●エンターテイメントの“反逆”への期待
社会学者の大澤真幸が、日本社会はいくつかの異なる「問題」を抱えているが(例えばコロナ対策以外にも、統一教会問題、円安、物価高騰など)、国民は政治に深いフラストレーションを抱えており、「何か大きな問題X」(大澤)の存在を嗅ぎつけている、と発信していることに触発される形で前回、日本人のコロナ下での生き方に関する戸惑いや、深い闇のような、迷宮に入り込んでさまよっている様子を、小説から観察してみた。
テーマは「何か大きな問題X」とは何かを探ることだが、大島満寿美の『たとえば、葡萄』では、ごく一般的な市民たちである登場人物たちが、何とか(政府の一連の愚策に)対応しながら生きていくのだが、若い人には「コロナに蹴り倒された」という認識をきっちりと語らせ、「これから始まる人生」が蹴り倒されてはみ出さざるを得ない状況への反感も、リズム感ある文章で表現し、読者を一定の解放感に浸らせている。
一方で、「問題X」は、実は「同調圧力」ではないかという仮定を、このコラムの筆者の私はおいてみた。いわゆる「ソフト・ロックダウン」という手法をとった日本政府は、それがゆえに政策的には迷走状態の印象を残したままである。あのダイヤモンド・プリンセス以後もずっと。
そうした仮定のヒントは、倫理学者の児玉聡の連続講義集『COVID-19の倫理学』のなかで、「恣意性の大きい私的制裁のような社会的圧力」からインスパイアされている。『たとえば、葡萄』でも、主人公の若い女性は親友と会いたいと思いながら、「コロナだしね、誘っていいものか迷うしね、コロナだしね。コロナだし、コロナだし、コロナだし。って、あれ。コロナが踏み絵みたいになってる? いや、コロナが言い訳みたいになってる?」と躊躇するが、これも同調圧力によって「私的制裁」を受ける可能性をメタファーにしていると、私には思える。「踏み絵」の被虐感を武器に、自らに言い訳を強いる。
「問題X」を解くのは私の責ではないし、その任でもない。しかし、Xを「同調圧力」としてみると、どこかその遠い先にあるものが見えてくる。それは政策のいい加減さ、繰り返しになるが、「迷走」を恥としない夜郎自大な政治的暴力(私的制裁を促す暴力)にも見えてくるのである。
もうひとつ付け加えておきたいのは、京大教授の山中伸弥がコロナで日本人の感染数や死亡数が低い理由に関して、「ファクターX」があるのかもしれないと語ったことは、「問題X」にうまく取り込まれてしまった疑いがあることだ。科学者が「まだつかみきれない」と語った、そうした原因について、何か日本人には特別な能力でもあるような印象に使われた気配を感じるのだ。クール・ジャパンの発想に同化しそうな印象は、コロナの政策不在・迷走の政権の「何もしない」ことのお墨付きとなっている。嫌な気配。
●PCR検査抑制論を語った人たち
国の政策が同調圧力に頼らざるを得ないのは、なぜなのか。そこで、Xのもともとの課題が、この国の政治的体制そのものの劣化にあるのではないかという仮定が出てくる。2012年以降の日本の政治体制を、著書のタイトル『長期腐敗体制』(6月上梓)と表現するのは政治学者の白井聡だが、彼は選挙で負けない自民党の堕落と腐敗ぶり、アベノミクスの結果として日本が後進国に滑り落ちそうになっている様を語りながら、コロナ対策の「無策ぶり」の象徴として、パンデミック初期の「PCR検査論争」を挙げている。
白井はPCR検査の抑制論と拡大の論戦を、「感染症対策の原則は『検査と隔離』であるわけですが、検査により感染者を発見しなければ隔離もできるはずがない。PCR検査の抑制は、日本におけるコロナ対策を原理原則の次元で出鱈目なものにしてしまった」と語る。
当然と言えば当然だが、この論争が起きていたとき、メディアもどちらかといえば「抑制論」に重きを置いていたフシがあった。「どうしてPCR検査を拡大しないのだ」と大声で叫んでいたワイドショーのコメンテーターが、結局ヒール役となり、今では番組から姿を消している。
白井はこうした状況を振り返りつつ、当時、感染症に関する専門知識がないにもかかわらず、医療者あるいは医療専門家という肩書で、政府のPCR検査抑制論を擁護した人たちがいたことを指摘しながら、こう語っている。「専門知識に基づいて世論を善導したいという動機もなく、曲論を弄することから得られる実利もないとすれば、残る動機は、大きなもの(国家権力)との自己同一化を通じて、大きなものに反対する者たち(PCR検査推進論者)を貶めたいという欲望を満足させることだけです」。
●シェイクスピアの作品からみえるもの
白井は、政府が一貫して取り続けている「ソフト・ロックダウン」にも厳しい目を向けている。飲食店規制に偏っている状況を、「科学的合理性に基づく対策をやっているのではなく、一度非科学的に下された決定を官僚主義的な惰性で引きずっている」と批判する。『たとえば、葡萄』の主人公も、友人に会いに行く行動そのものを躊躇することに「踏み絵」という概念を明確に認識している。非科学的な決定に納得できないが、「踏み絵」は現に存在してしまっているのだ。政府の頼りは「同調圧力」で、それは「大きなもの」に同一化したい連中の加勢を得て「問題X」となっているのかもしれない。
同調圧力を打破できるのは、やはり一般市民、大衆ではないかと思う。白井は、現状の大衆は衆愚的で、腐敗しているとの見方をとるが、それでも私はまだ「踏み絵」を踏んでも、生き残りを選択した「潜伏キリシタン」のような知恵は、日本の大衆に残っているのではないかと考えたい。「同調圧力」のなかでも、「状況に合わせて適宜対応するという、大衆文化の可変性」を語っているのは、英文学者の前沢浩子。
「図書」11月号で、「感染症を生き延びる」と題したエッセイで、前沢はシェイクスピアと大衆演劇を例に、そのしたたかさを語っている。シェイクスピアは17世紀初頭の英国のペスト流行をかいくぐりながら、舞台作家としてのキャリアを全うしたことを紹介しつつ、彼の作品でいわゆる「疫病」が登場するのは『ロミオとジュリエット』だけだったことを明かしている。
その背景には、ペストによって当時の英国の演劇業界が構造的な変化を余儀なくされたこと、彼の作風の変化が劇団運営上の問題から起きているのではないかとの推論を語っている。つまり、当時も「ソフト・ロックダウン」によって、いわゆる「芝居見物」の外出が抑制され、大衆娯楽から文芸性の高いエリート向け戯曲に改革せざるを得なかったのだが、高級志向によって経済的リスクから逃れた知恵を感じるのである。
驚くのは、実は『ロミオとジュリエット』以外の戯曲では「疫病」は背景に描かれないが、その他の戯曲は隠喩として「plague」(災害、パンデミック)という言葉が多用されているという。
「社会につきまとう疫病への恐怖と不安を、日常言語の中で隠喩へと変換し、その表現力の豊かな可能性を発揮してみせる逞しさも、大衆劇作家シェイクスピアの一面だった」と前沢は結んでいるが、私は前回から取り上げている『たとえば、葡萄』のようなエンターテイメントから、同調圧力を忌避する、あるいは否定する水沫が溢れ出してくることを期待してしまう。
一方で、積極的なコロナ対策に対する政策批判もないわけではない。次回以降、エッセンシャルワーカーとブルシット・ジョブの視点に軸を動かしながら、現行の政治の無策を「インパール作戦」に模す介護施設の状況からみていく。(幸)