大学病院を担当して3年を超えただろうか。榊田がMRとして7、8年経った頃の出来事である。
朝8時。こんな早朝から各製薬企業のMR達が、だいたい20社以上は居るだろうか、第一外科医局の前の廊下に横列びで立っている。はたからすれば異様な光景ではあるのだが、毎朝の日課となると、いつからか、自分自身の行動を不思議とは思わなくなる。
医局の引き戸が、ガラっと音を立てて、勢いよく開く。中から颯爽と出てきたのは初老の紳士、首都医大第一外科教授で胃がん治療の世界的権威、権藤章である。蓄えた口髭はまるでチャップリン。白衣の袂をたなびかせ、外来棟へ続く渡り廊下を早足で歩く。さきほどから廊下に立っていたMR達全員が、一斉に「教授、おはようございます!」と叫び、後に続く。教授はとりあえず、「おはよう・・・・」とは、返すものの、MRと話までする気配はみじんもない。面倒くさいのもあるが、本当に忙しいからである。まるで、空港で歩く芸能人を、ワイドショーのリポーターが群がって追いかけているような光景だ。
「なんか、すごいっすね、大学病院は。朝早いっすね」
榊田に話しかけてきたのは、最近首都医大を担当したばかりという、東横製薬の谷ヶ崎雄一である。大学病院を担当したとたん、朝5時起きになったそうだ。東横製薬からは3ヶ月後に胃がんの新薬が出るということもあり、会社からプレッシャーがかなりかかっているらしかった。一応雑談っぽいトークを榊田相手にして、他社とコミュニケーションをとろうとしているのだろうが、その笑顔はかなり引きつっている。
「大変ですね。ただね、毎朝こうやって何となく来ているけど、僕なんかほとんど用無しだよ」
榊田が笑いながら谷ヶ崎に返した。確かに、榊田の所属する会社には、もうかれこれ20年前くらいに発売された胃潰瘍関連の薬が一つあるだけである。いまさらその薬の新しい話題も無いのだが、榊田はなんとなく早朝から来ているのであった。
「まあ、古い薬だけど、細々と使ってくれてるからね、一外(いちげ)には、とりあえず朝来ているんだよ」
榊田の受け答えがどこか優しく聞こえたのか、谷ケ崎はホッとした表情を見せた。
★ ★ ★ ★
ランチタイム。病院近くの中華料理店で話しかけてきたのは谷ケ崎である。
「この店にはよく来るんですか」
榊田は、なんとなく暑苦しい気分もしたのだが、軽く受け答えをすると、谷ケ崎が隣に座った。この地で中華料理屋を開いて50年という、マスターが注文をとりにくる。迷っている谷ケ崎に、榊田は名物のパーコー飯を勧めて、谷ケ崎はそれをオーダーした。午後2時半だが、この中華料理店、「北京」は混んでいた。その客の大半は首都医大病院を担当しているMRであった。
「みなさん、ここで食事されて、情報交換とかするんですか」
谷ケ崎が呟く。たしかに、この光景を見れば、全うな疑問かもしれない。20名、いや、それ以上のMRが同じ店で食事をしているのだから・・・。
「いやー、別にそうでもないんだよね。見てよ、誰も話してないだろ」
確かに、20名以上のMRがそれぞれ思い思いの食事をしているのではあるが、会社の書類を見ている人、新聞を読んでいる人、手帳とにらめっこをしている人など、それぞれ行動はばらばらで、特に隣の人と話すわけでもない。時折、食事を済ませて店を出るときに、ちらっと隣のMRに会釈くらいはするが、言葉までは発しない。大きな声でお礼をいう店のマスターの中国語なまりの言葉だけが、客にあふれた店内に響き渡った。
谷ケ崎の疑問は深まるばかりだ。朝の医局前での行列。特段新しい用事があるわけでもないのに、毎日早朝から電線に止まる雀のように並んでいるMRたち。特に情報交換をするわけでも、雑談をするわけでもないのに、毎日同じ店でランチをするMRたち。意味があるのかないのか、何故なのか全く見当もつかなかった。そして当然それらの疑問を榊田にぶつけた。
「まあね、なぜかって、まあ、なんとなくだよね。なんとなく、来ないと あれ、あの人来てないな・・・みたいになるわけよ。だけど、来たからといって、特段用があるわけではないよね、ぶっちゃけ」
榊田の答えは、納得できる反面、ある意味がっかりする部分もあった。谷ケ崎は、会社では選ばれて大学担当者になっただけに、大学病院担当MRはクリエイティブな仕事を実践している集団であるかと思っていたのだが、初日から明らかなクエスチョンマークの連続であった。製薬各社、毎日毎日顔を合わせるだけで、特に話もない。仲が良いわけでもなければ、悪いわけでもない。話したくはないけど、でも見えるところで他社を見ている。この各社の受動的な姿勢が、とりあえず、毎朝医局前に集合して並んで教授に挨拶をする、とりあえず、午後2時半ころから遅いランチを中華料理屋「北京」で食べる、という暗黙の了解事項につながっているのか・・・と、谷ケ崎は分析をした。
