(1)地元でも知られていない


 群馬県は、江戸時代までは上野国(こうずけのくに)と呼ばれた。上州(じょうしゅう)とも呼ばれた。上州の全国的に有名な昔人は、国定忠治(1810~1851)。史実と芝居の間に、大きなギャップがあり過ぎて、ためらってしまった。どうしたものかと悩んでいたら、「江戸時代にとっても美人の俳人が上州にいた」ことを思い出した。それが、羽鳥一紅(はとり・いっこう、1724~1795)です。

 

 江戸時代の女性俳人としては、加賀国松任(現在は石川県白山市)の加賀千代女(かがの・ちよじょ、1703~1775)が有名です。それに比べると、上野国高崎の羽鳥一紅は、なぜか、ほとんど無名に近い。石川県白石市の市民は、誰でも加賀千代女を知っています。千代女の句「朝顔に つるべ取られて もらい水」によって、白石市では朝顔が大人気。ところが、群馬県高崎市では、羽鳥一紅の名を知らない人が大半のようだ。


 ひょっとすると、上州名物「かかあ天下とからっ風」の言葉が流行り過ぎて、羽鳥一紅の名前は、からっ風に吹き飛ばされてしまったのかも……。


(2)女性初の句集『あやにしき』


 「上野国高崎の羽鳥一紅」と書きましたが、生まれは、高崎の西で、長野県に近い下仁田(しもにた)。現在、「下仁田ネギ」で有名な所です。下仁田の名主・石井治兵衛の次女として生まれた。当時の下仁田は、下仁田の豪農出身の儒学者・俳人・書家の高橋道斎(1718~1794)が住んでいて、彼を中心に、かなり文化的雰囲気があったようです。


 下仁田は、中山道の裏街道ですが、険しい碓氷峠の中山道よりも歩きやすい裏街道のほうを利用する人が多かったようで、閑散とした田舎ではなかったようです。1751年には、高橋道斎らが下仁田及びその近隣の俳人と協力して、芭蕉の50回忌の句碑を建立していますから、かなり文化の風が吹いていたのでしょう。


 なお、芭蕉句碑の句は、「花の陰(かげ) 謡(うたい)に似たる 旅寝かな」(『笈の小文』)。句の意味は、花の咲く春、旅寝をしていると、謡曲の主人公になった気分になってくるなぁ。想定されている謡曲は「二人静」で、静御前が義経を思い出しながら舞う物語です。


 そして、彼女は高崎の絹問屋・羽鳥勘右衛門と結婚した。彼も、俳号が麦舟(ばくしゅう)とあるように、俳句を楽しむ人物でした。当時の高崎は、交通の要所で、上州最大の賑やか町でした。上州最大の町の絹問屋ですから、高崎のトップクラスの富裕者と結婚したわけです。


 高崎は交通の要所であるため、商業が盛んだけでなく、多くの文化人が、高崎を訪れていました。下仁田同様、いやいや、下仁田以上に、高崎も芭蕉系の俳諧が盛り上がったようです。その名残と思いますが、高崎には、あちこちに、いろいろな俳人の句碑があります。また、現在の高崎市では俳句が盛んな土地柄のようです。


 1758年、俳人・建部涼袋(たけべ・りょうたい、1719~1774)が妻・紫苑(しえん)と2人で、高崎の羽鳥家に泊まりました。


 余談になりますが、前述した高橋道斎、あるいは、建部涼袋は間違いなく俳人ですが、2人とも俳諧だけの人物ではありません。高橋道斎は、俳人であると同時に儒学者・書家でもあった。建部涼袋も俳人であると同時に絵師・小説家・国学者でもあった。江戸時代にあっては、多方面に才能を発揮する文化人が多かった。


 余談の2つ目は、江戸時代の俳人と称されている人数ですが、名を上げた俳人の数だけでも、200~300人います。また、そこそこ名をあげた女性俳人も数十人います。とにかく、有名、無名の男性・女性の俳人の数は、非常に多く、分厚い人名辞典が出来上がるのではないでしょうか。


 余談の3つ目は、建部涼袋のことです。彼は陸奥国弘前藩の家老の家の次男として生まれた。兄嫁との不倫が発覚して弘前を追放された。兄嫁は1~2年後に死亡したが、彼は生きながらえた。そして、俳人、小説家、国学者となった。建部涼袋は「5・7・5」の俳諧(発句)に満足せず、俳諧を止めて、古代に流行った「5・7・7」の片歌の復活を提唱した(1763年)が、流行らなかった。


 片歌提唱の時から、建部綾足(あやたり)と名乗った。そのため、「建部涼袋」よりも「建部綾足」の名前で知られているようだ。絵画については、2022年3~4月、板橋区立美術館で「建部涼袋 その生涯 酔(よい)たるか醒(さめ)たるか」と題して展覧会が開催されました。美人画はありませんでした。「酔たるか醒たるか」は『続近世畸人伝』(1798年刊)の言葉です。なお、非常に多くの著作があります。

 

 さて、本題に戻って…


 1757年、建部涼袋(39歳)は、遊女の紫苑(しえん)と結婚した。紫苑も俳句を嗜む教養人であった。そして、1758年、2人は旅の途中、高崎の豪商であり、俳人夫婦の羽鳥家に寄って1泊したのであった。


