●「ソフト・ロックダウン」の武器――同調圧力


 前回、今シリーズ4回目からは、コロナで顕在化した働き方、エッセンシャルワーカーとブルシット・ジョブについていくつかの発信を拾ってみると「予告」した。その前提として社会学者の大澤真幸が、日本社会はいくつかの異なる「問題」を抱えているが(例えばコロナ対策以外にも、統一教会問題、円安、物価高騰など)、国民は政治に深いフラストレーションを抱えており、「何か大きな問題X」(大澤)の存在を嗅ぎつけている、と発信している。


 それについて触発される形で、日本人のコロナ下での生き方に関する戸惑いや、深い闇のような、迷宮に入り込んでさまよっている様子を観察してみたいと思う。つまり「何か大きな問題X」とは何か。


 そこを探る意味で、エッセンシャルワーカーとブルシット・ジョブのテーマの前に、今回は、「コロナ下での生き方や仕事」に関する、いくつかの発信を拾ってみたい。


 まず取り上げるのは小説だ。9月に上梓された大島満寿美の『たとえば、葡萄』。ストーリーはネタバレになるので詳細は省きたいが、主人公は20代後半の女性。2019年の暮れに、唐突に大手企業を辞め、無職にはなったが2020年は何とかいい年にしようと、とりあえず決意していたときに新型コロナ感染症のパンデミックが始まる。それから、翌年(2021年)の1年延期となった東京オリンピック直前までの、主人公の試行錯誤と、それに付随する不安や懊悩、人間関係が、多くをトレンディーな軽めの言葉の羅列による独白を主に描かれている(率直に吐露すると、最近の若い女性の感性を大事にしたアップテンポのモノローグは、年齢的に隔たりのある読者の私には違和感は強かったことは断っておきたい)。


 主人公を取り巻く人々もほとんどが独身の女性で、それも自立し、またフリーランスである。主人公の女性の母親世代の女性たちと同世代の友人。親友は、コロナの前に思い付きで辞めたような主人公とは違い、コロナになって体よくリストラされた組だ。


 母親世代の女性のひとりは、フリーのライターだが、仕事は自分史などの自費出版希望者のゴーストライターがメイン。彼女は、雑誌関連などのポップな仕事をメインにしてきたが、徐々にゴーストライター主軸へ切り替えている自分の仕事を苦にはしていない。こうした人物像のなかに、これまであったようなステレオタイプの職業像がしなやかに壊されている。微かにだが、「ブルシット・ジョブからエッセンシャルワーカーへ」の移転が起き始めていることが知らされるのだが、その彼女の仕事もコロナによって、長時間の取材が阻害されるようになり、保留や延期になり始める。


 彼女たちは、マスク不足に日本中が騒ぎになっていた頃(たぶん20年3月)、「梅雨がきて猛暑が来ればウイルスは死滅する」と楽観論を語り合うが、悲観論も忘れないし、実は不安のほうが大きい。緊急事態宣言が出される直前頃になると主人公はスマホを使って親友に連絡したい、会いたいと思って躊躇する。


「コロナだしね、誘っていいものか迷うしね、コロナだしね。コロナだし、コロナだし、コロナだし。って、あれ。コロナが踏み絵みたいになってる? いや、コロナが言い訳みたいになってる?」


 凄まじい日本社会の同調圧力のなかで、友人との連絡にも大いに悩み、そしてその直後、ついに緊急事態宣言が出されるのである。


●「私的制裁」に通じる同調圧力


 このコラムの筆者の私は、「何か大きな問題X」のXを「同調圧力」と仮定してみる。京都大学大学院の倫理学教授、児玉聡は7月に出した連続講義集『COVID-19の倫理学』で、法哲学者、井上達夫の専門誌巻頭言の言葉をかみ砕いて紹介している。


「特措法(新型インフルエンザ対策等特別措置法)の下では、政府・自治体は移動制限や営業制限に関して、罰則も伴う法的強制力のある規制ができない建前になっており、それに代えて、『要請』という名の『お説教』で同調圧力を人々にかける。特措法が、移動・営業等に関して政府・自治体に授権している要請や指示は、インフォーマルな事実上の圧力を加える行為に過ぎず、法的強制力のある規制ではない」


 児玉は加えて、井上は「そして、このような法的強制力を持たせずに『インフォーマルな事実上の圧力を加える』という規制のあり方は、『正統性のある公権力と、正統性なきインフォーマルな権力=事実上の政治的・社会的圧力を峻別することにより、正統な公権力を創出する』という方の支配の考え方に反していると」と解説している。


 言うなれば、日本における「特措法に基づくロックダウン」は、法に基づく正当な手続きを経たうえでの罰則を伴う公権力に対して、「恣意性の大きい私的制裁のような社会的圧力」ということになる。私が気持ち悪く感じる同調圧力の本質を見事に言い換えた表現だと思う。


「私的制裁」という言い換えは過激ではあるが、ニュアンスという点では正確ではないかと私には思える。確かに、特措法に基づく「ソフト・ロックダウン」は、政府に法的な権力を与えて規制を乱用する危険を避けるには、耳には優しい。しかし、休業補償などのインセンティブを与えながら、「日本人の同調圧力追従性」(井上)を利用するといった表現を使うと、ソフト・ロックダウンの暗い深さにも気づかされる。


 この「ソフト・ロックダウン」について、宣言が出されたばかりの時点で『たとえば、葡萄』の主人公はこう独白する。


「こんなふうに半ば強制的に引きこもらざるをえない状況になってみると、すべてが均等で一つ一つの重みも同じように感じられてくるからふしぎだった。わたしの問題も世界のあちこちの問題も地球そのものの問題もみんな均等でひとつながりになってる気がしてならない。そんなことないんだろうか」


 作家が意図したこのモノローグの狙いは、私には正確にはわからない。しかし、「すべてが均等で一つ一つの重みも同じように感じられてくる」のは、日本人が陥っている一種のマインドコントロールを象徴しているような印象が伝わる。


●コロナに蹴り倒される


 一方で、小説の主人公はコロナ前の決断によって、「コロナの時代」を迎え、没入させられているわけだが、その友人は、早期退職という体のいいリストラにあったことを、「コロナ、コロナに背中を押された? ちがうか。コロナに蹴り倒されてうっかり外へ出てきてしまった?って感じ」を主人公に伝える。若い人たちの生きづらさのなかで、さらにコロナがそれに輪をかけたことが伝わる。まさに若い人はコロナに蹴り倒されている。


 そうやって考えてくると、どうも「ソフト・ロックダウン」の嫌な側面がにじみ出てくる。罰則ではなく、お説教で蹴り倒される理不尽さは、説明のしようがあまりない。蹴り倒すほうは、「皆さん、同じだから、我慢しているんだから」ってたぶん言い通す。


 ただ、小説の登場人物たちは、話し合い、自立を模索しながら、みんなが同じわけではない、同じ思いを抱いて生きているわけではない、と思っている。どうやったらこの窮地から這い出すかを、それぞれに自らで考え、今風の軽い言葉で励まし合いながら、模索していく。


 このシリーズのテーマとは微妙にずれるが、この物語が、コロナに翻弄されながら、若い人たちが長野や山梨という地域に拡散して、生き方を探っていくところは非常に示唆的で、コロナ以後の世界の新天地を暗示している。


 東京でなければ働けない、という若い人へのステレオタイプの考え方からの解放も促していることを私は読み取った。コロナに蹴り倒されるのではなく、コロナから「はみだす」ことで人はリスタートできる。決してお説教に追従してはならないのだ。(幸)