若いころ、海外を数年間放浪してスペイン語、英語、中国語の3ヵ国語を身につけようと大望を抱いたことがある。実際にはそのはるか手前、「そこそこのスペイン語」を学んだだけで挫けてしまったが、最も必要度の高い英語の体得をあっさり諦めた背景には、長年米国に住む知人のひと言で「心が折れた」事情もある。曰く、米国では下手くそな英語話者は、話の内容に関係なく馬鹿にされがちだというのである。


 スペイン語圏の場合、一流のラテン文学者でも大臣クラスの政治家でも、こちらの話す内容にそれなりの「深み」があると感じれば、たどたどしい喋り方でも忍耐強く聞いてくれる。だが、その知人によれば、米国人の大半は、たとえ中身のないスカスカの話しかしなくても、流暢な話者であることが重要と捉え、そうでない人には「知性」や「説得力」を感じないという。


 そんな記憶がふと蘇ったのは、あの2チャンネルの創設者・ひろゆき氏が「論破王」などと持てはやされる風潮が、あのとき聞かされた「一般米国人の感覚」とダブって感じられたからだ。どんなに屁理屈でも強弁でも、反射的な「突っ込み」を返せる話者ならば「議論に強い」と評されてしまう。そんな嘆かわしい傾向が、この日本でも強まっていることからの連想である。


 言うまでもないことだが、議論の優劣は、事実と論理、これに尽きる。だが、ひろゆき氏に見られるのは、ただただ小学生レベルの憎まれ口の「達者さ」である。氏の発言にさほど詳しくはないのだが、私がそれを感じたのは、フランス人サッカー選手による日本人への悪態を、差別的と捉えるか否かで、在仏50年以上の言語学者の見解を否定、「勉強不足」と彼を侮辱したSNS上の議論を見てのことだ。


 もちろん、私自身はフランス語の知識は皆無だが、専門家の丁寧な説明にひろゆき氏はひたすら悪罵で対抗するだけだった。また、元大阪府知事の橋下徹氏が「ナチスに例えるのは国際的にご法度」という根拠なき主張をした際にも、ひろゆき氏は無理筋にこれを擁護。フランスで元大統領をヒトラーに模した巨大看板を出し、侮辱罪に問われたケースがあることを執拗に主張したが、ヒトラー云々という「批判内容」はこの件に無関係、「バカ」「アホ」でも巨大看板による侮辱は法に問われ得る、という解説を頑として理解しようとしなかった(欧米の新聞にヒトラーに例える批判的表現はいくらでも見つかるが、原則それだけでは罪に問われない。ひろゆき氏の出した例は「巨大看板」がポイントだったのだ)。


 今週の週刊文春、能町みね子氏の連載コラム『言葉尻とらえ隊』は、ベネッセの「小学生の流行語ランキング」で、第1位にひろゆき氏の決め台詞「それってあなたの感想ですよね?」が選ばれたことを嘆いている。少なからぬ小学生がこの言葉を「無敵の論破法」と捉えているらしく、「対処する大人はとても腹が立ちそう」との能町氏は懸念する。一方で「流行語」としてこれが脚光を浴びることになれば、「早いうちに廃れる」という明るい展望も抱いている。こうした言い回しもいずれ手垢にまみれることになり、「理屈を超えてダサいこと、『小学生レベルの屁理屈』とされる日はそう遠くないはず(私の予想です)」というのである。そうあってほしいと私も願っている。


………………………………………………………………

三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。