中国の国会に相当するとも言われる全国人民代表大会(全人代)が終わった。大方の解説通り、習近平・中国共産党総書記が国家主席になり、新首相には李克強氏に代わり李強氏が就任した。「克」が抜けた人だという向きもあるが、各紙は習主席の忠実な人だと書いている。それ以外の選出された人たちもすべて習主席に近い人たちだそうで、習主席の独裁色が強まったともいう。


 だが、この人事がごく自然に納まったことで最もホッとしているのは習主席自身ではなかろうか。というのも、昨年秋の二中全会(第2回中央委員会)で、習主席は3期目の総書記に選出されている。中国共産党のトップである。党のトップが国家主席になることが決まっているから、今回の全人代で国家主席になることになっていた。


 ちなみに、国家主席というのは国家元首を意味する。アメリカなら大統領であり、イギリスならチャールズ国王、ということになる。しかも、国家主席の名称は比較的新しい。かつて毛沢東総書記が外国を訪問したとき、訪問国で余り大事にされなかったことがある。理由は毛沢東が総書記で、中国のトップだといっても、訪問先の国は政府の代表ではない、中国共産党という一政党のトップに過ぎない、という扱いだったのだ。驚いた中国共産党と中国政府は「国家主席」という制度を作り、国家元首だ、とすることにしたのだ。


 こうした例は私も耳にしたことがある。東急電鉄グループで取締役をしていたA氏の話である。


 当時、土光臨調が国鉄の民営化を進めていたときで、東急の五島昇会長は土光会長から「東急からも人を出してくれ」と言われ、側近のA氏を臨調に派遣したのだ。そんな最中、オーストラリアに五島会長が行くときにA氏も同行したそうで、飛行機がメルボルンに到着したとき、迎えの車が東急の手配したハイヤーと日本大使館差し回しの公用車の2台が迎えに来ていた。


 五島会長は東急が用意した車に乗り、A氏は大使館差し回しの車に乗ったという。これに不満を呈したのが五島会長で、「オーナー会長がハイヤーで、部下の君がどうして大使館の車に乗るのだ」と文句を言う。すると、A氏は即座に「それは仕方がありませんよ。五島さんは一私企業の会長ですけど、私は臨調の参与です。政府の一員ですから」と言ったという。五島会長は「もう、お前とは一緒に海外に行かない」と言い、それ以後、海外訪問には通訳を連れていった、とA氏が語ってくれた。


 中国国内では総書記で威張っていられるが、外国では国家主席でないと大事にしてくれないのだ。


 それはともかく、党大会で習氏が筋書き通り、総書記に選出された。後は今年3月の全人代で憲法を改正してまで決めた3期目の国家主席に就任する儀式だけだった。だが、その後に起こったのが「ゼロコロナ」政策への反発だ。


 テレビで見た人も多いだろうが、今までと違い、ゼロコロナに怒った市民が公安警察の外出禁止用に用意した柵を押しやり、公安警察を押し込んだのだ。公安警察は なすすべがなく市民から押し出される状態だったが、こうした抗議行動が上海、武漢、大連……など大都市で次々に続出した。


 この騒動から習主席は即座に「すでに中国はコロナを克服した」と称してゼロコロナ政策を撤廃した。その後に起こった内モンゴル自治区での炭鉱事故でも習主席は即座に救出と支援を行なった。今までからは想像できないような素早い動きだった。


 このゼロコロナ政策の撤廃を日本の新聞も欧米の通信社も「コロナを克服したのではなく、3年に及ぶゼロコロナ政策で経済が行き詰まったからだ」と伝えた。この報道は正しいのだろうか。中国の歴史を知らないからこういう理由づけを行なったのではないか、と思える。確かに経済が行き詰まってきたのは事実だが、ゼロコロナの撤廃の理由は少々、違うだろう。


