(1)日本食ナンバーワン
沢庵宗彭(たくわん・そうほう、1573~1646)は臨済宗の僧である。通常、沢庵和尚と称される。沢庵和尚といえば、大根の漬物のたくあん(たくわん)。たくあん(たくわん)といえば沢庵和尚である。漬物のたくあん(たくわん)と沢庵和尚は、切っても切れない関係にある。
和食・日本食の代表格は、寿司、すき焼き、てんぷらを思うのであるが、それらは日常、食べる料理ではなく、たまに食べる「ごちそう」である。一般人が、毎日、食べるおかずの代表格は「たくあん」がナンバーワンではなかろうか。もっとも、昨今はそうでもなくなってきているようだが、まだまだ、「たくあん」は人気がある。
外国人は、たくあんの臭いを嫌うようだ。明治初期に、日本旅行をしたイギリス女性の旅行家・写真家イザベラ・バード・ビショップ(1831~1904)は、彼女の著作で「これより臭いのはスカンクしかない」と書いた。
しかし、西洋には、たくあんよりも臭いが強烈な食べ物がある。私の体験では、スイスへ行ったとき、夕食にチーズフォンデュのレストランを案内された。店に入るなり、あの臭いが充満していて「窒息するのではないか」と身震いし、別の料理の店に変更してもらった。
世界で酷い臭いの食べ物の筆頭は、シュールストレミングと称するスウェーデンの塩漬けニシンの缶詰である。缶の中で発酵してガスがたまり缶詰が膨らむ。ときには、爆発する。そんな理由で、輸送困難なため日本への輸入は禁止されていて、スウェーデン大使館内の販売や特殊な輸入でしか手に入らない。
臭気指数なる数字があるが、くさや(焼きたて1267)、納豆(452)、たくあん(430)であるのに対して、シュールストレミングは、なんと8070である。テレビで、芸能人が「滅茶苦茶からい」食べ物を、絶叫しながら食べる番組があるが、「滅茶苦茶臭い」食べ物を食べさせるのは、どうかな……。
臭い食べ物の第2位は、韓国のホンオフェで臭気指数は6230である。エイの切り身を発酵させる。韓国南部では高級料理とされている。口に入れて、深呼吸すると失神するとか、涙なくしては食べられないとか……。どうやら、独特の食べ方があるようだ。日本でも食べられる店があるようだが、私は未体験です。激辛ブームが飽きられたら、ホンオフェが到来するかな。
とにかく、シュールストレミングやホンオフェに比べれば、たくあんの臭いなど、大したことはない。
余談ながら、イザベラ・バード・ビショップに関して、若干述べておきます。日本の風景を絶賛し、日光湯本温泉の湯治客の宿屋を「妖精が似合う宿」、あるいは山形県南陽市の赤湯温泉のある地方を「エデンの園」「東洋のアルカディア」と非常に賛嘆している。アルカディアとは、古代ギリシャの理想郷と伝えられる地域である。
しかし、褒めている一方、日本人の洋装はみっともない、日本人の体形はみじめである。あるいは、日本の寒村の状況に関して道徳水準が非常に低い、「〇〇は嫌な感じの町」と書いてある。なお、北海道へも行き、アイヌの風俗も書いてあり、明治初期のアイヌ文化の唯一の文献とされている。
(2)「たくあん」誕生
沢庵和尚の前半生は省略して……
1609年に、37歳で京都の臨済宗大寺院・大徳寺の住持に出世した。
室町幕府は臨済宗を保護し、五山十刹の制度を設けた。大徳寺は臨済宗だが五山十刹から抜けていた。それは、幕府と距離を置き世俗化を避ける、座禅修行に専念するということだ。一休(1394~1481)も大徳寺であった。つまり、大徳寺の伝統は、世俗権力と距離を置く、そして修行に邁進するという雰囲気が強い寺院である。「住持」とは、寺院のトップ僧をいう。「住職」という単語があるが、これは「住持職」の略語である。
沢庵和尚は、大徳寺の住持に出世したが、3日で職を辞し、堺の南宗寺へ戻る。南宗寺は沢庵が修行していた寺である。3日で職を辞したことは、地位・名誉を求めない、ということである。そのことは、沢庵和尚の名を高めた。
豊臣秀頼から招かれたが固辞した。細川忠興からも招かれたが、これも固辞した。地位・名誉を求めない行動に、沢庵和尚の人気はいやがうえにも高まった。
それだけでなく、近畿水害では橋を架け住民に感謝された。また、あちこちの寺院等の再建にも尽力した。さらには、仏教以外でも、和歌や儒学にも高い専門的知識を示している。
そうこうしていたら、1627年、紫衣事件が発生した。
