(1)丸くまん丸
名前のことであるが、最初は「木喰行道」(もくじき・ぎょうどう)と名乗っていたが、76歳の時に「木喰五行菩薩」と称し、89歳になって「木喰明満仙人」に改めた。一般的には、略して、「木喰」「木食」あるいは「行道」と言うことが多いようだ。この文章では、混乱を避けるため「木喰行道」とします。
木喰行道(1718~1810)を簡単にまとめると、次のようになります。
➀木喰戒を受けた。
②全国を廻国遊行(かいこく・ゆぎょう)した。
③1000を超える仏像を刻んだ。
④600を数える和歌を詠んだ。書画も残した。
⑤完全に忘れられた存在であったが、「民藝」を唱えた柳宗悦(1889~1961)によって、大正末期に再発見された。
最初に、和歌について。
木喰行道は、1000体を超える彫刻を残しただけでなく、歌人でもあった。代表作は、晩年に詠まれた次の2首であろう。
みな人の 心をまるく まん丸に どこもかしこも まるくまん丸
丸々と まるめまるめよ わが心 まん丸まるく まるくまん丸
皆が、この歌のようになれば、争いはなくなり、この世は極楽になると思うのだが、なぜか、人々は地獄の道を歩むのが大好きのようだ。
(2)木喰戒
1718年、甲斐国古関村丸畑(現在の山梨県身延町古関丸畑)の名主・伊藤家に生まれた。「身延」といえば、日蓮宗総本山・久遠寺(くおんじ)で有名であるが、木喰行道の誕生の地である「身延の丸畑」は、久遠寺から、相当離れている。丸畑には、身延町立「木喰の里微笑館」がある。行けば、すぐわかるが、丸畑は急斜面の土地である。当然、極めて貧しい山村であったに違いない。
名主の家に生まれたのであるが、貧困山村の名主であり、しかも次男である。おそらく絶望的貧困を感じたのだろう。14歳で家出して江戸に向かった。江戸で何をどうしていたのか不明であるが、22歳で出家した。家出しても、出家しても、事がトントン拍子で上手くいくわけでもない。出家しても、身分や差別など耐え難い苦悩が押し寄せたようだ。
45歳頃、苦悩の中、寺院内ではなく、全国の貧しき民と直接触れ合うため、廻国遊行の願望が強烈になった。「廻国」とは諸国を廻って歩くこと、「遊行」とは僧が修行・説法・布教のため諸国をめぐり歩くことである。「遊」の文字から、「楽しい遊び」を連想しないでください。
そして、常陸国水戸城下の真言宗羅漢寺(廃寺)の木喰観海上人(かんかい、1754~1829)のもとで、「木喰戒」を受けた。木喰観海上人は、さほど有名ではないが、江戸時代後半の木喰上人に関して、大きな影響を及ぼしたとされる。
「木喰」とは、五穀すなわち米・麦・粟・豆・黍(きび)、または稗(ひえ)を食べない、火食(かしょく)すなわち食物を煮炊きして食べることをしないで、木の実や草だけを食べて修行する。平安時代までは「穀断ち」と称した。「木喰戒」となると、それだけではなく、廻国遊行をする、勧進活動をする……など極めて厳しい戒律である。それを実践した者を「木喰上人」と呼んだ。『昔人の物語(87)』で紹介した円空、木喰観海上人、木喰行道、木喰行道の弟子である白道など多くの木喰上人が存在した。
しかし、我々凡人は思うのである。五穀を食べない、火食をしない。当然、肉や魚も食べない。木の実や草だけを食べるんだって……死んじゃうよ! 絶対に死んじゃうよ!……と思うのである。たぶん、ものすごく清貧ということではなかろうか。
木喰行道の弟子の白道も、有名な木喰上人でした。彼は、五穀をいっさい食べず、蕎麦・もろこしを1杯だけ、お茶も飲まず、湯を1杯だけ、と記録されている。でもな~、そんなことしたら、絶対に死んじゃうよ! 「徹底的に清貧を貫いた」ということではなかろうか。江戸時代は、「清貧」の価値が非常に高い時代であった。「清貧」の究極の姿が、木喰に繋がったのかもしれない。
一応、「清貧」について一言。物欲・所有欲が少なくなれば、内心の自由が大きくなる。逆も真なり。清貧の人は、宗教家、芸術家に多いようだ。
それにつけても、木喰の件を栄養士に尋ねてみようかな……。
なお、木喰上人は、民衆から絶大な人気を得た。白道が滞在していた寺には、1日に1000人が参拝した。その人気ゆえに、本寺から「ひさしを貸して母屋を乗っ取られる」と疑われ、追い出されたという出来事が発生したくらいだ。
(3)全国を廻国遊行
56歳になった木喰行道は、相模国(相州)から全国廻国遊行の第一歩を踏み出した。以後、死去するまでの37年間、北海道から九州まで廻国遊行した。
蛇足ながら、現代日本では高齢社会があれこれ言われるが、木喰行道は56歳から活躍した。93歳で亡くなるまで現役であった。とりわけ、後述するが、木喰行道の真骨頂は79歳頃からである。要するに、80歳代が最盛期であったのだ。
最初の全国廻国遊行は関東、そして北陸、東北。いったん郷里に戻り、1ヵ月滞在して、再び、東北へ、さらに蝦夷地(北海道)へ。
蝦夷地で、仏像の彫刻活動が始まった。一本木彫刻で、木喰行道が誰から習ったのか不明なので、もしかしたらアイヌから習ったのかな~と思ったりもします。最初は未熟な仏像であったが、急速に進歩した。既成の仏師とは、まったく異なる仏像となった。後年、柳宗悦は、「微笑仏」と呼んだ。
2年間で蝦夷地を離れ、関東、信州、そして、佐渡島へ渡る。4年間、佐渡で仏像彫刻、荒寺再建の活動をした。
2回目の帰郷は半月程度で、すぐさま信州から西国、そして1回目の四国巡礼をする。そして、九州へ。九州滞在は10年間に及んだ。
九州を離れ、中国路へ、その頃から、仏像彫刻の数が急速に増加した。木喰行道は、1000体以上の仏像を彫る決意をしたのである。79歳頃である。
そして、3回目の郷里。数年間、郷里でも布教に専念した後、また全国廻国遊行に出発した。越後(新潟)を旅し、少しだけ郷里に戻り、丹波(京都の西部)さらに甲州(山梨)へ、甲府善光寺で入定した。93歳である。
木喰行道の仏像に関して一言。初期のものは、普通の仏像だったが、79歳頃からは満面ニコニコ笑みをたたえているものになった。1000体以上を彫ると決心した頃である。それを見ていると、自然に心が和やかになる。そんな仏像である。冒頭の「丸くまん丸」の和歌を思い出してください。まさに、ピッタシです。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。