(1)俳諧とは


 後世の誰かが、上島鬼貫(1661~1738)を「東の芭蕉、西の鬼貫」とヨイショした。でも、一般平均的現代人は、芭蕉(1644~1694)は知っている。でも、「オニツラ、知らない、聞いたことがない」という反応になると思う。後世の誰か、誰かわからない誰かが、「東の芭蕉、西の鬼貫」と称えたので、その言葉だけが、流行ったみたい。上島鬼貫(うえしま・おにつら)を、若干でも知っている人は、かなり「俳諧」に詳しい人と言える。なお、「俳句」の用語は、明治になってからです。それでは、「俳諧」って、何だろう~?


 まずは、「和歌」とは何か。


 えー、そもそも、「和歌」をどう読むか。音読が「わか」で、訓読が「やまとうた」である。「和歌」は、「漢詩」に対しての言葉である。「和歌」の最も広義の説明は、日本語の短い詩の総称である。古代の和歌のなかの種類としては、次のものがある。


「長歌」は、「5・7、5・7、5・7、……5・7、7」で、『万葉集』には多いが、それ以後は少ない。


「短歌」は、「5・7、5・7、7」で、これが各時代を通じて最も流行した。だから、「短歌」イコール「和歌」と表現されることも、しばしばである。


「旋頭歌」(せどうか)は、「5・7・7、5・7・7」で、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』にみられるが、それ以降は非常に少ない。


 これ以外には、「片歌」(かたうた)は、「5・7・7」で、「旋頭歌」の半分である。古代にチラホラ見られる。


 さらには、「仏足跡歌」(仏足石歌)というのもあり、これは「5・7・5・7・7・7」である。これは、釈迦の足跡(あしあと)を礼拝するための和歌のようである。奈良の薬師寺に、奈良時代の「仏足跡歌碑」があり、それに21首が書かれてある。


 次に「俳諧」とは何か。


『古今和歌集』の「巻19雑体」は、歌番号1001~1068である。


 その1001の詞書(ことばがき)は「短歌」と書かれている。でも、1001は短歌ではなく長歌である。撰者の単純な間違いなのか。それとも、「アホかいな、短歌じゃなくて長歌じゃないの、バカじゃないの、アッハハ」と思わせたいのか。

なお、詞書とは、和歌の前に置かれ、歌の題や歌を詠んだ理由などを述べたものである。


 1002と1003の詞書は「長歌」となっている。


 1004は、1003の反歌。


 1005と1006は、長歌。


 1007~1010の詞書は「旋頭歌」と記されている。


 そして、1011~1068の58首の詞書は「俳諧歌」と書かれてある。「俳諧」とは「滑稽」の意味で、「俳諧歌」とは、おしゃれな感覚を離れて、「滑稽な歌」という意味である。「滑稽」のなかには禁止用語・低俗用語の使用もあった。食べ物や糞(くそ)は使用禁止用語である。ただし、現代人が読むと、どこがどう滑稽なのか、さっぱりわからない。わからないから、じっくり読んで、じっくり考えこんでいたら、疲れてしまった。たぶん、こんなことで、滑稽なんだろう~、当時の人はゲラゲラ大笑いしたのだろう、と推理はするものの、まったく自信なしである。よって、解説省略。いつの日か、現代人用の解説を見つけて、大笑いしたいものだ。


 ついでに推理。『古今和歌集』は全20巻である。巻18の終わりで、ちょうど1000首である。ということは、巻19と巻20は、付録、おまけ、ということではなかろうか。


 くどくど書いたが、要するに、『古今和歌集』の時代の「俳諧」とは、「滑稽」「低俗」ということらしいのだ。


 次に「連歌」(れんが)の説明を。


 奈良・平安時代の頃、短歌の「5・7・5・7・7」を分解して、「5・7・5」(上の句、発句)と「7・7」(下の句、脇句)を別人が詠むことが流行り始めた。最初は、「5・7・5」プラス「7・7」だけの「短連歌」だったが、次第に複数人で、長く連ねて詠む「長連歌」が主流となった。そして室町時代は連歌(長連歌)の最盛期となった。連歌も、おしゃれで上品な「通常の連歌」と、滑稽・低俗な「俳諧連歌」に分かれていった。戦国時代には、「俳諧連歌」が流行し始めた。