紫衣事件とは、いわば、天皇と幕府の権威争いである。事実上の権力は幕府が握っていたが、天皇側は権威だけは、なんとか維持したかった。大徳寺など有力寺院のトップ僧には天皇から紫衣を賜ることになっていた。それを幕府は、幕府が認めたトップ僧に限定する法令(禁中並公家諸法度)をつくった。天皇は、それに従わなかったので、大事件となった。
沢庵和尚は、幕府抗議の先頭に立った。
その結果、1629年、57歳の沢庵和尚は、出羽国上山へ流罪となった。流罪となっても、沢庵和尚の人気は、強大な権力に屈しない姿勢によって、人気抜群となった。
出羽国上山藩主・土岐頼行(1608~1685)は、沢庵和尚を尊敬して、草庵を寄進した。沢庵和尚は、その草案を春雨庵(はるさめあん)と名付けて、悠々楽しく暮らした。今も、山形県上山市に文化財として保存されている。
話がやっと、たくあんになります。
予め一言。たくあんは、沢庵和尚が開発した、とされている。しかしながら、まったくの新商品が開発されることは、そうそうあるものではない。おそらく、似たような食べ物があったのだろう。あるいは、そっくりの食べ物があったのではなかろうか。それが、キャッチコピー「沢庵和尚のたくあん」となったら、あっと言う間に全国に普及した、という感じかな。
「たくあん」誕生第1幕は、春雨庵である。
春雨庵の沢庵和尚に、近隣住民が大量の大根を差し入れした。一挙に消費できないので、沢庵和尚は考えた。生ごみとして捨てるのは理に反する。家畜の餌にするか、でも、せっかく、私に食べてくれとプレゼントされたものを、家畜の餌にするのは、やはり理に反する。どうしたものか。その日は太陽が輝く晴天であった。青空に感謝しながら、沢庵和尚は考えた。柿を干せば干し柿になる、同じように大根を干してみよう。
大根を干して数日後、近隣住民が、今度は、野菜のぬか漬けを寄進してくれた。それを見て、沢庵は考えた。よし、干した大根をぬか漬けにしてみよう。こうして、大根の保存食「たくわえ漬け」が考案された。嘘か真か、ジャンジャン。これが、「たくあん」誕生の第1幕である。まだ、「たくあん」の名前は生まれていない。
話をおもしろく、かつ、長い話にしたければ、食べ物を粗末にする青年を登場させたり、食べ物の好き嫌いが激しいお姫様を登場させたり、藩主・土岐頼行は槍術家で自得記流を創設した人物なので、槍の殿様と大根を手にする沢庵和尚の勝負シーンも挿入したり……、あれやこれや考えてください。
なお、沢庵和尚は、春雨庵で和歌1000首を詠んでいる。なんと申しましょうか、楽しい、のんびりした流人生活でありました。
1632年、大御所・徳川秀忠の死により大赦が実施され、沢庵和尚ら紫衣事件に連座した者は許された。約3年間生活した春雨庵を去った。天海(?~1643)、柳生宗矩(やぎゅう・むねのり、1571~1646)、堀直寄(1577~1639)の推挙によって、1634年、二条城にて、沢庵和尚は3代将軍・徳川家光(在職1623~1651、生没1604~1651)に拝謁することになった。
他人の心の内は、さっぱりわからないが、家光は沢庵和尚を師とみなすようになった。以後、70数回、対面・対話がなされた。沢庵和尚の死亡は1646年なので、11年間で70数回とは、1年に6回は対面・対話がなされたという計算になる。これは、大変な頻度である。
最初は、柳生宗矩の下屋敷の一室に住んでいたが、1639年からは、家光が創建した萬松山東海寺(品川区北品川3丁目)の住職となる。
「たくあん」誕生第2幕は、東海寺である。
ある日の江戸城でのこと。家光が沢庵和尚に言った。
「何か美味いものが食べたい。何がよいか?」
臨済宗の僧は、禅問答でも類推されるように、即座に当意即妙に応える訓練がなされている。沢庵和尚は臨済宗のトップ僧だから、当然、即答した。
「次回、東海寺へお出ましなさる際は、今までに食したことがないほど、美味しいものをご準備いたしましょう。ただし、その日は、朝食抜きで、いらっしゃってください」
数日後、家光は東海寺へ昼食を食べるためやってきた。
昼になっても、昼食が出てこない。
「この世にないほどの美味しい料理なので、ご準備にかなりの手間暇がかかります」
「それは、そうだろうな」
あれやこれや、沢庵和尚の説法なのかお喋りなのか、とにかく、有意義かつ時間を忘れるくらい興味深い話がなされた。家光も質問したり、頷いたり。かなり時間が経った頃、昼食が準備された。
家光のお腹は、生まれて初めての極度の空腹を訴えていた。
出てきたお膳には、皿に黄色のものが2切れ、それとお椀があるだけ。お椀の蓋をとると、なかにご飯が入っていて、お湯がさしてある。家光は、お腹グーグーなので、
「馳走になるぞ」
と言うや、ガツガツ食べ出だした。
