●色濃くなる「前線」の絶望


 今回からは、コロナ時代について労働の現場に焦点をあて、いくつかの社会的発信を紹介していきたい。


 社会学者の大澤真幸は20年秋に、2013年にデヴッド・グレーバーが発信した小論『ブルシット・ジョブ』の再評価を、雑誌『一冊の本』でもたらした。ブルシット・ジョブは「クソどうでもいい仕事」と訳されている。つまり、コロナ禍でさまざまな困難に直面した「エッセンシャルワーク」の対極にある仕事だ。


 ブルシット・ジョブには2つの定義がある。第1は、雇用されている本人が、「その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償な雇用の形態である」こと。つまり、第三者ではなく、本人が自らの仕事を世の中的には必要がないと断じていなければならない。そして第2に、本人はその仕事が有用で必要であると振る舞わなければならない。


 大澤は、この言葉が、本人の「主観に依存している」ことに着目しなければならないことを何度も念押ししながら、銀行員をモデルにしたテレビドラマ「半沢直樹」を例に、主人公の半沢以外は、人の役に立たない自分だけの利益の追従者でかつ高給取りであるという典型を示し、有言実行の半沢直樹は、「銀行は人の役に立たなければならない」と繰り返すことで、彼の仕事はブルシット・ジョブではないように見えるが、実はそもそもそれは当たり前のことであって、「なぜそんな自明なことが感動的な一言として言われなくてはならないのかというと、実際にはそうした仕事は稀だからである」と喝破している。


 つまり、ドラマ「半沢直樹」はきわめてリアリティのあるドラマなのだが、主人公だけがリアリティがないのである。意地悪く言えば、銀行はエッセンシャルワークの現場ではないのか、ということになる。


 コロナ禍が炙り出したのはこの「リアリティ」だ。労働の現場で、コロナのリスクに直面した、つまりリアルに曝されたのは、ほとんどがエッセンシャルワーカーであり、ブルシット・ジョブに属する人々はほぼ難を逃れた。リモートだ、オンラインだという世界は実はウイルスの棲む世界と隔絶できたか、そのリスクは非常に低かったというのは当然の話。高給取りとデジタルインフラの享受者は、すなわちブルシット・ジョブの世界に相変わらず住み続けることができたのだ。


●まるでインパール作戦


 ある意味、コロナ禍はブルシット・ジョブとエッセンシャルワーカーの輪郭を明確にした点で、グレーバーの説を認知させたのである。自分たちがいなくても、もしかしたら誰も困らないかもしれないということが判明した。


 哲学者の斎藤幸平は、池上彰との雑誌(文藝春秋)での対談で、「今回のコロナ禍で明らかになったのも、実は私たちは洋服もそれほど必要とはしていないし、多くの仕事はテレワークで十分で満員電車に乗る必要もない、ということでした。医療や福祉や小売業界の店員、物流や交通機関、ライフラインに関わる従事者など、生活維持に欠かせないエッセンシャルワーカーの重要性が浮き彫りになる一方で、渋谷のスクランブル交差点の広告が止まっても誰も困りませんでした」と語っている。


 しかし、こうした認識がスタンダードとなる一方で、コロナの時代が継続していてもなおかつ、相変わらずエッセンシャルワーカーの置かれた状況が改善される見通しはない。


 介護福祉士でライターの白崎朝子は、医療ガバナンス学会発行の9月のメールマガジンで、「補給なき前線兵士のごとき、介護現場の実態」というレポートを書き、戦時中の無計画としか言いようのない「インパール作戦」と、クラスター化する介護現場を重ねて見つめる。


 発熱外来のある医療現場や、クラスターが発生した介護現場では、検査キットも医療用手袋も不足しており、医療用手袋は価格が2倍になり、施設の中では手袋の支給を廃止したところもあることを告げる。


 そのうえで、「食料等の補給もなく、餓死や自決した前線兵士たちのように、私の仲間たちもまた、自らの命を守る必要最低限の物資も足らず、戦場のような現場を支えている。そして、前線に兵士たちを取り残し、自分たちはさっさと逃げ出した司令官たち上層部と、政権与党や厚労省や財務官僚、国と結託して利潤だけを追求している大企業幹部たちの厚顔無恥な顔が重なる」と憤る。