「俳諧連歌」の撰集としては、『竹馬狂吟集』(撰者未詳、1499年)と『新撰犬筑波集』(撰者・山崎宗鑑、1524年以降に成立)が有名なので、パラパラ読んでみたが、決して、低俗・卑俗ではない。貴族中心の「通常の連歌」の立場からすれば、形式逸脱、伝統無視ということなのだろう。『新撰犬筑波集』の「犬」は、「通常の連歌」からすれば、「俳諧連歌」は「犬」に等しいとバカにしていたことを、あえて『新撰犬筑波集』と居直ったのだろう。


 江戸時代になると、かなりの教養・知識量を前提とする「通常の連歌」よりも、「俳諧連歌」に人気が集まった。「俳諧連歌」は「連句」と呼ばれるようになった。また、俳諧連歌(連句)の最初の「5・7・5」すなわち「発句」を単独で楽しむようになった。


 最初、京都の松永貞徳(1571~1654)が脚光を浴び、貞門派俳諧は大グループとなった。松永貞徳は、滑稽・低俗な「俳諧歌」「俳諧連歌」は、あくまでも、まっとうな短歌・連歌の入門編として認めていたに過ぎなかったが、庶民は松永貞徳の意向と関係なく、「俳諧連歌」と「俳諧」(発句)を楽しんだ。


 次に、西山宗因(1605~1682)は大坂を中心に、形式・用語に囚われない、いわば、何でもあり、の宗因俳諧が大ブームとなり、談林派を形成し、貞門派を圧倒した。


 そして、松尾芭蕉の登場となる。若い頃は、西山宗因の弟子で談林派の影響を受けていたが、やがて、画期的な高い芸術性をもつ蕉風の俳諧を打ち立てた。


 和歌は、紀貫之が撰者の『古今和歌集』が、1000年にわたって、圧倒的に影響を持ち続けていた。松尾芭蕉は、それに対抗した。『古今和歌集』の前文は「仮名序」というが、その最初の文章は、次のものである。

 

 やまとうたは、人の心を種(たね)として、万(よろづ)の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁(しげ)きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯(うぐひす)、水に住む蛙(かはづ)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。


 何度読んでも、まったく名文ですね。感心しつつも、「花に鳴く鶯(うぐひす)、水に住む蛙(かはづ)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」で気づいてほしいことがある。この文章に、芭蕉は、みごとに紀貫之に応じたのである。


「鶯や 餅(もち)に糞(くそ)する 縁の先」(芭蕉49歳の作)

「古池や 蛙飛びこむ 水の音」(芭蕉42歳の作)


 まっとうな和歌の世界では、食べ物、糞は、『古今和歌集』以後、事実上、使用禁止用語であった。しかし、俳諧の世界では、OKである。紀貫之は「花に鳴く鶯」であるが、芭蕉は「餅に糞する鶯」である。


 紀貫之は「蛙の声」を聞いたが、芭蕉は「飛びこむ音」を聞いた。


 私には、芭蕉が心の中で、「どんなもんじゃ、紀貫之さん、これが俳諧じゃ、フッフフ……」とニンマリしているような気がする。


 なお、『古今和歌集』以前の『万葉集』では、「食べ物タブー」はなかったので、食べ物の和歌が、それなりに存在している。


(2)遊び大好きのお坊ちゃま


 まず、上島鬼貫の名前について。


 直観的に、紀貫之の「貫之」をもじった名前だと思った。たぶん、この直観は正しい。和歌の第一人者、スーパ―権威者、貫之を超えてやる、そんな意気込みなのだろう。正統派まっとうな和歌の貫之から、大きく逸脱して、我こそは俳諧の大権威者になってやる……そんな意気込みで、「鬼貫」と名乗ったのだろう。


 芭蕉は、前述のように、2つ俳諧作品で、黙って紀貫之を乗り越えようとした。ところが、上島鬼貫は、作品ではなく、「鬼貫」を名乗ることでアピールした。作品そのものではなく、宣伝キャッチコピーを重んじたという感じである。後述するが、上島鬼貫は、あからさまな自己顕示欲が強いようだ。


