週刊文春が先週から「疑惑の銃弾」と銘打って、安倍元首相殺害事件をめぐる医学的な疑問を報じている。第1弾は『安倍元首相暗殺「疑惑の銃弾」徹底検証』、第2弾は『昭恵夫人 暗殺映像を再生し「変ですよね…」』というタイトルの特集だ。


 記事によれば、山上徹容疑者の2回にわたる発砲のうち元首相に当ったのは2回目に発射された散弾6発のうちの2発(同容疑者が使用した手製の散弾銃は、1回につき球形の散弾6発が発射される仕組み)とされているが、致命傷となった1発は左腕から胸郭の中に入り左右の鎖骨下動脈を損傷させ、もう1発は右前方の首の付け根から体内に入り、右上腕骨に当ったとされる。後者の弾丸は体内で発見されたものの、前者は体外に飛び出した痕跡が見当たらず体内でなぜか消失、2発の角度は不自然なまでにずれていて、さらには当たらなかった4発のうちの1発も現場に見つかっていないという。


 後方からの銃声に左回りで振り返り、首の右前方に当ったとする傷跡は、確かに相当に体をねじり込む姿勢にならなければ不自然で、実はこの傷は弾が体内に入った「射入口」でなく体内から体外に飛び出した「射出口」ではなかったか、という見方も示されている。だが、いずれにせよ、この「疑惑追及記事」から感じるのは、もやもやとした未消化な感覚である。結局、これらの疑念は何を意味するのか――。


 ネット上ではすでに昨年からこうしたポイントは指摘され、「もうひとりの狙撃者」の存在を主張する説が盛んに唱えられてきた。だが、元首相の崩れ落ち方や3つ目の銃声が聞こえなかったことなどから、山上容疑者の2発目とピッタリ同じタイミングで誰か別方向から狙撃に成功した、という話は、『ゴルゴ13』並みの信じがたい神業に感じられる。文春記事もこうした見方には「陰謀論」と否定的だ。


 読者として知りたいのは、上記のような「不可解さ」が、銃創の司法解剖においてどの程度珍しい「不可解さ」なのか、という点だ。昭恵夫人のもとに返却された議員バッジやブルーリボンバッジには、銃弾が当たったのか、前者は6つ、後者は2つに割れていたという。また、体内で骨などに当った銃弾はどの程度、方向を変えるものなのか。この点について記事では「ものに当れば確かに数度は角度が変わります。ただし極端に方向が変わるとは思えない」という銃器ジャーナリストの談話で否定するだけだ。本当にそうなのか。


 そもそもこの手の司法解剖の全事例を分母として見たときに、今回の例が専門医たちの多くの意見として極めてレアケースと言えるのか、それとも人体に当たった銃弾の動きがイレギュラーになることはしばしばあり、射入口や射出口によって正確に銃弾の軌跡を復元することは困難、というのが現実に近いのか。


 この点がある程度、はっきりしないことには、記事が指摘する「不可解さ」をどう評価すべきか判断のしようがない。そしてもし、専門家たちの意見でも、今回のケースが「あまりにも異常」と言えるのなら、記事が指摘する奈良県立医大病院の救命医と監察医による司法解剖結果との乖離などの問題がなぜ、医療・警察関係者の間で追及・解明されないまま現在に至っているのか。そのことのほうがより不可解に思えてくる。中途半端な疑惑の「放り出し」は罪深い。それなりに納得感のある「取材班としての結論」を提示してほしい。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。