 習主席と側近たちは、中国共産党の支配が、政府が一気に崩れかねない、という危機感を抱いただろう。多分、肝を冷やしたはずだ。


 中国では古代から「禅譲か、革命か」という思想がある。最近は「革命か、放伐か」と使うらしいが、中国古代史の教授は「革命か」と言っていた。政権の交代期の思想で、皇帝は徳が必要であり、あとを継ぐ息子がボンクラの場合は、優秀な部下に政権を禅譲すべきで、禅譲しない場合は革命を起こして政権を奪取することが正義である、とする思想だ。儒教に基づく思想だから、後の『史記』に書かれたものだろうが、この「禅譲か、革命か」という思想は中国人の頭に染みついている。


 もっとも、この思想を悪用したのが毛沢東の「造反有理」という看板を掲げて起こした紅衛兵事件だ。造反には理由がある、と言い立て、中国共産党と政府を批判し、要職から追放し、地方に下放させた紅衛兵事件である。毛沢東夫人の紅青が主導した紅衛兵事件では、世間に無知な中学生、高校生を使ったのだから滅茶苦茶というしかない。ただ、禅譲か、革命か、という思想が中国国民の中にあるからできたことだ。


 もともとは、古代中国で最初の国家とされる夏の建国が禅譲によるもので、その後、夏から殷、殷から周に皇帝が変わるときには革命による政権交代だとされている。政権簒奪と言わず、わざわざ革命だ、放伐だ、と徳を前面に出すのがいかにも中国らしい。


 歴史が下ってもこの思想は変わらない。豊臣秀吉は明を征伐すると言って、朝鮮出兵をし、失敗したが、このときの明が清に代わるとき、中国各地で暴動が起こった。そのひとつが満州地域に住むモンゴル系女真族(満州族ともいう)で、万里の長城で明の武将と争った。このとき、明の皇帝は武将が反乱に加わっているのではないかと疑ったことで、武将が腹を立て女真族に万里の長城の入り口を教えて内地に手引きしたと言われている。これが決め手になって明は滅亡。満州族が清を建国する。このときも「革命だ」「放伐だ」とされている。


 清が滅びるときも同様だ。旧ソ連がモンゴルから朝鮮への進出を狙い、日本は満州に進出、イギリスは香港を植民地化し、上海はドイツやフランス、日本が治外法権の租界をつくったとき、中国国内にいくつもの軍閥が蜂起したことはよく知られている。こうして政権が変わるのだが、最終的に皇帝になったのは、いや、支配したのは毛沢東率いる中国共産党だったのだ。


 以来、90年。習首席のゼロコロナ政策に不満を持つ市民が各地で反政府の暴動を起こしたのである。習氏にとっては政権が放伐される、と感じたはずだ。経済を回復するためよりも政権が奪取されるかも、と恐れ、ゼロコロナ政策を放棄したというべきではないか。


 習氏にとってはゼロコロナ政策放棄で、何百万人がコロナに感染しても構わない、コロナ検査所で使用する検査薬のメーカーは中国共産党の元幹部が支配しているが、彼らの利益を放棄してでも、ゼロコロナ政策を放棄しないと政権がひっくり返るかもしれない恐れがあったのではなかろうか。各地で起こった市民による暴動を抑え、政権を維持するために動きが迅速だったのである。おかげで放伐、革命は阻止できた。幸か不幸か、中国共産党の支配も習近平首席の立場も安泰になったと言えるだろう。


 映画「ゴッドファーザー」でコルネオーネ一家のアイルランド系コンシリオーリ(顧問)のトムが「イタリア人の帽子をかぶったら、ボスのマイケルが何をやっているかわかったよ」というセリフがある。ゼロコロナ政策放棄も外から見るのではなく、中国人の帽子、中国共産党の帽子をかぶってみれば、真実が見えてくる。


 習氏は各都市での暴動に冷や汗をかいていたはずである。ドストエフスキーはマルクスの『資本論』が出版されたとき、「共産主義革命が起こるのは先進国のフランスに違いない」と、パリにアパートを借り、その瞬間を見ようと待っていたら、モスクワから「革命が起こった」という電報を手にしてびっくりした、という真実かどうか不明の逸話がある。残念ながら中国では「革命」も「放伐」も起こらなかった……。(常)