 ついでに、松尾芭蕉と上島鬼貫の生没を比較すると、


 松尾芭蕉(1644~1694)

 上島鬼貫(1661~1738)


 であるから、鬼貫は芭蕉よりも17歳若い。つまり、芭蕉は先輩、鬼貫は後輩に当たる。


 上島鬼貫は、1661年、摂津国伊丹の酒造家の三男(長男が早世したので事実上は次男)に生まれた。伊丹(現在の兵庫県伊丹市)は、元禄年間(1688~1704)においては酒造業の最大拠点であった。灘(六甲山脈と瀬戸内海の間の東部)の酒造業が台頭するのは、享保年間(1716~1736)以後である。


 とにかく、上島鬼貫が活躍した頃は、伊丹は最大の酒造業の地で、その地の酒造業者は、すごい大金持ちである。大金持ちの三男(事実上は次男)だから、金に不自由がない。俳諧のみならず、あらゆる芸事、当然に遊興も、何でもしたお坊ちゃまである。金に苦労した芭蕉とは大違いである。


 お坊ちゃまは少年の頃から、俳諧を作っていたようだ。とはいっても、子供が指を折りつつ、5・7・5と言葉を並べて遊んでいるレベルだったようだ。お坊ちゃまの最初の俳諧の師匠は、松永貞徳の貞門派の松江維舟(1602~1680)である。ただし、松江維舟は、後に松永貞徳から離れた。1673年、お坊ちゃま12歳のとき、松江維舟が伊丹に来たので、すかさず入門したようだ。


 松江維舟は、弟子の池田宗旦(1636~1693)を連れてきた。宗旦は無類の酒好きで、伊丹の酒に惚れこんで、そのまま伊丹に住み続けた。「伊丹の酒けさ飲みたい」(俳諧ではなく回文。上から読んでも下から読んでも同じ)ということで、宗旦は私塾「也雲軒」(やうんけん)を開いた。そして、也雲軒には、上島鬼貫はじめ、伊丹のお金持ちお坊ちゃまが集まり、俳諧で遊んでいた。お坊ちゃまたちは、お金があるから、次々に俳諧の本を自費出版して喜んでいた。


 かくして、「伊丹風俳諧」がつくられた。「笑い」をとる言葉遊びが多いようだ。そのため、上島鬼貫は年齢を重ねるとともに、飽き足らぬ気分になっていった。


(3)武士になりたい


 上島鬼貫の父親は、遊興・芸事に夢中、商売に無関心の我が子の性質を見抜いていた。だから、商人の道をはなから諦めていた。本人も、お金を使うことは達者でも、商人は自分に向かないと自覚していたのだろう。プロの俳諧師になる気分もない。俳諧は、あくまでも余技・趣味と思っていたのだろう。それで、医師になって武家へ仕官しようと思い立った。


 25歳のとき(1685年)、大坂へ出て、医術を学び、仕官のチャンスを探った。


 26歳のとき、丹波国園部の小出家への仕官の話が持ち上がった。手違いがあって、仕官できず。そして、鬼貫は怒って、仕官斡旋をしていた人物に対して「(小出家の)玄関にて直ちに切腹して、武士の一分を立てる」と脅すのであった。玄関先で切腹でもされたら、仕官斡旋に関わった関係者は切腹、家老も切腹、悪くすると、お家取り潰しである。結果は、別の仕官先を探す、関係者のひとりは辞職し、その生活は鬼貫の実家が面倒をみる、となった。鬼貫が強気に出られるのは、実家の財力があるからである。


 思い出すのは、井原西鶴(1642~1693)の『日本永代蔵』(1688年刊行)の一節「ひそかに思うに、この世の望みで、金でかなわぬことは生命だけで、これ以外にはなし」である。鬼貫には、間違いなく、これと同じ感覚があったに違いない。


 その後、いくつかの藩に仕官しては止めるのであった。理由は、鬼貫が望むのが300石以上の格式ある武士であるが、なれたのは30人扶持といった下級武士であったからである。それから、鬼貫は、計3回、「切腹するぞ」と恐喝まがいのことをしている。本人は「格好がいい!」と思っていたのだろうが、どうも、自己顕示欲が強すぎるためかな~、と思ってしまう。


