フィールドワーク、特に野外で植物の作業をする際には、虫がつきものである。大小さまざま、目に麗しいものもあれば、そうでないものも。実のところ、小さい頃から研究者になるなら虫の研究がしたいと思っていた筆者は、昨春まで30 年超ずっと薬用植物園の世話をしてきたが、その愉しみのひとつが、虫をみること、好きな虫の 食草を増やして虫をも増やすことだった。
しかし、薬学部にくる学生たちに虫好きは多くなく、研究室に分属してくる学生らに各自の研究材料の植物を世話させるとき、虫についての説明をしておかないと、時として大音声の悲鳴を聞くことがあった。彼ら彼女らには、例えば、紫蘇の新芽に糸を張って丸めた中にモソッと潜んでいる 1 センチほどの長さのヨトウガの幼虫ですら、「恐怖」だったりするのだそうだ。そんなだから、ジャコウアゲハの派手な模様でツノがいっぱい生えたイモムシなんぞに、予備知識無しで出くわそうものなら、血相を変えて飛んで逃げる者が多い。ちなみに、ジャコウアゲハがなぜ筆者が管理していた薬用植物園にいたのかというと、幼虫の食草であるウマノスズクサが生やしてあったからである。ウマノスズクサはもちろん、薬学教育に使うのである。
オレガノの花に吸蜜に来たジャコウアゲハの成虫
キハダの葉についたクロアゲハの幼虫
ウマノスズクサの花
ウマノスズクサについたジャコウアゲハの幼虫
海外での現地調査でも虫にはたくさん出くわした。ヒトに危害を与えない虫であれば、何も問題はないのであるが、姿形は日本にいるムシとよく似ていても、とても凶 暴で痛い目に遭うことが多いムシもいる。例えば、アリの仲間がそうである。
熱帯雨林地域の森の中では、地上だけでなく木々の上にもたくさんアリがいること が多く、歩いているときに上からそのアリが落ちてくることがある。それが汗のにお いに導かれてか、服の中に入って背中や脇腹に噛みついたときの痛さは、一度経験す ると忘れない。しかも、なんの前触れも無く突然、服に覆われている部分で強烈な痛みが走るので、びっくりするのとのダブルパンチなのである。
当然、すぐに服の中から追い出そうと格闘するが、多くの場合は、アリはさほど大きくもないので、取り除けたかどうかの確認も難しい。ほかの同行者の手前、森の中 で服を脱いでアリを探すわけにもいかず、その日の活動が終わって宿に到着するまで 我慢して、部屋に入ってから全部服を脱いで、ようやくそのアリを見つけて排除できた、なんていうこともあった。懲りた筆者はそれ以来、熱帯雨林では暑くても、首に はタオルを巻き、つばのある帽子をかぶるようになったのである。
さてこの原稿、「虫」を書いているが、「昆虫」とは書いていない。これは昆虫に分類し難いムシも多いからである。例えば、クモ、ダニ、ヒル、ミミズ、などなど。 むしろこういう類のムシさんのエピソードのほうが多いかもしれない。
フィールドワークでの虫に関して、外国の現地調査の経験で嫌なものも多いが、楽しかった思い出もある。特によく覚えているのは、確か、中国南部の地方都市に出か けた時だったと思うが、大量のミミズに出くわしたことである。
空港がある中核都市から遠く離れた生薬産地に、車で数日かけて行く途中の、中継地の駐車場での出来事だったと思う。車を停めて食事に行き、食後に駐車場に戻ろうと歩き始めたら、雨が降ってきた。瞬く間に周辺には水たまりができて、雨降り特有の土埃のようなにおいが立ち込めたが、すぐに止みそうだったので、同行の人たちと軒先で雨宿りをしてしばらくを過ごした。小雨になって駐車場に戻ってみると、夕暮れ時なのに加えて雨降りで暗かったので、とても見にくかったが、地面に、切れたロープのようなものが無数に散らばっている。何かの積み荷を誤って誰かがぶちまけた のかと思いながら進んでいくと、ロープと思ったそれが、動いているのである。
え〜と思いながら、しゃがんでそれをつまみ上げようとしたら、ぬるぬるしていてロープではなかった。そう、それはとんでもなく太くて長い、そしてとてつもなく大量のミミズだったのである。太さは自分の人差し指ほどあったので、直径 1 センチよりはかなり太く、長さは自分の肘から指先までよりかなり長かったので、40〜50 センチはあったと思う。(と言っても、ミミズは、危険を感じて固く縮こまって太くなった時と、ダラんとリラックスしている時とでは、太さも長さも大きく異なるが。)こ んなに長くて太いミミズは見たことがなかったので、びっくりするやら嬉しいやら興奮するやらで、地面にたくさんいるそれらを何本か掴んで同行の日本人たちのところへ持って行き、「見て見て!このいっぱいいるのん、全部ミミズやわ!こんなにでっかいの初めて!」と言ったら、「気持ち悪っ!」と避けられた。筆者としては、とても嬉しくて興味津々、もっとそのたくさんのミミズと遊んでいたかったのだが、先を急ぐ旅では時間に余裕が無く、違う土地に生物を持ち込むことは、自然科学ではやってはいけないお作法なので、非常に名残惜しかったが、ミミズはその場に戻して出発した。
堪能するまで遊ぶことはできなかったが、信じられないくらいビッグサイズのミミズを掴んで、ちょっとだけだったが戯れたというのは、筆者にとっては特筆すべきちょっと嬉しいイベントだった。
ミミズが降雨時に土の中から出てくることがある理由ははっきりとは解明されていないのかもしれないが、同じ場所にもう一度行っても、同じようにビッグミミズに出会えるかどうかはわからないわけで、調査対象ではないながらも、この太くて長い大量のミミズとしばし戯れたのは、はっきり記憶に留められているムシにまつわる出来事のひとつである。
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伊藤美千穂(いとうみちほ) 1969 年大阪生まれ。元京都大学大学院薬学研究科准教 授。専門は生薬学・薬用植物学。18 歳で京都大学に入学して以来、1 年弱の米国留学 期間を除けば京都大学一筋。研究手法のひとつにフィールドワークをとりいれた。途 上国から先進国まで海外経験は豊富。教育・研究の傍ら厚生労働省、内閣府や PMDAの各種委員、日本学術会議連携会員としての活動、WHO や ISO の国際会議出席なども多かった。現国立医薬品食品衛生研究所生薬部部長。