週刊朝日が5月末の号を最後に休刊になるという。版元の朝日新聞出版社は週刊アエラも出していて、「同じ社で2つの総合週刊誌はいらない」と、一方をなくす案は1990年代から囁かれていた(当時は両誌とも朝日新聞出版局の発行だった)。なので、休刊それ自体に驚きはないのだが、出版不況がここまで深刻化したなかでの発表ということで、これに続く動きがドミノ倒しのように連鎖する悪い予感がしてならない。


 どの総合誌の休刊時にも感じることなのだが、何より懸念されるのは、世の中から「取材記事」がどんどん減ってゆくことだ。週朝の場合は、十数年前に比べ原稿料も取材費も各段に下がったが、それでもウエブ媒体に比べればはるかにマシだった。ウエブ媒体の稿料はそれこそ日帰りの電車賃レベルだ。記者が赤字を避けるには、電話やメールでちゃちゃっとポイントの取材をし、あとはネット情報の切り張りで書く以外にない。要はニュース報道さえ、ほぼコタツ記事なのだ。


 新聞や雑誌、テレビという報道メディアが壊滅し、ネットニュースの配信元からも消え去れば、国内で流通するニュースは事実上「コタツ記事」オンリーになる。人々から対面で肉声を聞き、現場を見る「足で書いた記事」がほとんどなくなるのだ。そんなことになれば、何の変哲もない地方ニュースでも、たとえば北朝鮮で秘かに高官が処刑されたときのように「正確な事実関係は不明だが……」という断片情報だけが駆け巡り、それに憶測の尾ひれをつけたコタツ記事が蔓延するだろう。


 状況がここまで悪化すると、「そんな日が到来するのを見てみたい」というどす黒い感情さえ湧いてしまう。すべては「情報は無料で手に入れたい、質はどんなに低くてもよい」という国民の選択の結果なのだから……。自業自得なのである。


 その昔、出版社系vs.新聞社系週刊誌、という比較がされた時代には、プライバシーの暴露やヌード・水着のグラビアがある出版社系に比べ、新聞社系はおとなしくファミリー層向け、と言われたものだった。ただそんな週朝でも、十数年前までは事件事故、災害の取材に特化して、編集部にはごくたまにしか帰らない「旅暮らし」の記者たちがいた。週朝はまた、スクープ競争に弱い分、連載陣の豪華さが売りだった。松本清張や司馬遼太郎、村上春樹、あるいは野球評論の野村克也など、錚々たる面々が週朝の連載をベースに数々の著作を発表した。そういった名著を輩出する「場」としての機能を持つ媒体も、どんどん減っているのである。


 数年前までは私自身、連載や単発の取材記事を書かせてもらったが、あるとき、「取材モノは今後もう載せられなくなります」と通告され、以来、編集部と疎遠になっていた。久々に最新号を手にすると、トップ記事は年金繰り下げ受給のハウツー記事、2本目に岸田政権の「原発回帰」への批判的論評記事があり、3つ目は昆虫食などの新技術の紹介である。多少華がある読み物は、松任谷由実さんをゲストにした林真理子さんとの対談くらいだった。


 前々号から始まった『生誕百年 司馬遼太郎の現在地』はこの大作家の元編集者による連載だ。27年前の司馬の他界以後、週朝では手を変え品を変え、彼にまつわる連載を続けてきた。特徴的なのはその遺作『街道をゆく』シリーズと同様に、城郭や寺社仏閣などの芸術的モノクロ写真を大々的に使っていることだ。ぱっと見では司馬の連載が未だに続いているのか、と錯覚させるデザインだ。巨匠の死でとっくに終了した看板企画のいわば「影武者連載」を四半世紀以上続けている。そんな「国民雑誌・週朝」の痛々しい最末期がもの悲しい。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。