けっこう平和な日々だな・・・これが大学病院を担当して間もない谷ケ崎の感想であった。
★ ★ ★ ★
首都医大病院からは遥か離れた、多摩地区の某市。そこに、ほとんどが療養型病床群で構成された90床の田部井病院はある。病棟の医師の控え室に榊田が寿司折の差し入れを持参して登場したのは午前2時である。差し入れを渡した相手は、首都医大、第一外科教授の権藤である。
「先生、今日もお疲れのご様子ですね」
「榊田君、ありがとう。おすし。いただきます。いつも悪いね、僕、何使えばいいの?」
「先生、ヨクナオール、お願いします」
「お前んとこ、ほかにないのか? そんな20年以上前の薬のほかに?」
権藤は笑いながら榊田に問いかけ、榊田も笑顔で返す。
いつものやりとりだ。
「それにしても、先生、ここの毎月2回の当直も長いですね」
「まあな、ここの院長には昔、若いとき、俺もワルしてたころ、助けてもらったからな。警察沙汰になったときには、医者としてはもちろん、ヒトとして俺ももう終わったと思ったけど、色々とウラからオモテから手を回して助けてくれたのが、ここの先代の院長だよ。そのおかげで医者も首にならなかったし、結果的に今となっては教授になっているからな。恩があるんだ。だけど榊田君、ここに俺が毎月2回夜きていることは、だれにも言ってないだろうな」
「先生、大丈夫です。僕がここにくるようになってから、何年か経ちますけど、だれにもばれてないじゃないですか」
大学病院担当者は、とりあえず朝も昼もなんとなく目の届くところに集まって、特に話すわけでもなくその生存を確認しあっているのであるが、優秀なMRは、実はどこかでこういう裏技を持っているものである。榊田も、実は毎月2回、真夜中過ぎに、多摩地区の個人病院で権藤に会っていたのだ。胃がん治療の世界的権威がこの個人病院の当直にきていることは、本当に極限られた関係者にしか知られていない。
「それにしても、先生、本当にお疲れのご様子ですね」
「まあね、最近面倒なことがあってね・・・」
権藤は病棟のフロアの端にある、狭くてカビ臭い医師控え室の古いリクライニングチェアを軋ませながら重い口を開いた。袂からタバコのチェリーを取り出すと、榊田はすかさず用意していたライターと灰皿を差し出した。権藤が喫煙することも誰にも知られていないことの一つだ。ライターと灰皿を用意する榊田とは、気心が知れた仲であることは火を見るより明らかである。
「ニューヨークのメディカルセンターに勤務しているころは楽しかったな・・・。夢もあったし、実力も見る見る付いていくのが自分でもわかってね。がんのオペは俺が全部担当してやる! 位に思ってたよ」
「先生、実際に先生は世界的な権威ですよ」
榊田の言葉に、権藤は虚ろに天井を見上げる。ため息と一緒に出てきたチェリーの煙は部屋に充満し、沈黙をつくった。もくもくと形を変えて部屋を漂う煙は、一種の弱い生命感をかもし出し、その感覚を権藤と榊田は共有した。
おもむろに権藤が口を開く。
「教授になったとたん、頭の中は集金方法と、医局員の就職先の確保でいっぱいでさ・・・」教授としての医局の発展、設立した胃がん治療協会に必要な金、若手の外科離れを食い止めるための魅力的な関係病院の確保・・・などなど、おおよそ患者や社会への貢献とはかけ離れたところで権藤は苦しんでいた。これらも、教授に就任する前々からわかっていたことではあるので、特に戸惑ったりすることはないのであるが、いかんせん思うように進展していないことだけは事実のようである。
「それでね、変なのが最近来てるだろ。来てねえか? ニューイングランドファーマのMRとか、来てねえか?」
榊田は、なぜ権藤がニューイングランドを気にしているのか、当然知っていた。今度の胃がんの新薬は、東横とニューイングランドで併売されるのだ。榊田は、権藤に、ニューイングランドファーマのMRは来ていないことを伝えた。
「先生、ニューイングランドさん、来てないですね。ていうか、その代わりと言っては何ですが、最近東横製薬の谷ケ崎という奴が第一外科に来るようになって、うろうろしてますよ」
「東横!? そっちが来ちゃったか・・・・」
「はい。そっちなんですよ、来ちゃってるのは」
「いやあ、今度の胃がんの薬なんだけど、ニューイングランドがずっとウチで治験もやってて、医局にカネもドカンと入れてもらってるんで、それを採用する方向なんだけど。ただ、何となく、好きじゃないんだよね、あいつら。カネに物を言わせて、俺が採用して使うのも当然みたいな態度でね。社長とか言う外人もこないだ来たけどね」
権藤はタバコを灰皿に押し付けながら、その先を続けた。
「東横ねー・・・」
「先生、でも治験もやってるし、医局にカネも入ったんなんら、首都医大はニューイングランドですよね。おそらく、ドラフトみたいな振り分けも、両社で内緒でやってるんじゃないですかね」