 紫苑は、羽鳥一紅の美貌を褒める挨拶句を詠んだ。


  枕貸す 宿の牡丹や あやにしき


 まぁ、一紅さまの美しさは、牡丹のようですわ、綾(あや)錦(にしき)のようですわ、と、最高級に褒めたたえた。綾(あや)は模様が綺麗な織物、錦は絹織物。綾錦はとても綺麗な絹織物のように美しい、という感じであろう。『源氏物語』でも、女性の美しさの最高表現に「あやにしき」が使用されています。むろん、羽鳥家が絹問屋であることを意識しての表現であろう。一紅は美しい絹織物の衣装を着ていたに違いない。とにもかくにも、一紅は衣装に劣らない美貌であったに違いない。


 お世辞半分でも、34歳の一紅は間違いなく美人だったのだろう。人間誰しも、褒められるとうれしいもので、とりわけ、一紅は「あやにしき」と言われたことに、喜び満点となったようだ。


 建部涼袋は、一紅に句集を出版することを勧めた。そして、一紅の句集が、同じ年の1757年に出来上がった。題名は『あやにしき』で、これは女性初の句集であった。40句が収められている。40番目は以下の句です。


  一声(ひとこえ)を 待つ夜もあるに 千鳥(ちどり)哉(かな


(自己流解釈)あなたのたった一声(訪れ)を待っている夜もあるのに、それに比べて千鳥ったら「チィー、チィー」気楽に鳴いている。と、解釈すると、「一紅の恋人って誰だろう?」と詮索したくなる。『万葉集』『古今和歌集』などの時代の和歌は、実体験をベースにしていたが、『新古今和歌集』以後の和歌は、空想を和歌にすることが多くなったようで、この句も、そんなものかも知れない。


 一紅を指導したのは、建部涼袋だけではない。加賀千代女(1703~1775)は当時、女性ナンバーワンの俳人で、1763年から一紅は文通を通じてアドバイスを求めている。ただし、加賀千代女の句集『千代尼句集』が刊行されたのは、1763年です。初の女性句集の栄冠は、羽鳥一紅のものだったのです。


 数ある一紅の句のうち、4つだけ記載しておきます。


  長うなる 夜を待ちかねて 星の恋


 前述の「一声を……」の句と同じような感覚でしょう。


  かくし田の こころも知らで 鳴く蛙


 これは社会問題的な句です。山陰に検地を避けた隠し田がある。蛙が賑やかに鳴いてはバレてしまうではないか。


  雪よりも 身にしむ風ぞ 山桜


 上州名物からっ風の句のようです。高崎には、この句碑があります。


  植えて待てば げに長月や けふのきく


 詞書(ことばがき)に「はじめて菊をつくる」とあります。この句の句碑もあります。


 1767年、一紅は、父の追善供養のため、5人で、信濃国(長野県)の善光寺へ旅をした。女性4人と男性1人で、全員が俳諧仲間、まことに楽しい旅行であったことでしょう。ぺちゃくちゃ、おしゃべり珍道中かも……と想像してしまいます。


 男性は一紅らの俳諧の師匠で、信濃国上田出身なので道案内の役目でもあった。その師匠の俳号は反甫(はんぽ)と記されているが、よくわからない。ローカルな俳人だったのだろう。


 その旅の一紅の紀行句集が『久佐麻久良』(くさまくら)です。最初の句は、次のものです。

 

  西へ入る 月をしたふて 草まくら


 意味は、単純に、西方極楽浄土へ行った父を慕って(高崎から西にある善光寺へ)旅をします、ということです。

 

 旅の途中、各地で、その地の俳人たちと句会が開かれています。一紅は相当に有名になっていたようです。少なくとも、高崎ではトップグループの俳人と認知されていたのでしょう。


(3)『文月浅間記』が全国的大評判


 1769年、一紅が46歳のとき、夫・羽鳥勘右衛門(俳号は麦舟)が亡くなります。以後、1795年、72歳で亡くなるまで未亡人となります。未亡人となっても、一紅には俳人としての生きがいがありました。


 そして、1783年(天明3年)、浅間山が大噴火した。4月から断続的に小規模な噴火をしていたが、7月8日(旧暦)に大噴火となった。上州での直接的死者は1400人であった。莫大な量の火山灰が関東に降り注ぎ、さらには、成層圏に届いた火山灰が日射量を低下させた。1782年から本格化していた天明の大飢饉に決定的影響を与えた。


 東北一帯はとりわけ深刻で、弘前藩は死者10万人以上、全国で100万人が死亡した。1787年には、江戸、大坂では打ちこわしが発生し、江戸では1000軒の米屋、8000軒の商家が襲撃され、江戸は数日間、無政府状態となった。利根川は火山灰によって川底が浅くなり、氾濫が頻繁に発生するようになった。無宿人・渡世人が大量発生した。


 一紅は、7月8日の浅間山大噴火を高崎で体験した。むろん、浅間山大噴火の全貌、その後の甚大な影響など知るべくもないが、実体験をすぐさま文章化した。それが『文月浅間記』です。「文月」とは、「旧暦7月」です。


 この『文月浅間記』は、大噴火ニュースを現地報告したというだけでなく、それがすばらしく流麗なる名文章ということもあって、すぐに、江戸のみならず全国の文化人の間で大評判になった。太田蜀山人(1749~1823)も絶賛したひとりです。つまり、羽鳥一紅は、高崎という一地方の俳人から、突然に、全国的に有名な女性文学者となったのであります。


 それにつけても、現代において、羽鳥一紅は知られていない。上州は国定忠治だけじゃないよ。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。