●村八分民主主義のスタート


 今回で、コロナ禍における同調圧力を軸にした「世間」の圧力、風評被害、人権侵害に関する活字世界の動向を眺めることを終わりにする。このパンデミックが終焉のとき、収束といった観念で社会が動き出したとき、パンデミックで起きた同調圧力に対してどのような分析と報告、評論が行われるだろうか。社会的にこの問題が、強い関心を持って論議されなければ、この国のリスタートは復元力を失った、かなり厳しい差別と分断の裂け目が拡がったままの、あるいは裂け目が広がり続ける社会へと転落していくのではないかと思える。


 前回、筆者は「この度のパンデミックでこの国の政府、あるいは自治体首長が『同調圧力』を誘発するいくつかの『周到な判断』はあったと思う。『3密』という言葉は、警察的に使われなかっただろうか。監視社会に異を唱える空気を排斥しなかっただろうか」と述べた。


 京都大学の「立ち止まって、考える」連続講義シリーズで「COVID-19の倫理学(パンデミック以後の公衆衛生)」を講義した児玉聡・京大教授(倫理学)は、ハード・ロックダウンか、ソフト・ロックダウンかの論議を、権力か同調圧力かの2分法で論議することに否定的で、その論議自体が自由な場で行われなければならないことを強調している。


 筆者はそこに抗うつもりはないが、(本邦の)権力がこの度のパンデミックでとったソフト・ロックダウンは、同調圧力を明確に政治的意図をもってとった政策だと思う。市民の恥の文化を逆手にとった戦略(手口)であり、村八分民主主義の典型ではないのか。


●自治体首長の発信が「同調」を促す


 そこで、この同調圧力の政治的活用を「村八分民主主義」と呼んでみよう。そして、日本ではこの村八分民主主義がソフト・ロックダウンでは有効に作用した。では、コロナ下で、同調圧力に至る権力側の発信はどうやって行われてきたのだろうか。


 メディアが積極的に片棒を担いできたことを前提に振り返ってみると、20年から21年にかけて積極的に「3密」や「在宅勤務」、「リモート飲み会」などを推奨し、発信してきたのは主に大都市部の首長だったことに思い当たる。どこか、「国」というより「地元」の感覚が、市民に、「守るべき課題」は「地域の課題」であるとの刷り込みを与え、全体を俯瞰すれば皆、同じ行動や考え方であるのに、「地域主義」への勘違いが、「都市対地方」などというありもしなかった「感染形態」の幻を生んで、分断や裂け目の要因を作ることになったといえないだろうか。


 東京都の小池百合子知事の、一時期は毎日ニュースショーに取り上げられて、英語での標語発表をありがたがる知事とメディアの得意顔は、今振り返ってどうだろう。筆者は噴飯してしまう。また、大阪府の吉村洋文知事も毎日のように全国ニュース、関西ローカルニュースに登場し、通天閣のライトアップを信号機に見立てて得意満面だった。


 メディアがどうしてこうした小児的な振る舞いに同調してきたのか、それ自体が筆者には、ある種の極めて衆愚的な「錯覚民主主義」であるように思えるし、そこに逆らう、あるいは批判や揶揄は、「非常時」を弁えない自己中心的な振る舞いや言説として、容易に非難の対象とすることができたのだ。


 よく聞かされる戦前の市民を愚弄した「贅沢は敵だ」のようなスローガンなどを思い出すと、コロナ禍における衆愚的な市民の「村八分民主主義」は、まるで戦前をトレースしたような状況であったことが今にして見えるのである。


 そして、「今にして見える」こと、つまり同じことの繰り返しは、この度のパンデミックで起きた最も愚かしいことのひとつとして刻印されておかなければならないように思う。


●デマが政治資源化する


 政治学者の白井聡は、22年6月に上梓した『長期腐敗体制』で、「政権を担えるのは自民党しかいない」という観念、イメージで凝り固まった、政治的無知と思考停止の「日本の有権者」は、コロナ禍では「(自民党支持が)根拠なしと証明されたはずのイメージ」だったのに、ますます強固になったという。