 この前線という言葉は、高給取りだが、コロナ禍ではエッセンシャルワーカーの仲間に入る「医師」にも、その認識が強い。


●命を懸けて働くということ


 大阪府内の救急病院勤務医で歌人の犬養楓は30代半ばの若い歌人。コロナ患者の診療にあたる医師としてその思いを短歌で発信をしている。昨年2月に上梓した歌集のタイトルは「前線」だ。19年末から21年1月頃まで、コロナ時系列でいえば第3波の最中までを詠んだ歌が集められている。


 犬養にとって「前線」とは、「新型コロナウイルス感染症に関わる状況においては『最前線で働く』とは『命を懸けて働く』と同義に捉えられている」ようだとの認識を示しつつ、「救急医療の従事者は、もとより目の前の命に『命を懸けて』仕事をしている人間である。(中略)救急医療の現場では『救える』『救えない』不連続面はいつも目の前に存在する」と日々の闘いを語る。


 さらに、「緊急事態宣言が連発され、本来の非日常が日常化していく中で、言葉が持つ力が次第に弱まっていくことを危惧している。しかし映像では伝わらない出来事や、声にならない声を言葉にすることが、現在の第三波まで続く不連続な局面を打開する希望になると信じている」。「前線」に存在する苦衷を詠うことで、希望をつなぐのだ。心を捉えられないわけがない。


 歌集は10のパートに分かれているが、救急医療の「現場」を詠んだ章題から始まり、救急の現場が時間の経過とともに大きなうねりの中に翻弄されていく様子が詠まれている。例えば、「使命感で続けられる強さなく 皆辞めないから辞めないでいる」という歌は、救急医療現場に降って沸いたようなコロナ禍に戸惑い、医療従事者としても漠然とした不安や危機感を感じ取ることができる。また、「変わりゆく街を背にして変わらない信号を待つ影たちの群れ」には、パンデミックによる社会の変容を感じ取りながら、それが自らの仕事に対するデモーニッシュな印象で鳴り響く。


 一方で、医療システムに関する矛盾の告発や、社会への怒りなどもところどころで詠まれている。「求めれば与えられたるこれまでの医療資源を問い直すとき」は強い疑問と憤りが背景に感じられるし、「マスクでも感謝でもなくお金でもないただ普通の日常が欲し」という歌には徒労感が滲む。


●実は誰も考えてはいない


 さて、コロナ禍で露わになってきたエッセンシャルワーカーとブルシット・ジョブという労働観や、階層差別の新たな視点と同時に見え始めたのが、新自由主義批判とマルクスの再評価だ。私にはこの現象は、「リベラル」の復権のような印象がつきまとうのだが、現実はまるで遠い世界だ。


 斎藤美奈子は、雑誌『ちくま』(3月号)でマルクス本ブームを総括して、「コロナ禍は現在の経済システムの脆弱さを暴き出した。資本主義の呪縛からいかに脱却するかが問われている」と述べている。

 

 実は日本におけるブルシット・ジョブとエッセンシャルワークの認識論は、現在の国内経済システムのベースが新自由主義であり、実はそれが当初予想を裏切って、延々と長続きし、ブルシット・ジョブの振る舞いを未だに見続けさせられることになったことに起因していると私は思う。


 コロナ禍でエッセンシャルワーカーの存在は認識されただけで、何のアドバンテージも現段階では与えられていない。物価は上がったが、エッセンシャルワーカーの賃金は上がっていない。物価との相対比では逆に下がっている。斎藤美奈子が言う「資本主義の呪縛からいかに脱却するか」について、実は誰も考えていたりはしないことも徐々にわり始めてきた。ブルシット・ジョブの現場の人手不足は、ますますかつてのインパールの「前線」の絶望に近寄っているのではないか。


 次回からは、ロナ禍で顕在化した「同調圧力」についてのいくつかの発信を拾ってみたい。(幸)