土を日本のメディアは失っている。コロナからの経済再生を模索するなかでも、まったく何かを忘れているのだ。それは日本全体を覆う本質的な「何か」だ。


 哲学者の東浩紀は『一冊の本』9月号で、「忘却への抵抗は、かくして忘却に飲み込まれた」と語っている。批判が溢れる、議論が必要だ、忘れてはならないと誰もが言うが、その全体はあっという間に忘れ去られ、同じ光景が反復されるという。「国全体がダメになるとは、きっとこのようなことなのだろう」と哲学者は思う。政治は嘘をつくことに平気になり、言葉自体が信用されないので、実は政治の主体は言葉を失いかけている。コロナが加速させた日本の「歪」は、発信という作業にも大きな負荷をかけ始めている。再びマスクをして黙してはならない。


●何か大きな問題Xの存在


 コロナの3年に及ぶ展開は、言論、発信、労働、市場経済などの不快さを伴う質の劣化と拡大につながっている。社会学者の大澤真幸は『一冊の本』10月号で、統一教会問題に語るべき論点、例えばオウム真理教問題で炙り出された日本人のニヒリズムの問題のようなものがあるかといえば、ないと結論を述べている。彼は現代の日本社会には、根本的問題が山積し、統一教会問題は氷山の一角で、問題の一部が僅かに露呈したにすぎないという。


 私たちはこうした分析と発信を大事にしなければならない。大澤は、問題となるもの、解決すべきイシューは多岐にわたることを問いながら、政治家と統一教会の縁が切れたら日本の政治は大幅に改善されるとは、日本国民は誰も思っていないという。国民は政治に深いフラストレーションを抱えており、統一教会問題はそのフラストレーションが存在するインデックスのようなものだ、と。


 コロナも感染抑止と規制緩和の諸々も、そうしたイシューのひとつであろう。インバウンド効果再びと燥げば、ひとつの問題が解決したわけではない。国民は「何か大きな問題X」(大澤)の存在を嗅ぎつけている。このXを表現すること、表現する言葉を見つけ発信すること、その重要性を学んでいく必要がある。コロナの時代の3年間はその輪郭をさらにぼやけさせた。丸まったものに、何かを付け加えたり、何かを取り除いたりすることで軽率な解決を図らず、丸まったもの、そのものを語っていく必然に迫られている。


 次回はこうした観点を意識しつつ、コロナで顕在化した働き方、エッセンシャルワーカーとブルシット・ジョブについていくつかの発信を拾ってみよう。(幸)