●意味が拡散したトリアージ


 今回からこのシリーズの最後のテーマである「人生100年時代の死とトリアージ」をテーマに、私(筆者)の視野の範囲にある発信情報を眺めていきたい。


 医療関連の報道に長く携わってきたからといって、医療の専門家が常識として医療現場で使っている言葉を私も共有してきたわけではない。主として業界専門紙記者であったわけだから、専門用語に近いところにはいたかもしれないが、取材する側として、あえて専門用語を遠ざけてきた風(今思えば)もある。専門家に取材する場合、相手も非専門家だと知れば、説明は誤解がなるべく生まれないように配慮してくれることが多かった。


 少々横道に入るが、90年代半ばまで、取材される側は「録音」されることを嫌がる人が大半だった。現在ではセミナーやシンポジウムでは録音は禁じているところが多いが、個別取材で録音を嫌う人は少なくなった。ただ、その分、正確さは担保されると考えるのか、専門用語を使って取材に応答する人は増えたように思う。「わからなかったら自分で調べよ」ということかもしれないし、「録音」という行為で、発言や情報発信の責任の所在があやふやになったという側面もある。


 そうした一連の関心をここに記したのは、「トリアージ」という言葉がどうにも、私が考えているよりもイメージが拡散してしまったという印象があるからだ。それも極めて雑に使われている。


●災害・事故訓練で広まった


 私が取材の現場で「トリアージ」という言葉に遭遇したのは、20年ほど前、大学病院の災害救急医療のシミュレーション・トレーニングである。95年の阪神淡路大震災の教訓を得て、当時から関西地区ではこうした医療側専門家による訓練が教材化され、かなりリアリティの強いトレーニングが大規模に行われることが多かった。


 最初の取材は、大阪府の万博記念公園で行われたもので、地震、交通事故、工場火災、遊園地での遊具の事故、列車事故など7つほどの事故、災害が想定され、広い園内で状況に沿った対応を参加者がトレーニングした。医師、看護師、薬剤師などの専門家に混じって、ボランティアの人々が負傷者役で大勢参加していた。


 そのあと、大阪府内の民間病院でも同様の訓練が行われたが、それは近隣の工場で大規模事故が起こり、多くの負傷者が病院に運び込まれるという想定で行われていた。そこでは病院近くの美容専門学校の学生がボランティア参加し、負傷メイクアップが大変なリアリティで驚かされた記憶がある。


 最初の万博公園での訓練で、指導役の救急専門医が「トリアージ」という言葉を使って、緊急性の高い現場での負傷者の重症度の選別の重要性を強調していた。そのときが「トリアージ」に遭遇した最初だ。


 トリアージが、私だけではなく、一部の医療者にもよく知られていなかったと記憶するのは、その専門医が「トリアージ」という言葉を丁寧に解説し、覚えるように説いていたからだが、それから2年は経っていたと記憶する民間病院での訓練では、トリアージは常識的な災害救急医療用語として参加者すべてが使っていた。私の取材経験や記憶では、トリアージの概念は紛れもなく、この災害救急医療シミュレーションを通じて医療者に急速に浸透したのだと思う。


●死の判断もトリアージか


 現在、この「トリアージ」という言葉は災害時救急医療に限定されているわけではない。当たり前のように思えるかもしれないが、医療現場、あるいは療養・介護の現場でも使われるようになった。災害、事故救急だけでなく、患者の重症度、治療選択などで順位付け、優先度判定といった意味で使われるようになった。


 しかし、一般的にはいまだに災害時での負傷程度の「振り分け」という意味が公式化している。例えば、トリアージを広辞苑で引くと、「(選別の意)災害・事故で発生した多くの負傷者を治療するとき、負傷者の治療の優先順位をつけること。最も有効な救命作業を行うためのもの」と説明されている。また、多数のネットでの情報を見ても、未だに広辞苑の説明にほぼ準じていることが多い。


 問題なのは、こうした「災害時、事故時の負傷度判断基準」から意味が大きく拡大していくなかで、「生か死か」の判断を言う際にまで使われるようになってきたことだ。意味が拡大し、応用的に言葉が解釈されて広まることは別に非難するに当たるわけではないが、延命治療の是非論や、安楽死の論議にこの「トリアージ」が使われると、私には抵抗感が強い。


 生死の選別を議論するとき、トリアージはいかにも客観的で、そこに差別性や分断性がないという錯覚を生まないかという疑念がある。さらに、そこに関与する医療者の「専門家の選別」という優位的な色合いが濃くなるような気もするのだ。


●雑な医療の言い訳


「トリアージ」という言葉が、こうした「救命優先判定」の色彩も持ち始めたのは、コロナ禍における医療現場の混乱が大きく影響していることは間違いない。人工呼吸器、エクモの装着優先度を現場が「トリアージ」という言葉で説明した。


 トリアージ(選別)という点では、誤謬があるというわけではないが、災害、事故救急での「できるだけ多くの人命を救うための治療優先度判断」が、「できるだけ若い人を救うための判断」になった。そのことを説明する手段として「トリアージ」という言葉を使うことが相応しいだろうか。現実的に、「若い人」「高齢者」で振り分けるなら、トリアージという勿体ぶった言葉が必要なのかどうか。そしてその差配もその通りに行われているのかどうか。


 ALSヘルパー養成者の川口有美子氏と緩和ケア医の新城拓也氏の対談集『不安の時代にケアを叫ぶ』で、新城氏は21年8月の対談で、コロナ下でのトリアージは、健常者か障害者か、基礎疾患があるかないか、若年か老年かではなく、つまり医療資源の配分の問題ではなく、自らの体験では「勘」でしかないと語っている。その意味は、トリアージはその現場、現場である意味、「勘」のようなもので運用されることも多いのがどうやら現実であり、標準化されたり、基準のようなものがあるわけではないということであろう。


 新城氏は、さらにこうした「トリアージ=雑な医療の言い訳」が、ケアの力を弱めているとの分析を前提に、医療はコロナ以後「雑になってきた」との印象を繰り返している。そして、「雑になった分、人の命の取り扱いもすごく雑になってくる」と述べている。


 週刊新潮に連載コラムを持つ、がん専門医の里見清一氏は、2月9日号「決められない」で、人工呼吸器をつけるか否かの判断時に関して、「私はデフォルトとして年齢で決める(トリアージする)のが現実的で良い」と考えているものの、そう簡単には世の中には受け入れられないし、自らも、運命をスマホで指示されたくはないと語って、議論が雑に流れることへの警戒を示している。


 こうしてみてくると、「トリアージ」という言葉が、いくつもの場所でいくつもの解釈で使われ、便利に使われてどこか「まともな議論や主張」に見せる偽装にも使われているフシがある。災害・事故時の負傷度判定もあれば、コロナ医療現場の人工呼吸器などの使用優先度判定、延命治療の是非、安楽死の判断などで安易に便法的に使われていることに気付くのである。


 医療現場での新たな「トリアージ」という概念は、議論の始まりという印象から、それが安易に「雑な医療」や「生死の判断」、「安楽死の許容」へとつながる側面があることは理解しておきたい。そして、実は「かかりつけ医」という専門性やそれが制度化されるとき、トリアージはまた違う意味合いを持たないかという懸念も私は持っている。次回はそのことを考えてみよう。(幸)