年寄りの「昔はよかった」的な青春回顧など、今どきの人には共感されないと十分承知しつつ、懐かしの母校の記事(しかも相当な昔話)をたまたま見つけると、ついつい嬉しくなってしまう(シニア層向けの誌面づくりに、まんまと引っかかってしまっている)。サンデー毎日で今週から始まった新企画『甲子園のキセキ』の1回目『北野高&湘南高の真実 1949年夏 湘南初出場初優勝』という記事である。もちろん「年寄り」と言っても、私はそこまで古い時代には生きていない。49年の甲子園優勝メンバーより30期も年下の湘南卒業生である。


 それでも私のいた時代も「伝説の甲子園優勝」は在校生の秘めたる誇りであり続けていた。とりわけ1年生レギュラーだった左翼手・佐々木信也氏は、そのころフジテレビ『プロ野球ニュース』のキャスターを務める超有名人だったため、OBとして時折ふらりとグラウンドに現れたりすると、野球部員でもないのにミーハー的に喜んでいた記憶がある(当時の野球部には映画監督・大島渚氏の息子もいて、試合観戦に来た大島氏と小山明子夫妻を見かけたこともあった)。


 サン毎の記事では、この佐々木氏が89歳の御年で元気に取材に応じている。そして自分が流し打ちがうまくなったのは、サッカー部の「いけ好かない石原慎太郎」が同じグラウンドにいたためで、その背中に打球をぶつけてやろうと狙い続けたためだったと思い出話に興じている(石原氏は佐々木氏よりひとつ年上だが、留年して卒業年次は同期だった)。この話は私たちの時代にも「都市伝説」的に伝わっていたのだが、今回のコメントを見ると伝説の発信源は佐々木氏ご本人だったようだ。同窓会などでの「つかみのネタ」だったのかもしれない。


 一方、この記事には、石原氏が美濃部亮吉知事に挑戦した最初の東京都知事選の際、佐々木氏がこの「宿敵」に頼まれて2日間、選挙カーに乗って応援して回ったことも書かれている(しかし石原氏は落選)。石原氏の同学年には右派論客となる江藤淳氏もいたのだが、どちらかと言えば、2人のようなタイプは湘南では少数派だ。少なくとも70年代には、佐々木氏が石原氏をディスるエピソードが喜ばれる程度には、リベラルな生徒が多かった(その後、三浦瑠麗氏のような卒業生が現れるのを見ると、過ぎ去った歳月の長さを痛感する)。


 ここ2年ほど私は、そんな佐々木氏らのほぼ同世代、昭和20年代の若者像について取材を重ねている(取材相手の平均年齢は実に90歳前後になる)。文化人や政治家、社会活動家などそれなりの著名人にまつわる話が多いため、存命もしくは物故者の多くの対象者が、各地の旧制中学(もしくは学制改革で新制高校になったばかりの後身の学校)の卒業生であり、同窓会名簿や同窓会報で逸話や人脈をたどってゆく作業を繰り返している。


 私自身は学制改革から30年もあとの人間だが、昭和20年代もしくはそれ以前の旧制中学に共通するバンカラで自由な雰囲気には、独特の美風があったように感じている。卒業後の生き方は人それぞれ、主義主張も保守から革新まで分かれてゆくのだが、青春時代に文化的・学問的土台を共有した者同士、そこには一定の相互理解が見て取れる。思想信条は違っても、相手のよって立つ思想にも最低限の知識を持つ。異なる主張でも認める点は認めるし、人間性へのリスペクトもある。とことん相手を「敵」と見なし、人間性まで否定しようとする昨今の「絶望的分断」には、旧制中学的な「共通する知的土台」がなくなった影響が大きいように思えるのだ。


 エリート同士の馴れ合いと言えばその通りで、こうした人的つながりを嫌悪する人もいるだろう。だが、価値観・基礎的教養の共有が微塵もない対立は、ひたすら過激化して殲滅戦になってしまう気がする。年寄り臭い懐旧趣味と言われれば、それまでのことではあるのだが。


………………………………………………………………

三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。