洪水のような情報に日々接し、多種多様な見解を知り得ても、信じたいこと以外には目を向けない。そんな相手との「絶望的な断絶」をさまざまに痛感する昨今だが、ウクライナ戦争の不条理は、その最たるものだろう。「プーチンの戦争」と早くから呼ばれてきたように、「独裁者の暴走とそれを止められない権威主義国のシステム」で、この戦争は説明されてきた。しかしここに来て、異なる見方も強まっている。プーチン流の「正義」は、実は国民の多数派に支えられているのだと。


 ニューズウィーク日本版の特集『ウクライナ戦争1年 ロシアの戦意』は、ロシアのそんな一面を描いている。表紙のタイトル下にあるリードには、こう書かれている。「『想定外』の苦戦続きでも戦争を諦めないロシアという国の不可解さと不気味さ」。そう私自身、「目からうろこ」というよりは、暗澹たる気分になる記事内容だった。


 とくにそう感じたのは、元ロシア国家経済・公共政策アカデミー特別教授という肩書を持つジョージタウン大学教授サム・ポトリッキオ氏による『それでもロシアは戦争をやめない』というスペシャル・レポートだ。それによれば、ロシアでは過去15年、徹底した歴史教科書の書き換えが行われ、スターリンによる残虐行為や旧東欧諸国に行った苛烈な支配の数々を「なかったことにした」という。ロシアの歴史に汚点は一切ない――。そんな教育の蓄積を背景に、帝政時代の暴君・イワン4世とスターリン人気が急激に高まり、両者の銅像を建てる話まで持ち上がっているらしい。

 

 そういった「愛国機運」のもと、リベラル派のロシア人の間でも、超大国としてのロシアの復活を望まない者はなく、ウクライナ戦争で強い意志と冷血さを見せつければ、西側にそれを思い知らせることができる、と考える人が多いのだそうだ。筆者はロシア人に多くの教え子を持ち、ロシア女性と結婚しているのだが、多くのロシア国民は制約の多い戦時下の生活にも「自分たちの超人的な適応能力を誇りに思っている」と説明する。


 筆者はまた、ロシア人の元同僚らにウクライナ戦争の行方について聞いたところ、反戦論者からも戦争支持派からも例外なく、最後にはロシアが勝利するという回答を得た。「ロシア人は国家を守るためなら、兵士の命を完全に使い捨てにする底なしの能力がある」。ある元同僚は、こういった覚悟が自分たちのアイデンティティーの一部にさえなっていると語ったという。記事を締めくくる一文が強烈だ。「ロシア兵の遺体を収容した大量のひつぎの帰国が続くことで、国民の戦争への支持はむしろ高まるかもしれない」


 国際社会からどのような目で見られても、一向に気にしない。むしろ国外から叩かれれば叩かれるほど、「愛国心」は昂まってゆく。実は私たち日本人もその昔、似た体験をした。国連を脱退した松岡洋右・首席全権を国民は熱狂的に出迎えたし、「お国のために死ぬこと」を、若者は当然の責務だと捉えるよう教育された。


 ウクライナ戦争をめぐる日本国内の議論を見て、不満に思うのは、「もし日本がウクライナの立場に置かれたら」という一方からの論ばかりで、ロシアの側に身を置いてみる想像がないことだ。外国に突如攻め入られた場合の備えは必要だろう。当然である。だが同時に、外国に戦争を仕掛けようとする指導者が現れたら、という想定も必要だ。ロシアを見れば明白だが、攻守どちらの側であれ、犠牲者は常に末端の国民だ。にもかかわらず、なぜか保守の人々は「日本がそんな戦争をするはずがない」という希望的観測で、一方のリスクをゼロと見做す。私には、国の指導部を無垢に信頼し白紙委任をする、そういった「お花畑さ」があの国の「愛国者」に重なって見えてしまう。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。