 白井は、吉村大阪府知事について、「(ニュースショーで)必死な表情を浮かべながら、用意された原稿を棒読みすることもなく、行動規制や営業規制に協力してくれるよう、低姿勢で視聴者にお願いを繰り返した」と言い、それだけみれば感じがよかったことで、メディアは死亡率全国一という責任を追及することもなく、「吉村知事はよくやっている」という印象だけを伝えたと厳しく批判する。


 こうした状態について、しかし白井は「民主制の堕落態としての衆愚制」だと断定していいのかと疑問を挟む。民主主義の基本は具体的には有権者による選挙が行われることであり、その際有権者は「正確な情報に基づいた熟慮」により投票先を決めるという前提と常識があり、日本ではこれが機能していないのだから、堕落であり、危機に陥っていると単純に考えてよいのかと問う。そのうえで、「情報の流通量が爆発的に増加すると同時に、その発信と受容の方法も劇的に変化してきた中で、大昔からあるデマ、流言飛語を権力者が政治資源とすることが大々的かつ常態化した」と述べる。


 白井はこれに関連して、経済思想家の佐伯啓思が「こうした状況は、本来のデモクラシーが堕落した本来的な状況なのではなく、むしろ反対に、デモクラシーの本質が開示された状況、つまり本来的な状態である、いわゆる民主主義の危機なるものは、民主主義が深化したからこそ現れているのだ」との見解を引用している。この論点は、ソクラテスとソフィストたちの争いのなかでみられた「本当の正しさよりも、多くの人にとって『正しく見える』ことを演出する能力に長けた人びとが賢者とみなされ、政治的に重要な役割を果たすことになる」との根拠に立っている。


 同調圧力を筆者が規定したように「村八分民主主義」とすると、そこを醸成するのは「デマや流言飛語を政治資源とする」権力者の、「正しく見せる」演出が大きな源泉となっていることが、少しずつわかってくる。


 厄介なことに、従前の(ことに日本では)イメージ戦略報道が主体の従来型メディアに加えて、最近はSNSなどの環境が加わり、情報の流通量は爆発的に増加し、それがデマの発生に大きな力を与えている。同調圧力を強固にし、深化させ、爆発力を高めていることのひとつに、デマや流言飛語が存在することを、認識し、市民がそれをイメージとして学習する機会が必要な時代なのかもしれない。


●規制が必要な多数派の専制


 その意味で、同調圧力に抵抗し、無力化する方法はあるのだろうか。筆者のような無力で浅学菲才な人間には考えもつかないことだが、ただ、なんとなく印象としては「個人」の力ということに行きつくのではないかと漠然と思う。


 ハード・ロックダウンに関する論考のなかで、児玉聡は罰則付きの規制をするなかでは、「規制」が必要最小限かどうかの判断の必然を一義的に示し、そのうえで「なぜ罰則付きの規制を用いて個人の自由を制限することが許されるのかという点をよく考える」との要件を提示している。翻って考えてみれば、同調圧力への抵抗と無力化は、「なぜ同調を求めて個人の自由を制限することが許されるのという点をよく考える」ということに尽きるかもしれない。


 同調圧力の問題に関しては児玉も、「とくにソーシャルメディアが生み出す『多数派の専制』の問題は、自粛(ソフト・ロックダウン)か強制(ハード・ロックダウン)のどちらが望ましいかに拘わらず対処すべき今日的問題」で、「何らかの形で規制をする必要があるだろう」と語っている。むろん、自由な言論空間を確保したうえで、規制方法(自主規制か法的規制か)を論議する必然にも触れている。


 同調圧力が以前にもまして嫌らしくみえ、徐々に村八分民主主義として間口を広げるさまをみると、やはり私はソーシャルメディアが生み出す多数派の専制に対して、市民の目に見える「規制」は必要なのかもしれないと考える。同調圧力は可視化されて後に、「自由な空間で」議論されるべきテーマである。


 次回からは新しいステージに入りつつある、人生100年時代の死とトリアージについて、眺めていく。(幸)