 さて、30歳のとき(1690年)、『大悟物狂』が刊行された。そのなかに、上島鬼貫の代表作とされる富士山の姿を詠んだ句がある。


「にょつぽりと 秋の空なる 不尽(ふじ)の山」


 従来は、笑いをとる言葉遊びが中心だったが、この句には、それがなくなっている。上島鬼貫の句づくりが変化したのだ。もっとも、言葉遊びの句もあるが、少なくなっていった。『大悟物狂』の書名の件で一言。たぶん、上島鬼貫は、人間の知識以上の何かを悟ったのであるが、悟った何かを信じきれない。だから、「悟」ではあるが「狂」と告白している、私には、そう思える。


 上島鬼貫は『独(ひとり)ごと』(58歳のときに刊行)のなかで、「貞享2年(25歳)の春、まことの外に俳諧なし」と悟ったと書いてある。58歳のとき、若い頃を思い出して、書いたのだが、「まことなるもの」の存在を知るには知ったが、信じきれない時期と考えるべきだろう。句づくりで言えば、「言葉遊びを消して、まことの句」と「言葉遊びの句」が並立している時期と言える。


 30歳のとき、前述の『大悟物狂』に次いで『犬居士』が刊行された。この本の後半は、「禁足の旅記」という奇妙なものである。松尾芭蕉が東北方面の旅をしながら紀行文を書いている、という話を聞いた。そしたら、上島鬼貫は、実際の旅をしなくても紀行文なんてものは書けると言って、想像の紀行文を書いたのだ。「まこと」がない想像の紀行文は、当然、低い評価である。なお、上島鬼貫は、想像の紀行文だけでなく、なにかにつけて芭蕉を意識して対抗を試みているようだ。


 32歳のとき(1962年)、この頃は大和国郡山藩に仕官していた。鬼貫の家来2人が刀をふるっての喧嘩を始めた。鬼貫が止めようとしたら、片方が鬼貫に切りかかろうとした。鬼貫は、一刀のもとに手討ちとした。奉行所に届けたら、褒められた、ということだ。


 郡山藩の仕官も長続きしなかった。越前国大野藩に仕官し、58歳(1718年)で、退任する。鬼貫は、なんとか300石以上の格式ある武士になろうとしたが、結局は、下っ端の下級武士にしかなれなかった。また、武士としての実績もなかった。ただ、余技としての俳諧は継続していた。


(4)その後


 58歳で、武士への志も諦めた。大坂へ移り住んで、俳諧の世界にひたるわけだが、その年、歌人・国学者の有賀長伯(1661~1737)から、『古今和歌集』巻19の俳諧歌のいわゆる「古今伝授」を受けている。秘伝なので、何が伝授されたのかわからないが、伝授の後、有賀長伯から「伝授で心得たことを発句で表現してください」と言われて、詠んだ句。


「谷水や 石も歌よむ 山桜」


 古今伝授の内容だが、鬼貫のメモ書きから推理すると、「物を言わぬものも、物を言うようにいひなし、あるは、かたちなき物をも、かたちあるように仕立る事、皆俳諧也」ということらしい。


 したがって、鬼貫が詠んだ「谷水や 石も歌よむ 山桜」に対して、有賀長伯は「完璧だ」と応えた。


 同じく58歳のとき、『独(ひとり)ごと』が刊行された。鬼貫の書籍で最も読まれ、かつ、注目されているものである。ポイントは「まこと」である。「まこと」とは何か。どうも、常識とか平凡といったもののようだ。芭蕉のように、画期的、芸術的な句を詠まなくたっていいじゃないか……そんな声が聞こえてくる。


 78歳(1738年)で死去。辞世の句は


「夢返せ 鳥の覚ます 霧の月」


 お月さん、私の夢を返して、ということだが、どんな夢なのかな……。武士になりたかったことかな……、芭蕉のような俳諧師になりたかったのかな……、悟ったような悟っていないような、なんかスッキリしないな……、早世した我が子よ……。


 最後に、私が好きな句をいくつか。


 「うぐいすの 鳴けば何やら なつかしう」

 「鵜(う)とともに こころは水を くぐり行く」

 「行水の 捨て所なき 虫の声」

 「おもしろさ 急には見えぬ すすきかな」

 「水よりも 氷の月は うるみけり」


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。