●同調圧力の本質的論議を始める
前回、コロナ時代について労働の現場に焦点を当ててみた。いくつかの焦点を探ったなかで、前回はやや経済的問題を軸にし過ぎたという思いがある。ブルシット・ジョブとエッセンシャルワークの対立的構造が強固に構築されている日本社会のなかで、最もわかりやすい構図が「ブルシット・ジョブ=金持ち」、「エッセンシャルワーカー=低所得者」なのだから、それがコロナ時代になっても基本的に維持されてきたことは、実は、よく考えれば、どんなに考えてもおかしなことなのである。
人と触れ合わず、リモートで「仕事する」側と、人と触れ合うことが必須で、人に触ったり、直接会話しサービスを余儀なくされる側との違い。それは経済的格差で言及すれば理解の早い話であり、コロナの時代に「リモートワーク」という決定的なインフラ供給の格差でも露わになった。そしてそれらの思いを凝縮し、煮詰めていくと、経済格差の根底にはエッセンシャルワーカーに対する「差別」が存在する。
といっても、こんなこと実はみんなわかっていることである。知っていることであり、その差別の根源は、学歴だったり、出自であったりするが、以前は「人より多く努力した結果」の学歴や叩き上げだったりする。しかし、現在は「出自」のウエイトが高い。それもほぼ、ほとんどの大衆が知っている。理解できている。出自の形態はいろいろあるが、親が「人より努力した結果」を持つ子弟がその余禄にあずかっているケースもあれば、幾代もの「家柄」というのもあるだろうが、決定的に現代で幅を利かせているのは前者だ。
そうして眺めてみると、現在のブルシット・ジョブの側にいる人々は、実は別に努力して、自分の力でエッセンシャルワーカーより高い配分を受けているわけではないと言っても差し支えないのである。実はそのことも、市民大衆はだいたいよくわかっている。時折、その理不尽、不条理に異を唱える若者の事件や、中年世代の暴走が悲惨な結果を招くことがあるが、日本ではその2つの間で目に見えるような対立、例えばデモとか暴動などといったものを現在ではほとんど観ないし、その萌芽すら見えない。先進国の一部ではデモも起きたし、ロックダウン解除を求める暴動もあった。
日本では何かが、それを抑止するために、両側を紐帯している。そこにあるのは、モラルを基盤とした同調圧力の存在しか考えることができない。ブルシット・ジョブ側もエッセンシャルワーカー側も、どこかにモラル基盤で同調できる装置がこの日本には存在する。そして、そこにとくにエッセンシャルワーカー側が依拠することで、自分たちの不平等感を宥めている構図が存在する。パンはどちらの側も買えるが、エッセンシャルワーカー側は売り子側にも回らなければパンは買えない。ブルシット・ジョブ側はデジタルで購入できる。売らなくてもいい。
●日本人の追従性
紐帯する紐は細いように見えるが、差別の構造を隠蔽できるほど、縒り合わさって幅の広い幕にもなっている。その紐、同調圧力とはいったい何だろうか。
前々回などでも紹介した、京都大学の「立ち止まって、考える」連続講義シリーズで『COVID-19の倫理学(パンデミック以後の公衆衛生)』を講義した児玉聡・京大教授(倫理学)は、法哲学者、井上達夫の専門誌巻頭言の言葉を引用しながら、日本式のいわゆる「ソフト・ロックダウン」が「同調圧力」によって成立しているとの見解を紹介しながら、同調圧力の本質性について述べている。
再度読み返してみよう。まさにソフト・ロックダウンは日本人の同調圧力意識抜きでは不可能なのであり、それが他国と際立って違うことが井上の論から透ける。
「特措法(新型インフルエンザ対策等特別措置法)の下では、政府・自治体は移動制限や営業制限に関して、罰則も伴う法的強制力のある規制ができない建前になっており、それに代えて、『要請』という名の『お説教』で同調圧力を人々にかける。特措法が、移動・営業等に関して政府・自治体に授権している要請や指示は、インフォーマルな事実上の圧力を加える行為に過ぎず、法的強制力のある規制ではない」という井上の主張は、「そして、このような法的強制力を持たせずに『インフォーマルな事実上の圧力を加える』という規制のあり方は、『正統性のある公権力と、正統性なきインフォーマルな権力=事実上の政治的・社会的圧力を峻別することにより、正統な公権力を創出する』という方の支配の考え方に反している」と続いている。
「日本人の同調圧力追従性」(井上)を利用するといった表現は、日本の権力者たちの国民の愚民扱いを正面から批判していて正鵠を射る。
●自由空間での議論を
話が前後してしまうが、そもそも「同調圧力」とは何かを児玉の講義から探る。児玉は、この言葉は「もともとは心理学や社会学で用いられるピア・プレッシャー、つまりピアグループが持つ規範が集団内の個人に及ぼす心理的圧力の訳語ではないか」との推論を示し、ファッションだとか飲酒や喫煙、性行動などに関して、若者が周りの友人に大きな影響ないし心理的圧力を受けるといった話から発生しているという。
そのうえで児玉は、最近は同調圧力という言葉が多用、濫用されているとの認識も示し、井上の云う「事実上の同調圧力」とはどういうものか、いったいどういうメカニズムで作用するのかということをよく考える必要があるとの批判も示している。児玉の批判は、「人々が政府から要請されたから行動を変えているのか、あるいは周りの人々の白い目をおそれて行動しているのか、はっきりしないように思います。法による罰則でなければすべて同調圧力という言葉でまとめられる現象なのか、問うことを考える必要がある」として、概念や用法に関してはさらなる研究が必要だと指摘する。
倫理学的にはその指摘はおそらく正しいのだろうが、何でもかでも「同調圧力」とするのは、逆に同調圧力を生み出すことになるのかもしれない。しかし、私は権力側が、その権力に関して正当な手続きを経ないままに「同調圧力」に期待して政策を進める動機は、この度のパンデミックに関する限り、論旨がずれているとは思わない。
一方で児玉は、ハード・ロックダウンであっても同調圧力は生まれる可能性があることを、今回のパンデミックでもイギリスで報道があった例を引き合いにして、「法的強制力か同調圧力か」という2択で考えるのではなく、本質的には「市民間の同調圧力をどう抑制するか」ということを考える必要があると述べている。
児玉の指摘は、その視点、「市民間の抑圧」という表現で、多数派の専制による「世論の専制」が、現に起こっているネット社会での中傷やバッシングにつながるというものであり、それはその通り、この度のパンデミック前期、つまり21年初頭辺りまで続いたパチンコ店、カラオケ店、他県ナンバー車、医療関係者へのつまはじき、バッシングで我々は経験した。
私は児玉の指摘はその通りで、学問的課題あるいは学際的議論で太刀打ちできるとはもちろん思っているわけではないが、この度のパンデミックでこの国の政府、あるいは自治体首長が「同調圧力」を誘発するいくつかの「周到な判断」はあったと思う。「3密」という言葉は、警察的に使われなかっただろうか。監視社会に異を唱える空気を排斥しなかっただろうか。
児玉は、同調圧力に関して、それはきわめて今日的な問題であり、それを議論するときには自由な空間を用意しなければならないとも語っている。一見、矛盾に満ちているようだが、私には日本社会がそれを乗り越えなければ、権力に愚民扱いされる時代はコロナ時代が終焉しても続くような予感がする。(幸)