榊田が矢継ぎ早に言い終わると、権藤は、またため息をつきながら、続けた。
「それが、あいつら、なんていうの? 日本で率先してコンプライアンスにフォーカスしてるとか言っちゃって、変なところで真面目というか、ドラフトとかそう言う事しないんだってさ。だから並売先企業とは、話し合い無しでガチンコで勝負するらしいよ」
「え! あいつら、抗がん剤の新薬、ガチですか?」
「そう。ガチ」
「マジですか!」
榊田の声が思わず大きくなる。
「まあね。ただ、首都医大はもう、暗黙の了解でニューイングランドってことになってるんだけどね。カネも絡んでるしね。ただし、建前上は、決めるのは俺だよ」
権藤は立ち上がって、さらに続けた。
「それにしても、驚きだね。東横のMR、来てるの!? で、ニューイングランド、来てねえか・・・・・」
「はい、先生。東横の兄ちゃん、来ています。毎日」
しばらく黙った後、権藤が笑いながら夜中のラウンド(回診)に向かった。何で笑ったのか、榊田にとっては不気味であった。
★ ★ ★ ★
それから暫くたったある日の朝、谷ケ崎が勢い込んで榊田に話しかけてきた。
「榊田さん、昨日権藤先生にアポイント取れたんですよ!で、榊田さんに教わった、ヨクナオールのジェネリックのデータの話題を持ち出したら、異様に興味を持ってくれました!」
「良かったね」
榊田は答えた。ヨクナオールは榊田の勤める外資系製薬企業で20年以上前に発売した胃の薬だ。すでに30社以上からジェネリックが出ている。東横からも、ヨクナオールのジェネリックは発売されている。榊田は、その薬の、とにかく何でも良いので、崩壊性や、添加物のデータを権藤に見せるということを、谷ケ崎にアドバイスしたのだ。谷ケ崎は理由もわからなかったが、とにかく、そのジェネリック品の最新のデータを権藤に見せたら、権藤が異様に興味をもったとのことだった。
「でも、榊田さん。僕今度の胃がんの新薬の話しなくちゃいけなかったんですけど、その話は全然しませんでした」
複雑な表情を見せる谷ケ崎に、榊田が言った。
「まあ、良いじゃん。権藤先生の興味を惹いたんなら」
「そうですよね。良いです。どの道、今度の胃がんの薬は製造元のニューイングランドさんから採用されるだろうし。とりあえず、僕も上司から行けといわれているので、権藤先生の所に来てはいますけど、まさかウチから新薬が入るなんて、誰も思ってないですよ。 ウチ、カネも無いし。あはは」
谷ケ崎の笑い声が医局前の廊下に、場違いに響いた。各社MRからの視線を一斉に浴びたが、谷ケ崎はけろっとしていた。 面白い奴だな・・・と、榊田は思った。
★ ★ ★ ★
1週間後、ニューイングランドファーマの担当者、支店長、開発部長など、5人くらいが血相を変えて第一外科の医局前に現れた。すでに9時近くになっていて、当然教授は病棟に行った後である。彼らは、ひとしきりあたりを探している様子だ。愚かである。教授の動きも知らないとは・・・・。
ランチタイム。榊田は、中華「北京」で名物のパーコー飯を食べていた。高温でカラッと揚げられた骨付き豚肉、肉と青菜の味を引き立たせる控えめの香辛料、絶妙に絡まる醤油ベースの秘伝の餡。脂っぽさのない優しい味に、箸がすすむ。
するとそこに、晴れやかな表情の谷ケ崎が現れて、話しかけてきた。
「榊田さん、胃がん新薬、ウチのが採用されちゃいましたよ!!!」
「よかったね。おめでとう」
破顔した谷ケ崎は続けた。
「榊田さんに言われたように、あれからヨクナオールのジェネリックの最新のデータをずっとアップしてたんですよ。本当に教授に興味持ってもらって。その流れで、良い関係ができて、結果的に新薬も採用されました!!」
「よかったね」
榊田が、笑顔で答えると、谷ケ崎はさらに続けた。
「それにしても、何であんな昔の薬のヨクナオールにあんなに興味を持つんですかね??
・・・・あ! すいません。。」
榊田がヨクナオールの先発メーカーであることに気づき、谷ケ崎は、はっとして、気まずくなった。
「いやいや、いいの。気にしないで。先生、最近すごく元気になったよ。すごく、前向きで、目がギラギラしてるよ」
さらに榊田が言う。
「ヨクナオールってね、調べてごらん。昔、20年以上前に権藤教授がニューヨークで学位を取ったときの論文のテーマなんだよ。あのときの、患者のため、社会のため・・・っていう気持ちが、今またよみがえった。思い出したって、先生喜んでたよ。よかったね」
パーコー飯を平らげ、榊田は中華「北京」を後にした。
さあ、俺もがんばろう。榊田は次のアポイントに向かった。(かつしかニューヨーク)
※「小説MR榊田」は、事実を基にして書いた小説です。作中に出てくる個人名、施設名や地名などの固有名詞は架空のものです。また、現在のMRの営業活動の実態とは違うことが多々あります。昔はこんなことがあったな、あったんだな、とお読みください。