「おかわり」
そして、沢庵和尚に尋ねた。
「この黄色いものは、何か?」
「大根のたくわえ漬け、でございます」
「美味じゃ」
家光は、空腹こそが、最高の美味しさに直結する、と知った。自分は毎日贅沢なものを食べている。庶民はこのような粗食を毎日食べているのか。庶民の暮らしを少しはよくしないといけないなぁ。将軍職たる自分も少しは倹約しなくては……。家光は、沢庵和尚が言葉に出さずとも、そう戒めているのだろ、と思うのであった。
そして、将軍家光は沢庵和尚に命じた。
「今日から、『たくわえ漬け』ではなく『沢庵漬け』と名づける。庶民には『沢庵漬け』を普及させ、貯えるように。よいな」
「はつ、恐れ入りました」
たくわんは、大いに流行したが、江戸市中では庶民自らが漬けることはなかった。人口密集で干す場所がなかった、時間がかかって面倒だ……などの理由といわれる。それで、江戸では近隣農家が漬けたものを買っていたようです。近隣農家のひとつ練馬は、たくあんに適した大根の産地で「練馬大根」と名がついた。「練馬大根」の名は、今も知られているが、たくあんとの関係は忘れられたようだ。
(3)剣禅一如(剣禅一致)
吉川英治(1892~1962)の小説では、宮本武蔵と沢庵和尚の交流が書かれてあるが、まったくの空想の産物である。でも、関心があるテーマなので、一言。武蔵と小次郎の巌流島の決闘は、1612年で、沢庵和尚が40歳のとき、武蔵は29歳、小次郎は18歳である。ただし、小次郎の誕生年が不明なので、それより上の年齢とも言われる。
何かで、かなりの高齢で60歳前後という説を聞いた。29歳の武蔵と60歳の小次郎では、武蔵が勝つのは当然だ、という話だった。
それはさておいて、沢庵和尚には剣術の書『不動智神妙録』を著している。この本は、柳生宗矩の『兵法家伝書』、宮本武蔵の『五輪書』と並ぶ剣術・兵法書である。
時代背景は、戦国時代の「殺人剣」から合戦なき武士の時代への移行がある。合戦がないから、剣は無用の長物である。でも、武士には刀が必需品である。キラキラ飾りを施した刀でファション化の流れも登場した。それでは、本物の武士ではない。そこで登場したのが「活人剣」である。『兵法家伝書』は、「殺人剣・活人剣」が中心テーマである。
そして、『不動智神妙録』はあっさり言えば、精神修養である。心がひとつの物事に囚われてはいけない。無心にならなければ達人になれない。無意識の行動が達人である。無意識に向かって心を磨け、心を磨け、ということだが、わかったようなわからぬような……。
剣禅一如(剣禅一致)を誤解している人も多い。禅で悟りの境地に達しても、剣術が強くなるわけではない。剣術が強くなっても、宗教的悟りを得られるわけではない。剣術修行をしている最中、同時に、心を磨く、無の心とは何か、を問い続ける。そうしていると、宗教的悟りも得られるだろう、そんな感じである。
幕末に来日した外人が、日本の武士は修行僧のようだ、と評していたが、剣禅一如は相当普及したようだ。
ここで、江戸時代に流行った沢庵和尚と柳生宗矩の伝説を。
沢庵和尚が柳生宗矩の屋敷前で托鉢をした。剣術稽古の音をジッと聞いて、「これが将軍家の師範の道場か。未熟なものよ」と笑った。
門番が柳生宗矩に、それを報告した。その結果、沢庵和尚と宗矩が立ち合いを行うことになった。
宗矩は木刀を持った。沢庵和尚は、何も持たない。宗矩は木刀を構えた。沢庵和尚は恐れることなく、悠然と立っている。宗矩は思った。
「ひょっとしたら、この僧は、柔術か、中国の太極拳か、そんな武術の達人かも知れない。迂闊に打ちかかれば、見知らぬ体術が飛び出すかもしれない」
そう心配して、どうしても打ち込めない。そして、木刀を下げた。
「御坊には、恐怖という心がない。いかなる修行の成果か」
「ご貴殿こそ、大変な剣術の達人と推察する」
ということで、2人はそれぞれの極意を語り合うことになった。
もしも剣術側が二流、三流だったら、沢庵和尚は討ちのめされて骨折したであろう。剣禅一如とは、超一流の境地を言うのだろう。
沢庵和尚には、多くの伝説、真偽不明のエピソードがある。それにしても、名誉や地位を求めなかった沢庵和尚は、なぜ、将軍家光の、事実上の近侍(きんじ)になってしまったのだろうか。おそらく、断っても断っても、断りきれなかったのだろう。東海寺には「沢庵番」なる見張り役がいたそうだ。沢庵和尚が前触れもなく旅に出てしまうのを防ぐためである。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。