ひと口に医師といっても、診療科や働き方(勤務医か開業医か)などによって仕事は大きく違ってくる。『プリズン・ドクター』に描かれる医師の世界は、きわめて特殊な分野だろう。著者は、2018年から刑務所などで矯正医官として働く、おおたわ史絵氏。名前を見てピンとこなくても、テレビではお馴染みだ。


 これまで刑務所の医療をイメージしたことはなかったが、本書は通常われわれがお世話になる病院やクリニックとの違いをわかりやすく描いている。


 まずは医療を支える面々。


 一般の医療機関で出会う看護師は、「白衣の天使」のイメージに代表される女性が中心だ。しかし、〈矯正施設の看護師=プリズン・ナースとなると、案外と男性の姿が目立つ。いわゆるナースマンだ〉。なかには暴れ出す患者もいて、いざというときに抑え込める力も必要とされる。


 ただでさえ医師不足がいわれるなか、相対的に給料が安いこともあって、矯正医官の確保は難航しているようだ。〈医者はもともと風変わりな人間が多いのだけれど、プリズン・ドクターはそれに輪をかけた個性派集団〉だという。極度の人見知り、子育てと勤務医当直でボロボロになり流れ着いた女性医師、アーミーマニア……といった具合だ。


 それでも資格を持っていれば、誰もができる仕事ではないようだ。〈医師も看護師も、罪人を診るためにそこへやってくる。つまり彼らに対して差別なく接することができる価値観が必要とされる〉。


■機器は最小限、使える薬も限られる


 今どきの病院なら、さまざまな医療機器が並び、細かな検査、治療が行える。ところが、矯正施設使えるのは、血液検査や尿検査、心電図とレントゲン程度。〈エコーや内視鏡は施設によってあったりなかったり。CTがあるところはわずか9施設だ。MRIが備わっているのはなんと1ヵ所。PET検査なんてもってのほか〉。


 ちなみに、保安上の理由もあって、危険物どころか携帯電話やタブレットは医療従事者も持ち込み禁止。職員用の携帯電話ロッカーがあるという。そして〈机の上はきれいさっぱり、なんにもない〉。


 聴診器、血圧計、ピンセット、ハサミなどは収納されていて、使うときに都度取りに行く。 ボールペンですら厳しく管理される。〈すべてのものが悪意によって凶器に変わるから〉である。加えて、ほとんどの刑務所のカルテは手書きだ。


 これまで取材してきた医師のなかで最も片付いていたのは、パソコンと電話とペン立てしかなかった几帳面な精神科医のデスクだったが、矯正施設ではそれよりシンプルだ。


 使える薬も限られる。ないない尽くしの環境での医療なのだ。新興国の医療さながらである。


 著者は10年以上にわたって、血液検査やレントゲンもないアルプス山頂での医療を経験していた。この経験が役に立ったが、現代の医療に慣れた医師には、対応できない者も少なくないだろう。

 

 もちろん、患者の違いは大きい。相手は犯罪者。刺青が入っていないほうが珍しいほど。「御礼参り」のリスクを避けるため、ナースも医師も名前では呼ばず、〈部長〉〈先生〉といった呼び方になる。


 というと、刑務所での医療に関わるのは危険なようだが、著者は〈刑務所の診察室は外の世界よりもはるかに安全な気がする〉としている。一般の社会でも、不満を持った患者やその関係者に医療者が狙われるケースはある。埼玉県で在宅医療に携わっていた医師が殺害された事件や、大阪の心療内科が放火され医師らが亡くなった事件は記憶に新しい。

 

 一方、刑務所では〈危険物の持ち込みが厳しく管理されていて、屈強な刑務官たちが何人も見守ってくれる中で診察ができる〉〈ある意味で純粋に医療のことだけに集中できるやりやすさすらある〉のだという。


 日本の社会システムについて考えさせられたのが、身体的障害や知的能力が劣っている人のなかに、障害年金や生活保護といった手続きができず、犯罪者になっている人がいそうな点だ。生きるために比較的軽微な犯罪を繰り返す人もいる。社会のセーフティネットからこぼれ落ちた犯罪者は、凶悪犯のイメージとは程遠い。

 

 本書は医師の目で見た「塀の中」的な側面もあるのだが、興味深かったのが獄中の食事だ。主食の「臭いメシ」はコスト面や食物繊維の豊富さから麦が基本だ。規則正しい食事に、酒やたばこがない生活で、〈血液データはぐんぐんと改善、血圧も良好となり顔色もすーっと美しく透き通る。くすみは消え、脂ぎった吹き出物も引っ込む。受刑者たちは案外と色白美肌だ〉という。美食三昧で太っていた受刑者が、すっかり痩せて出てきた姿を思い出した(出所後しばらくして元に戻ってしまったが……)。


 著者は刑務官と〈獄中美容ダイエットっていう刑務所のレシピ本を出したら〉と冗談を飛ばしているとか。刑務所で入浴は夏が週3回、冬が週2回と制限されているにもかかわらず、余分な脂肪が落ちた男には〈オヤジっぽいヘンな体臭もない〉。ヒットは間違いないだろう。(鎌)


<書籍データ>

プリズン・ドクター

おおたわ史絵著(新潮新書968円)