●資源不足とトリアージのパラドックス


 前回からこのシリーズの最後のテーマ、「人生100年時代の死とトリアージ」について、私が収集できた範囲での、「発信された情報」を眺めはじめた。私の関心は、「トリアージ」という言葉がどうにも、私が考えているよりもイメージが拡散してしまったという印象があるからだということも前述した。それもきわめて雑に。また恣意的に。


 前回は「かかりつけ医」にまで踏み込んでみたいと述べたが、少しその方向を修正して、トリアージそのものについて、いくつかの情報をさらに洗ってみたい。


 前回、「トリアージ」という言葉が、いくつもの場所でいくつもの解釈で使われ、便利に使われてどこか「まともな議論や主張」にみせる偽装にも使われているフシがある。災害・事故時の負傷度判定もあれば、コロナ医療現場の人工呼吸器などの使用優先度判定、延命治療の是非、安楽死の判断などで安易に便法的に使われていることに気付くことを明らかにした。そして、それが安易に「雑な医療」や「生死の判断」、「安楽死の許容」へとつながる側面があることを示した。


 このため、やはりトリアージとは何か、多様な意味を包含し、生死や尊厳死や安楽死の方便までに解釈が拡大する理由は何なのかをみておきたい。


●つきまとうトリアージの「嫌な感じ」


 神経内科専門医の美馬達也氏は、専門家グループの寄稿、編集で2021年7月に刊行された『反延命主義の時代』の中で、トリアージを取り上げている。彼は、新型コロナウイルス感染症が猛威をふるうなかで、重症患者対応で人工呼吸器等の重要なデバイス類が払底したとき、専門家集団から「再配分」のひとつとしての「トリアージ」が提言されたことに、生命倫理学的に「重い意味」を持つのではないかと<違和感>という表現で批判的な視点を明らかにしている。


 美馬氏は、その「合理的な医療資源配分」としての「トリアージ」という語感に「嫌な感じ」があると強調しながら、それはトリアージの語源から発生するかもしれないとして、「トリアージ」はもともとフランス語の「選別する」という単語から由来し、コーヒー豆や羊毛の品質を比べて選別することを指していたことを知らせる。「言葉自体が、人間の生命をモノとして扱う隠喩なのだ」。


 そうした前提から、トリアージをみていくと、その基本的な考え方は、全員を助けられない状況下で、最大多数を助けるという功利主義と近しい考え方の立脚点が見えてくる。辞書的に表現すると「治療の優先順位を決定するために患者を医学的にスクリーニングすること」ということになる。こうして論理的に説明されてくると、トリアージそのものは本質的に医療現場で唾棄すべきものではなく、実は必要な側面も大きいことは理解できる。しかし、スクリーニング以降の扱いが、実はトリアージをめぐる「嫌な感じ」、つまり感情的に整理しきれない問題の発火点になると思える。


 前回も触れたが、がん専門医の里見清一氏の「週刊新潮」コラム、人工呼吸器をつけるか否かの判断時に関して、「私はデフォルトとして年齢で決める(トリアージする)のが現実的で良い」と考えているものの、そう簡単には世の中には受け入れられないし、自らも、運命をスマホで指示されたくはないと語っている。議論は簡単ではないし、雑に流れてもならない。考え方の基本的立場は異なっても、トリアージの受け止めがどうしても「嫌な感じ」になるのは避けられないのである。


●インフラとしてICUを増床する


 語源はどうであれ、トリアージは災害時、軍事の2つの側面で1950年頃から整理され始めた言語であり、用法であり、ガイダンスされてきたものである。災害や戦争の現場で負傷した人の救急医療をどのように展開するかで編み出された論理だ、という点で納得できれば、それは非常に合理的な功利主義のポジティブな側面だということもできる。


 しかし、コロナ禍をきっかけとして、このトリアージが「嫌な感じ」のニュアンスをまとうようになったことは、「差別される生死」が現実感として市民の目の前に供給されたからだと思える。高齢者の多くは、自分がコロナに感染して肺炎が重症化したとき、人工呼吸器を提供されるのかどうか、危篤に陥ったときにエクモを配分されるのだろうかと考えただろうし、病床が払底し、医療崩壊が現実となった一瞬の時期に、ある意味相応の恐怖感が去来し、ストレスになったはずだ。「若い人を優先する」というメッセージには、モラルとして抗えない。


 美馬氏によると、トリアージが救急医療の現場、つまりERの世界でガイドライン化したのは米国で63年頃だという。また同氏は、80年代、やはり米国で生命倫理学がICUにおけるトリアージを論じた例題と実験を紹介しながら、ICUを限定的なインフラに規定し、マクロ的な思考として、病床自体を増やしておくという想定ができないことを、その例題や実験の欠格構造として指摘している。


●医療資源は備蓄できないのか


 ICU自体が医療現場における例外であり、ICU自体を実験場に考えると、「回復の見込みの少ない重症者(あるいは高齢者)と、ICU治療は本来必要のない軽症者をICUから除き、中等症者だけを診る」ことにすると、重症者あるいは高齢者はICUにおける例外ということになる。


 難しいのは、例外の状況下で、例外規定を作り、例外実例を重ねることで論理を肯定化することの是非である。確かに、年齢素因などを総合すると、重症度の高い人から医療資源を投下していくという一律的な対処には限界がある。治療の効率性を考えての医療資源や費用の投入はある意味、当然の判断ということにもなるかもしれない。


 しかし、今回のパンデミックから、医療現場でのトリアージを学ぶ、教訓化するということは、上記のような例外的規定をスタンダードにするという単純な理屈で了承していいのだろうかと思える。


 美馬氏が語るように、議論すべきは「病床自体を増やしておく」という「備蓄」の発想である。災害防衛策として、市民は水、食糧、通信手段、保温用資材、灯り、トイレなどの備蓄を求められ、1月17日、3月11日、9月1日には必ず「備蓄」のキャンペーンが行われる。医療資源だけは例外だという理屈は、たぶん、医療資源はあるだけ日常的に消費されないと無意味だという認識が関係者に共通化しているからであろう。


 卵が先かニワトリが先かになりそうだが、救急医療としてのトリアージ、パンデミック下でのトリアージは、医療資源を備蓄したくない側の論理に換骨奪胎されているように思えるし、よくよく考えればレトリックのようにも見えてくる。


●ACPというトリアージ


 もう少し単純化して考えてみると、医療資源はどうして不足しているのかという根源的な解を市民は得られないまま、コロナが日常化してしまったということである。例えば、あれだけ不足が嘆かれたマスクについて、不足だという状況にはない。しかし、医療資源、例えば病床、例えば発熱外来、例えば医療従事者、などという資源の不足は変わらない印象のまま、放置されている。医療資源が不足している(というイメージ戦略)、だからトリアージを市民の常識の内に入れなければならないという暗黙の了解がつけられようとはしていないか。


 筆者はコロナが第5類になることが、市民の暮らしが日常化することだとシンプルに考えることに抵抗はあるが、それでもコロナ禍を通じて、「医療資源不足」はいつでも起こる話であり、そのためにトリアージという概念を常識化しなければならないという奇妙なロジックがいつの間にかできあがっていることに気付く。どうだろうか、すでに団塊の世代以上の後期高齢者たちは、実はACP(アドヴァンス・ケア・プランニング)というトリアージの網の中にいるのではないだろうか。(幸)